2010年03月28日

朝の栄光と真夜中の太陽

先日、テレビのドキュメンタリー番組で「モーニング・グローリー」を撮影するとか言っていたので、何の事かも分からないままに見てしまいました。「モーニング・グローリー」を直訳すれば「朝の栄光」です。あるいは「朝顔」の花です。しかし、これは、時折オーストラリア北東部などで見られる気象現象なのだそうです。

高度二千メートル上空に、巨大なロール状の雲の帯が、長さ千キロメートルにもわたって延々と続いているのです。しかも、一時間に60キロのスピードで移動するのです。その雲の帯が三列に並んでいる珍しいケースもあるそうです。英語では「モーニング・グローリー・クラウド」と言うのだそうです。早朝に起こることが多いので、そんな名前が付けられたのでしょう。聖書の中では、「雲の柱」「雲に乗る者」「雲のように囲む証人」等、「雲」が神の臨在や栄光を表わすシンボルである事も思い出されます。

この「モーニング・グローリー」という用語を耳にして、私は、大昔の映画を思い出しました。キャサリン・ヘップバーンとダグラス・フェアバンクス・ジュニア、アドルフ・マンジューが共演した『勝利の朝』(1933年)です。まさしく原題が「モーニング・グローリー」でした。ブロードウェイに憧れて上京した娘が、我儘な主演女優が降板したために、主役の座を射止める(一夜明けると、「朝顔」が咲いていたように)という定番です。後に、スーザン・ストラスバーグ主演の『女優志願』としてリメイクされました。

それから次に、バーブラ・ストライサンド主演の『スター誕生』(1976年)を思い出しました。これは、ジャネット・ゲイナー版(1937年)、ジュディ・ガーランド版(1954年)に続く三度目の映画化です。ロックシンガーの話に変えてありますが、妻が大スターになり、夫が落ちぶれて自滅するパターンは同じです。

この映画の主題歌の中に「Two lights that shine as one, /Morning glory and midnight sun」という一節があったことが思い出されたのです。ポール・ウィリアムズが詞を書いていて、その年のアカデミー主題歌賞を受賞したのでした。「ふたつの光がひとつに結ばれて輝く/それは朝の栄光と真夜中の太陽」と、そんな風な歌詞でした。

そうすると、俄然、気になるのが「ミッドナイト・サン/真夜中の太陽」です。調べてみれば、これまた気象用語にありました。極圏内で、真夏、もしくは真冬に見られる「真夜中の太陽」というものがあるのだそうです。

こうしてみると、「朝の栄光」と「真夜中の太陽」とは同時に存在できないものだということに気付きました。朝と真夜中という時間の別のみならず、その気象現象が発生する地域も全く違うのです。ポール・ウィリアムズの歌詞がとても重く胸に沁みました。私たちの命は重なり合うことはないのです。しかし、いつの日か、その命の光が一つに結ばれる、そんな日が来るのを信じて待っているのです。


【会報「行人坂」No.240 2010年3月28日発行より】

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キリスト教こんにゃく問答Y 「十字架のキリスト」

1.神の子が死んだ

私たち、キリスト信者にとって一番大切なのが「キリスト」です。問題は、それでは実際に「どのようなキリストを、私たちの主と告白するのか」ということです。パウロは繰り返し「私が告白するのは十字架のキリストだけだ」と述べています。

「わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが…」(第1コリント1章23節)、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた…」(同2章2節)。

「十字架のキリスト」、この言葉が意味しているのは、神の子が死んだ、救い主である御方が殺されてしまったという大きな「逆説」です。本来ならば、キリストは死なないのです。祭司長や律法学者、長老たち、見物人、一緒に十字架に磔にされた強盗までもが罵ったように、神の子ならば、十字架の上で死ぬはずはないのです。しかるに、我らがイエスさまは、ユダヤ人が「呪い」として特に忌み嫌う十字架の上で、絶望の叫びを上げて息絶えるのです。これがキリストであるはずはありません。

2.最初の信仰告白

ところが、何たることでしょうか。その一部始終を見詰めていたローマ軍の百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と呟くのです。史上初の信仰告白は、ユダヤ人ではなく異邦人、弟子たちの誰でもなく見ず知らずの赤の他人、しかも、磔刑を現場で陣頭指揮した責任者、そんな人物の口から発せられたのです。この事を「共観福音書」(マタイ、マルコ、ルカ)が揃って証しています。

更に言うなら、復活した「栄光のキリスト」を仰ぎ見て「この人こそ神の子」と告白したのではありません。十字架の上に血まみれになって凄惨な最期を遂げた、イエスの生々しい姿を間近に見て、「この人こそ…」と言うのです。

ここに「共観福音書」のメッセージが込められているのです。それは、パウロが言うように、誰の目にも鮮やかな「栄光のキリスト」ではなくて、誰もが目を背ける「十字架につけられたキリスト」を敢えて告白すること、これこそが、本当のキリスト信仰なのだというメッセージなのです。

旧約聖書の信仰、律法を重んじるユダヤ人には、それが出来ませんでした。つまり、この信仰は旧約以来の伝続からは完全に断絶しているということです。イエスさまと寝食を共にした弟子たちにも、それは出来ませんでした。つまり、この信仰は人間関係(信頼や友愛)の中から生まれたものでもないということです。

旧約以来の信仰の伝統も、人間的な深い繋がりも何もない、全く断絶した所に生まれた飛躍こそが、この信仰告白なのです。そして、これらの福音書が編纂されるズッと以前に、それを宣べ伝えて行ったのがパウロという人だったのです。

