2012年10月23日

天の万象を見よ

宮崎港から大阪南港に向かうフェリーに乗りました。お盆のUターンラッシュの最中でしたから、「三等客室」が取れただけでも、大変にラッキーだったと言うべきでしょう。日本のフェリーに「三等」があるか…ですって。「特等個室」「一等個室」「二等寝台」の下位なのですから、明確に「三等」と呼ぶべきなのですが、フェリー会社は「二等客室」と言って譲りません。どうせ、鮨詰め状態の雑魚寝です。消灯時間の始まる何時間も前から、薄っぺらなマットレスの上に体を横たえ、アイマスク代わりのタオルを顔に被せて、寝る態勢を固めていました。

すると、甲板に出ていた長男が慌てて戻って来て、「お父さん、凄く星が綺麗だよ。一緒に見ようよ」と言いました。洋上から見る星空の、何と美しいことでしょう。甲板に上がるや忽ち、「夏の大三角形」(琴座のベガ、鷲座のアルタイル、白鳥座のデネブ)が目に飛び込んで来ました。全く探す必要がないのです。これなら、織姫と彦星も互いの姿を見失うことがなく、幸せです。

更に感動したのが「銀河」です。織姫と彦星とを隔てる「天の川」と言っても良いでしょう。ガス状の星間物質、宇宙の塵が光の帯のように広がっているのです。これを古代ギリシア人は「ガラクシアス」と呼びました。「ミルク」という意味です。英語の「ギャラクシー」と「ミルキー・ウェイ」の両方の語源です。

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。…」 夜空を見上げていると、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の「午后の授業」、先生の質問が聞こえて来るようでした。「ほんとうは何か」、私には分かっていません。

「…その星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるのかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。…」

「私どもも天の川の水のなかに棲んでいる」という公案のような、奇妙な言葉を思い出しました。それと共に、改めて思い知らされたのは、私たちの暮らす都市からは、夜の闇が失われてしまい、その結果「天の川」を見ることも出来ないという事実です。これは逆説的に聞こえるかも知れませんが、私たちの暮らしが「足が地に付かない」ものだという、何よりの証拠です。地上のネオンが天上の光を隠してしまったことで、私たちは、自らが生かされている場も見失ってしまっているように思います。

「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したか見よ」(イザヤ書四〇章二六節)。目を高く上げることで、却って、しっかりと地に足を付けて歩むことが出来るのです。

【会報「行人坂」No.245 2012年10月21日発行より】

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キリスト教こんにゃく問答]T「終末」

1.ハルマゲドン

オウム真理教が一連のテロ事件を起こす以前の話です(それでも、私たちの間では「破壊的カルト」と認知されていましたが…)。私の友人に物好きがいて、オウムが経営する定食屋が秋葉原にあると言うので、わざわざ食べに出掛けました。店内の壁にお品書きがあって、それを目で辿って行くと、「牛丼」「カツ丼」「天丼」に混じって「ハルマゲ丼」とあるではないですか。ギョッとしつつも、それを注文すると、「春巻き丼」が出て来たそうです。海鮮丼の専門店「ポセイ丼」と並ぶ駄洒落です。

現代では「ハルマゲドン」は「終末」を意味する語となっていますが、ヘブル語の「ハル・メギドーン/メギドの丘」を「黙示録」の著者がギリシア語に音写したものです。「汚れた霊どもは、ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所に、王たちを集めた。」(ヨハネの黙示録一六章一六節)。神の勢力と悪魔の勢力との間で、最終決戦が行なわれる場所なのです。それ故に、「ハルマゲドン」は「世界最終戦争」を意味する語に転化するのです。しかし、「メギド」が旧約聖書の古戦場として知られていたので使われたに過ぎません。その意味では、「関ヶ原」でも「天王山」でも「五丈原」でも構わなかったのです。

因みに、「ハルマゲドン」の「H」を発音しないで、「アルマゲドン」と言うことがあります。そう言えば、昔のアメリカ映画で、アステロイド(小惑星)の接近で地球が壊滅するのを防ごうとする男たちのドラマ、『アルマゲドン』もありました。これは「ハレルヤ」を「アレルヤ」と発音する場合があるのと同じです。ギリシア文字では、語頭の母音に「気息記号」を付けて「H」の有無を示すのですが、ラテン文字に移し変えると、記号が外れてしまうからです。

2.天罰か天恵か

「セブンスデー・アドベンティスト」という教派をご存知でしょうか。日本語では「第七安息日再臨派」と訳しています。十九世紀「アメリカ生まれのキリスト教」です。日本国内にも、「セブンスデー・アドベンチスト教会」「日本アドベント・キリスト教団」等の教団がありますし、菜食主義者用の食品製造で有名な「三育フーズ」、学校法人「三育学院」、杉並区の「東京衛生病院」も同じ流れを汲んでいます。コーンフレークの発明で有名な「ケロッグ」も、「セブンスデー」の療養所の専属医師だったのです。詳しくは、ブラック・コメディ映画『ケロッグ博士』を御覧あれ。「人食いハンニバル」こと、名優アンソニー・ホプキンスがタイトルロールを演じています。

