2012年12月01日

本当のクリスマス

1.乏しいクリスマス

私は今、ある年のクリスマスを思い出しています。私が洗礼を受けた母教会は、上賀茂伝道所(現・京都上賀茂教会)と言います。日曜日に深田未来生・ローラ御夫妻のお宅を開放して頂き、礼拝を行なっていました。お二人はUMC(United Methodist Church)の派遣した宣教師でもあって、その住居もUMCの所有でした。

その当時、ローラさんは京都YWCAのリーダーとして活躍されていて、経済格差の問題や飢餓の問題、女性を取り巻く問題、在日外国人の人権問題、環境問題などに携わっておられました。ある年のアドベント、彼女が「『乏しいクリスマス』を行なってはどうか」という提案を為さったのでした。どの教会でも(これは教会に限ったことではありませんが)、クリスマスと言えば、御馳走を用意してお祭り騒ぎです。時には、敢えて、慎ましい糧を分かち合う「乏しいクリスマス」の愛餐を行なって、貧困に悩む地域や人々を覚えてはどうか…。そのような話でした。

彼女の提案を受けて、実際に私たちは(本音は渋々ながら)「乏しいクリスマス」を開催したのでした。例年、イヴの夕礼拝後の愛餐に集まる豪勢な持ち寄りを「今年はやりません」とお断りした上で、教友に御案内申し上げました。すると、参加者が通常の日曜礼拝並みに少なく、閑散として寂しい限りでした。

こうして、結局「乏しいクリスマス」は1年限りのことと成ったのですが、それが今、私には、忘れ難いクリスマスとして思い出されるのです。あの時は「ええ、どうして、わざわざ御馳走のチャンスを潰すのさ」と反発していたのですが、今は「あの実験をもっと積極的に応援するべきだったのではないか」と後悔しているのです。

2.陳腐なクリスマス

当時、1980年代の前半で、未だ「バブル期」には入っていませんでした。しかし、もう数年を経過すれば、バブルは絶頂期に達し、山下達郎の大ヒット曲『クリスマス・イブ』に代表されるような、若者たちのクリスマスイメージ(クリスマスイヴは恋人と過ごす)が支配的に成ります。

あの時代、日本社会において、クリスマスのイメージは確実にリッチでお洒落な方向に向かっていました。いいえ、戦後社会が一貫して目指して来たものが遂に現出しつつあったのです。クリスマスイヴに、プレッピー(金持ちのボンボンの私立大学生)が恋人を誘って、予約したレストランに連れて行って、アクセサリーかプラチナの指輪か何かをプレゼントする…。このように書くと、如何にも陳腐に思われますが、今も街中に、美しいクリスマスのイルミネーションとして、それと同質の陳腐さが溢れています。

恐らく、私たち日本人が、キリスト教に含まれる数多の要素の中で、クリスマスに飛び付いたのは、そもそもが異教起源の祭りだからでしょう。言うまでも無く、クリスマスは、ミトラ教やドルイド教、北欧のユール祭、ローマの冬至祭、ゲルマンのオーディンの収穫感謝祭、ドナールの聖木祭などのハイブリッド(雑種)です。

異教的な要素が濃いから、クリスマスはダメだとは、私は思いません。そもそも「イエスの降誕」の記事からして、「東方の三博士」の登場によって、イエスさまが「異教徒の救い主」「異邦人の救い主」であることが言われているからです。「異邦人が…大きな光を見る」(マタイによる福音書4章15〜16節)ことこそ、福音の醍醐味です。クリスマスの夜に、正統的なユダヤ教徒の枠外にいる人たち(ベドウィンと異教徒の学者)が飼い葉桶に集められたのです。その意味では、現在のクリスマスも同じです。教会という狭い枠を超えた祭りなのです。従って、クリスマスを非キリスト教徒がお祝いしてくれることに対して、私は、神さまの深い御経綸を見る思いです。

そうは言っても、クリスマスが余りにもコマーシャルベースに(商業路線で)流されることに対しては、陳腐な印象を受けてしまいます。世間を批判して済む問題ではありません。キリスト教会の中にも、この時とばかりに華美に走る傾向があります。表参道にも見劣りしないイルミネーション、横浜港に負けないクリスマスツリーを…と、考えてはイケナイのです。何も「ヘロデの宮殿」に対抗する必要はありません。

3.教会のクリスマス

「乏しいクリスマス」を企画した時、ローラさんから、わざわざ、クリスマスに断食を行なうキリスト教のグループもあることを聞きました。確かに、そういう迎え方もあるのでしょう。「3.11」後の日本社会において、そのような信仰告白、神へのアプローチの仕方も必要かも知れません。けれども、クリスマスを楽しみにしている子どもを見ていると、無理強いは出来ません。そこまで追求すると偏屈に成ってしまいそうな気もします。むしろ、身の丈に合ったクリスマスをしましょう。

そこそこに質素に、明るく楽しい中にも、慎ましさを表現していきたいと思うのです。世間が華美に走るならば、そんなものと競合しないで、こちらは控え目なクリスマスを作ったら良いのです。それが教会らしいクリスマスでは無いでしょうか。もっと派手なクリスマスは、他に幾らでもあります。それを知っていて尚、キリスト教会のイヴ礼拝に来てくれる人がいます。多分、求めておられるのは「本当のクリスマス」です。

「本当のクリスマス」とは、キリスト信者が粛々と行なっている礼拝のことに他なりません。大きな仕掛けは要らないのです。近所の人たちも未信者の人たちも、イヴの夜には、キリスト信者に混ぜて貰って、ほんのちょっとだけ、神さまにお祈りしてみたいのです。それだけなのです。それで十分なのです。有り難い、感謝すべき話ではありませんか。

牧師 朝日研一朗

【2012年12月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 16:03 | ┣会報巻頭言など