2012年10月08日

10月第2主日礼拝(神学校日)

      10月14日(日) 午前10時30分〜11時40分
奨  励 ”小さな働き”    原 龍馬神学生(農村伝道神学校)
聖  書  使徒言行録 6章1〜7節(p.223)
賛 美 歌  27、183,490,493,522,25
交読詩篇  8編1〜10節(p.14)
posted by 行人坂教会 at 15:37 | 毎週の礼拝案内

2012年10月02日

10月第1主日礼拝(世界聖餐日、世界宣教の日)

      10月 7日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”少年のお弁当”          朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 6章1〜15節(p.174)
賛 美 歌  27、183、490、198、375、78、25
交読詩篇  8編1〜10節(p.14)
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2012年10月01日

秋の夜に、蚊を見る

1.哀れ蚊

就寝前の小用を足していたら、何かが視界の端を霞めましたので、無意識に両手でパチンと叩きました。すると、小さな蚊が墜落して行くのが見えました。ほんの1週間程前まで、こちらが必死に叩き潰そうとしても、私の裏をかくかのように、したたかに立ち回っていたのですが、もはや、そんな活力はありませんでした。

白黒の縞模様の憎らしい藪蚊ではありません。潰すと赤い鮮血を掌に残す忌々しい吸血虫ではありません。もう弱り果てているのです。腰を下ろして、床の上に墜落した蚊を、よくよく見れば、未だヒクヒクと動いているではありませんか。生きているのに、死ぬのを待つばかりなのです。

幼い日に耳にした「哀れ蚊(あわれが)や」と、母親の囁く声が頭の中に甦って来ました。「秋になったのに、辛うじて生きている、でも、もう産卵を終えて、死ぬのを待つばかりの蚊を、哀れ蚊と言うんや」。

産卵を終えたのですから、メスの蚊に違いありません。しかも、オスの蚊などは、卵を産み付けるや、直ちに死んで行く運命ですから、母の言う「哀れ蚊」がオスであろうはずはありません。しかし、どう仕様もなく、私には「哀れ蚊」がオスに思われてしまうのです。それは、愚かな自己憐憫の反映に過ぎないのでしょうか。

2.垂れ絹

そう言えば、弱々しい声の例えに「蚊の鳴くような声」と言い、か細い脚の例えに「蚊の臑」と言います。「蚊の涙」は「雀の涙」の更にミクロ版です。敵の攻撃に何の痛手も受けていないと威張る時には、「蚊の食う程にも堪えぬわ」等と言います。漢字で「蚊脚」は「細い字」の例え、「蚊軍」は「敵の軍勢」を貶める物言いのようです。

因みに、英語の「モスキート」はスペイン語から来ているそうです。子供の頃に見た『モスキート爆撃隊』(Mosquito Squadron)という戦争映画がありました。ナチスのV3ロケットの開発基地を攻撃する英国空軍「モスキート隊」の話ですが、低空高速爆撃機がベニヤ板で出来ていたのが忘れられません。偶然、エイリアンの血を吸った蚊が体長2メートルに巨大化する『モスキート』(Mosquito)というB級怪獣映画もありました。

聖書には「蚊」は出て来ません。但し、旧約聖書続編「ユディト記」13章に、傑女ユディトが、アッシリア帝国の将軍、ホロフェルネスの寝首を斬り落とす場面に「蚊帳」が登場します。酔い痴れて眠りに就いたホロフェルネスの寝台に行き、彼女は「力いっぱい、二度、首に切り付けた。すると、頭は体から切り離された。ユディトは体の方を寝台から転がし、天蓋の垂れ絹を柱から取り外した」と書いてあります。この「寝台の垂れ絹」と訳されているのが「蚊帳」ではないかと言われています。

残念ながら、この後の将軍の首に対する扱い方が、如何にも粗忽と言わざるを得ません。「猶予せずに外へ出て、侍女にホロフェルネスの首を手渡すと、侍女はそれを食糧を入れる袋に放り込んだ。そして、二人は、いつもの通り祈りに行くかのようにして出て行った」。どうか、願わくば、グスタフ・クリムト描きし『ユディト』のように、ホロフェルネスの生首を腰に纏わり付かせて、艶然と微笑んで欲しかった。しかし、実際の聖書の描写は、今風に言えば「スーパーのレジ袋に入れて、生ゴミ回収の日に集積所にポイ!」です。何と即物的なことでしょう。これでは、まるで、桐野夏生の小説『OUT/妻たちの犯罪』と同じです。

3.蚋と蚊

限りなく「蚊」に近いのが「出エジプト記」8章の「蚋の災い」です。エジプトに下された「十大災厄」の3番目です。日本語聖書には「ぶよ」と書いてありますが、日本の学術語では「ぶゆ」が正式だそうです。英米の註解書では「Prosimulium yeroense」と同定されていて、和名に直せば「きあしおおぶゆ」と言います。しかし、取り敢えず「蚋」と訳されてはいるものの、ヘブル語の「ケーン」が「蚋」と確定した訳ではありません。「蚊」も「蚋」も含めた害虫なのでしょう。

「蚋」と言えば、新約聖書にも出て来ます。「マタイによる福音書」23章24節、律法学者とファリサイ派の人々の偽善を非難して、イエスさまはアジって居られます。「あなたたちは蚋1匹さえも漉して除くが、駱駝は飲み込んでいる」。

蚋は人や家畜に付くだけではなく、飲み物の中にも落ちるので、ワイン等を漉して飲む必要があったようです。偽善者は「蚋1匹は漉している」、つまり、儀式上の些細な事柄には拘っているのに、「駱駝は飲み込んでいる」、つまり、最も大事にしなければならない教えを捨て置いているということです。

古代ユダヤにも「昆虫食」はあって、「レビ記」11章には「蝗の類は食べて良い」と明記してあります。しかし、それ以外の「羽があり、4本の足で動き、群れを成す昆虫は全て汚らわしい物である」そうです。昆虫は「6本足」なのに「4本の足で動く」とは何のことなのか見当もつきませんが、ともかく、食用可の昆虫は「バッタ、蝗の類」だけで、それ以外の昆虫は全て「汚らわしい物」だったのです。

きっと、律法に忠実な人たちは、そんな「汚らわしい物」が誤って喉を通らないように、細心の注意を払い、慎重にワインやミルクを漉していたのでしょう。勿論、私たちだって、飲み物に蝿や虻、蚊や蚋が入れば、衛生上、取り除いて飲むか、捨てる等します。

忘れられがちですが、駱駝もまた、食べてはいけない動物でした。「蹄が分かれただけの生き物は食べてはならない。駱駝は反芻するが、蹄が分かれていないから、汚れた物である」(レビ記11章4節)。駱駝に対する食物禁忌があることが前提に成っているのです。

牧師 朝日研一朗 朝日 です。

【2012年10月の月報より】

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