さて、「セブンスデー」の起源です。キリスト再臨論者の一人、ウィリアム・ミラーは聖書研究の結果、一八四三〜一八四四年に終末が来ることを預言しました。ところが、いつものことですが、終末は来なかったのです。ミラーの信者の中には、失望して去って行く者もいましたが、終末の到来を尚も確信する人たちが大勢残っていました。彼らは「何等かの理由で、終末は延期された」と信じ、その原因を追究しました。

あるグループは「自分たちの善行の故に、天罰としての終末が執行猶予を得たのだ」と言いました。また、別のグループは「神の教えに背き続ける社会の故に、救済である終末が延期された」と言いました。彼らは一週間の七日目、土曜日を安息日として厳守しました。「終末が来なかったのは、この律法が守られなかったからだ」と主張するのです。「終末」と「週末」、単なるワープロの変換ミスでは済ませられません。ともかく、このように終末預言が成就しなかった結果、新たなセクトが誕生したのです。

私が面白いと思うのは、終末を「天罰」と考えるか「救済」と考えるかという点です。勿論、両者に大差は無かったのでしょう。だからこそ、「セブンスデー」の人たちは一致して教団を形成したのでしょう。つまり、ごく自然に、終末は、信者にとっては「救済」、この世にとっては「天罰」と考えるのです。このような考え方は、何も「セブンスデー」に限ったことではなく、どの時代の、どのキリスト教思想にも見られるものです。いいえ、ユダヤ教やイスラム教、それどころか、仏教の末法思想にも見出せるのではないでしょうか。

しかしながら、終末が信者(何の信者であれ)にとって「救済」であるというのは、果たして、本当に自明なことなのでしょうか。私には何か信者の傲慢に思われて仕方がありません。また、自分たちだけが救われて、それが本当に「救済」と言えるのでしょうか。このように考えて、立ち止まってしまう人は「終末論」向きではありません。

3.千年王国思想

西欧キリスト教の歴史を紐解くと、紀元千年(ミレニアム)から十字軍の時代に「千年王国主義」が猛威を振るっていることが分かります。その中心人物こそ、一二世紀のイタリア人修道士、ヨアキム・ディ・フィオレです。彼は、神の歴史を「父の時代」「子の時代」「聖霊の時代」に三分します。「父の時代」とは、旧約聖書の時代、律法の原理の下に恐怖と隷属が支配する時代でした。「子の時代」は新約聖書の時代、福音が啓示された信仰の時代です。そして今や「聖霊の時代」が始まった。聖霊による直接の啓示によって、愛と喜びと自由の時代が生まれると説いたのです。

聖霊の力による変革を説くのは、二〇世紀のペンテコステ派の専売特許ではなく、その七百年前から行なわれていたのです。また、ヨアキムの説いた歴史の三段階説、「第三の王国」という考え方は、ナチス思想の背景と成ったオカルト団体「トゥーレ協会」に受け継がれ、彼らもまた自らを「第三帝国」(Der dritte Reich)と称しました。ナチスが黒魔術の代表ならば、白魔術の代表はルドルフ・シュタイナーです(シュタイナー教育の!)。実は、シュタイナー派も同名の機関紙を発行していました。

そこまで行くと飛躍し過ぎですが、ヨアキムから三百年後には、「ドイツ農民戦争」で知られるトマス・ミュンツァー、「殉教者会議」のハンス・フート等の「宗教改革急進派」が登場します。彼らの運動を支えていたのも、ヨアキムの「千年王国主義」です。世界に終末が訪れる時、偽キリスト者は全て死に絶えて、真のキリスト者のみが生き残り、神の国を建設するという訳です。聖フランチェスコの清貧の教えに立ち返ろうとした、カトリックの「フランシスコ心霊派」も、ルター派教会の教条主義に反発して生まれた、シュペーナーの「ドイツ敬虔主義」も、ヨアキムの影響下にあります。

日本風に言えば、いずれにも「世直し運動」の傾向が伺えます。現実の社会を変革して行って、一般民衆の救済、現世救済を目指すダイナミズムがあるのです。既成教会の枠から離れて、民を救うために独自の共同体を建設するのです。

宗教改革の教会の傍流とされる(いや、時に「異端」として扱われた)「宗教改革急進派」に再評価の機運が高まったのは、二十世紀に入って、「再洗礼派」の末裔であるアメリカのメノナイト教会(アーミッシュもこの一派)、フッター兄弟団の人たちが、少数派ながらも、自らの信仰に自信を取り戻して、発言を始めたからです。

ともかく、終末論には、既成の社会秩序や教会制度を転覆させるような、ダイナミクスがあります。悪くすれば、オウムのサティアンにも、ナチスにも大バケする可能性もありますが、教会共同体について考える時には、必ず押さえて置かなくてはならないポイントの一つであることは確かです。


【会報「行人坂」No.245 2012年10月21日発行より】

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