パウロがコリントの町に宣教に来だのは紀元50年頃、「コリントの信徒への手紙T」が書かれたのは、パウロのエフェソ滞在時、紀元55年頃と言われています。最も早くに編纂された「マルコによる福音書」ですら、その成立は紀元65〜70年と推定されています。むしろ、パウロの強調する「十字架のキリスト」が、各地の教会の信徒の心に受け止められ、その影響下に「共観福音書」は成立したと見るべきでしょう。

3.逆説と矛盾の間

一見すると似ているようですが、「逆説」は「矛盾」とは違います。キリストなのに十字架の上に死んだという信仰を、ユダヤ教徒ならば「矛盾」(concradiction)として退けるでしょう。「キリスト」と「十字架」、二つの命題は互いに相反するからです。しかし、私たちはそれを「逆説」(paradox)として受け止めるのです。常識や論理を振り回すだけでは決して達することの出来ない「真理」がある。それが「逆説」です。

「十字架につけられたキリスト」は、その「逆説」の最たるものです。ユダヤ教の伝統からすれば「躓き」でしかなく、ヘレニズムの知性や教養から見ても「愚か」としか映りません。しかし、何人であろうと、その受難(passio)の有様に深く心打たれた(passionalis)人にとっては、「十字架のイエス」こそが本当のキリストなのです。私だちと共に苦しみの世を歩み、私たちのために十字架の上に死なれたキリスト、それ以外のキリスト等は宣べ伝えようとは思わないのです。

西南学院大学の青野大潮教授(新約聖書学)は、この「逆説」を説明するために、よく「片足のエース」の話をされていました。

第48回全国高等学校野球選手権、夏の「甲子園」、福岡県地区予選で「片足のエース」として評判になった島石正美投手を覚えて居られるでしょうか。彼は小児麻疹で右足の自由が利かないというハンデを背負っていました。しかし、彼の速球とチームワークによって、ついに地区代表決定戦にまで勝ち進みます。ところが、相手チームも必死です。ピッチャーが足が不自由なのを承知で、バント攻撃に打って出たのです。満場の観客からは相手チームに「卑怯者!」「恥を知れ!」と非難轟々です。結局、健闘したものの、島石投手のチームは敗れ去りました。

その試合後、継続して「片足のエース」を取材して来た朝日新聞の記者が、島石投手を慰めようと訪ねて来ました。しかし、彼はこれまで見たこともないような晴れやかな表情をしています。「悔しくはないのか!?」と尋ねる記者に、彼は笑顔で答えたということです。「悔しくはありません。初めて一人前の投手として扱って貰つたのですから」。

これが「逆説」ということです。

4.罪から贖われる

十字架の上で凄惨な最期を遂げたイエス、「神よ、見捨て給うたか!」と断末魔の叫びを上げて息絶えたイエス、「呪いの木」に掛けられて汚れた骸と成り果てたイエス、罪人として強盗や追い剥ぎと一緒に処刑されたイエス、神がお助けになるどころか、弟子たちからも見捨てられたイエス、自分のためには何の奇跡も起こせなかったイエス、鞭打たれ、唾され、釘付けされた惨めなイエス…。

実に、このイエスこそがキリストであったと言うのです。私たち、人間の深い罪を贖うために、私たちに成り代わって、十字架の上に死なれた。そして、神と私だちとを和解させられた。具体的には、私たちの罪を清算して、御前に立つ者として下さった。つまり、罪から救い出して下さった。

これを「贖罪/あがない」と言います。ヘブル語で「キップーリーム」、ギリシア語で「アポルトローシス」と言いますが、いずれの場合も、代金を払って奴隷を買い取ることを意味します。日本風に言えば「身請け」です。

勿論、宗教的に「罪からの解放」として理解されていますが、奴隷や遊女、借金に追われる人、心身の病気や障碍を負った人、弾圧され搾取される人、差別や虐待を受ける人にとっては、「解放」の意味はストレートです。しかも、十字架の受難を生きられた御方であればこそ、これらの苦しみ痛みを実際に知っていて下さるのです(ヘブライ2章18節)。

さて、これらの教説は、パウロが発明したアクロバティックな「逆説」なのでしょうか。単なる「教説」ではなく、もはや「信仰」としか、私には言いようがありません。圧倒的なパッションを私は感じるのです。それは「十字架の下で打ち震える百人隊長」の姿に象徴されているものです。それまで長い年月、隠されていた真実に出会った時の身の震えとでも言いましょうか。

そうです。キリストの贖罪の動機は、まさに「愛」ということでした。この事実に気付いて、これに触れた瞬間に、私たちの論理や人間的な説明は「十字架のキリスト」の前に脆くも崩れるのです。これが十字架を見るという信仰の体験なのです。


【会報「行人坂」No.240 2010年3月28日発行より】

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3月第4主日礼拝

       3月28日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”見捨てられて”           朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 15章33〜41節(p.96)
賛 美 歌  27、309、490、297、313、88
交読詩篇  86編5〜10節(p.98)
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2010年03月21日

3月第3主日礼拝

       3月21日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”生ける屍者(リビング・デッド)”  朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 11章38〜44節(p.190)
賛 美 歌  27、309、490、525、298、88
交読詩篇  86編5〜10節(p.98)

賛美歌練習 (4月の月歌:318番)  礼拝後   於 礼拝堂
昼食サービス(カレーライス:300円)  礼拝後   於 階下ホール
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2010年03月14日

3月第2主日礼拝

       3月14日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”十字架に主を見たか?”       朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 15章21〜32節(p.95)
賛 美 歌  27、309、490、305、300、88
交読詩篇  86編5〜10節(p.98)
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2010年03月07日

3月第1主日礼拝

       3月 7日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”あなたはメシアです”        朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 8章27〜33節(p.77)
賛 美 歌  27、309、490、405、74、88
交読詩篇  86編5〜10節(p.98)
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