2011年03月30日

キリスト教こんにゃく問答[「神の子」

1.実子と養子

「新共同訳」では無くなりましたが、以前の「協会訳」には「子たる身分」という訳語がありました。「ヒュイオテシア」というギリシア語です。パウロ書簡の中では、繰り返し、独り子イエスをさえ惜しまぬ神さまの愛によって、私たちは「子たる身分」にされたと言われています。

「新共同訳」では「神の子にする」という風に動詞形で訳されるようになりました。しかしながら、「ヒュイオテシア」は「養子縁組」を意味する、ローマの法律用語なのです。イエスさまが「神の子である」と言っている場面では、別の語「ヒュイオーテス」が使われています。つまり、用語を変えて厳密に区別されていたのです。

同じ「子」(ヒュイオス)でも、「実子」と「養子」とでは違う。そう言いたいのでしょうか。なるほど、(日本社会と同じように)血縁を重んじる旧約聖書の世界では、養子縁組の例は数える程しかありません。モルデガイがエステルを養女にした記事くらいしか思い浮かびません(しかも、この両者には血縁があります)。

しかし、古代アッシリア、バビロニア、エジプトやローマでも、養子縁組は広く行なわれていました。ファラオの王女がモーセを養子にする逸話が「出エジプト記」にあります。小説と映画で有名な『ベン・ハー』では、主人公ユダ・べン・ハーがローマの軍司令官クインタス・アリウスの養子に迎えられます。それらの物語には、実の親子以上の「絆」の意味が表現されているように思われてなりません。

キリストの十字架によって罪を赦され、罪人たる私たちも款われたという信仰告白、この告白を通して初めて、私たちはキリスト者とされるのです。それは「救いの条件」というような事柄ではなく、「神と民」という関係性の中に、自らを位置付けるためのプロセスなのです。それは丁度、養子縁組に際して、証人を前にして、公式に、養子が両親の下に引き取られる手続きを思わせるのです。このように、パウロが使った用語一つの中にも、「ユダヤ民族のためのユダヤ教」から「諸民族のためのキリスト教」へと転換しようとする積極的な意識を伺うことが出来るのです。

因みに、英語では、実子養子の区別なく「子であること」は「サンシップ」です。「友情/フレンドシップ」「共同経営/パートナーシップ」「指導力/リーダーシップ」「運動家精神/スポーツマンシップ」等と同じく、共に一つの「舟」に乗っているのです。

2.神の子と人の子

古代エジプトでは、ファラオ(ヘブル語の発音では「パロ」)は「神の子」と言われていました。それは名付けにも表われています。「ラメセス」は「太陽神ラーの子」、「トトメス」は「知恵の神トトの子」です。「メス」とか「メセス」が「…の子」なのです。「モーセ」の名前も、この「メス」が語源だと言われています。新約時代には、ローマ帝国の皇帝も「ディヴィ・フィリウス/神の子」と呼ばれていました。多かれ少なかれ、古代の権力者たち、支配者たちは自らを「現人神」と位置付けていました。

そのような王権に対する反発もあってでしょうか、旧約聖書では「神の子」という語は殆ど使用されていないのです。ユダヤ教徒にとっては、異教の臭いを醸し出す語だったのでしょう。あるいは、身辺に、そのように自称する者がいるとしたら、常軌を逸した異端者でしか無かったのでしょう。従って、メシアの称号として用いられるのは、専ら「人の子」の方なのです。

新約聖書においても、事情は基本的に変わりません。「人の子」が「共観福音書」に69回、「ヨハネ福音書」に12回も頻出するのに比べれば、「神の子」の使用頻度は低いと言わざるを得ません。しかも、「共観福音書」では、イエスさまは御自身を「人の子」と呼ぶことはあっても、決して「神の子」とは言われないのです。

イエスさまを「神の子」と呼ぶのは、誘惑する悪魔、汚れた霊、悪霊、「信仰の薄い」弟子たち、ペトロ、十字架の見物客、祭司長・律法学者・長老たち、そして、ローマの百人隊長なのです。ペトロの「信仰告白」が、その直後にお叱りを受ける程度の薄っぺらなものであることは周知の事実です。従って、百人隊長の「告白」だけが「真実の言葉」として評価されているのです。唯一、ユダヤ教の伝統から外れた百人隊長の「神の子」告白が承認されているのです。

「神の子」は、「人の子」に比べれば、第二次的な用語と思われます。キリスト教信仰を受け入れて、「イエスをキリスト」と告白した結果として、この称号が意味を持つのです。キリスト教信仰の確立と共に、「神の子」の称号が、漸く市民権を得るように成ったのです。

3.先在のキリスト

しかしながら、この「神の子」の称号にも、「養子論」と「先在論」があるのです。「肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマの信徒への手紙1章4節)。これは、あたかも「養子縁組」を思わせる表現です。復活によって初めて、「神の子」とされたかのような印象を受けます。キリスト「養子論」は、王や皇帝が神として扱われる「神化/アポテオーシス」を想起させます。それで次第に、この考えは廃れて行ったのです。

それに対して、神さまが「実子」であるイエスさまを地上にお遣わしになったというのが「先在論」です。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」(ローマ8章3節)、「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは…わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤの信徒への手紙4章4〜5節)、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネによる福音書1章18節)。

天地創造以前から、神さまと共にあった御子が、地上に遣わされ、また天に帰られて、世を支配しておられる。この「キリストの先在」という考え方が、今でこそ主流に成っていますが、キリスト教信仰が生まれた時代には、色々な考え方があったのです。


【会報「行人坂」No.242 2011年3月27日発行より】

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