2013年02月26日

3月第1主日礼拝(レント第3主日)

       3月 3日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”あなたのために祈った音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 22章24〜34節(p.154)
賛 美 歌  27、222、490、297、530、72、29
交読詩篇  118編22〜29節(p.134)

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2013年02月25日

まさか、わたしが…【マタイ 26:17〜25】

聖句「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさか私のことでは』と代わる代わる言い始めた。」(26:22)

1.《アクシデント》 東日本大震災と原発事故の時に「想定外」が流行語になりました。私たちの身の周りにも「まさか」と思うような事件が起こりますが、この場合の「想定外」は、流行語として済ませるには余りにも過酷な現実です。とは言え、何重に安全装置を施そうが、飛んでいる物は落ちるし、走る物は衝突するし、エネルギーを起こす物は爆発するのです。それが道理です。

2.《不祥事の隠蔽》 イジメによる生徒の自殺事件が起こると、学校や教育委員会がこれを「不祥事」「あってはならない事」としてキャンペーンを展開します。しかし、事件の解明に向かわず、隠蔽による組織防衛に力学が働くようです。教会の牧師によるセクシュアル・ハラスメント事件の場合も同様です。結局、隠蔽は加害者を放置し、被害者に更なる迫害を加え、排除して行きます。むしろ、私たちには「あってしまう事」と向き合う勇気が求められています。

3.《裏切りと赦し》 裏切ったのはユダだけではありません。バッハは「マタイ受難曲」で「私の事か?」と12回合唱させています。底本のルター訳は、マンガ風に言えば「グサッ、図星!」です。全員に「心当たり」「思い当たる節」があったのです。しかし、その厳しい罪の宣告の直後に「主の晩餐」が備えられているのです。「まさか」の裏切りを行なってしまう、罪に汚れた私たちのために、しかし、イエスさまは罪の潔めと赦しの聖餐を備えられたのです。そして、その罪を御身に負って十字架に付かれたのです。

朝日研一朗牧師

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2013年02月23日

レプトン銅貨をささげよう

1.寡婦の献金

福音書の中に「やもめの献金」というエピソードがあります。「マルコによる福音書」12章41〜44節、「ルカによる福音書」21章1〜4節に「並行記事」があります。どちらも僅か4節しかない短い記事です。

イエスが神殿の片隅に座って、人々が賽銭箱に献金を入れる様子を御覧になっています。日本の初詣の賽銭と同じで、お金持ちは沢山入れています。しかし、イエスさまが目を留められたのは、1人の貧しい寡婦でした。女性が父や夫の「所有物」と見なされていた時代です。社会福祉も何も整備されていない2千年前です。一家の働き手を失った未亡人は、親族の哀れみに縋(すが)る以外には、ジャン=フランソワ・ミレーが描いたように「落穂拾い」でもするしかありません。

そんな極貧の中にある寡婦が「レプトン銅貨」2枚を賽銭箱に入れるのを、イエスさまは見て居られました。「レプトン銅貨」2枚で買えるのは「小麦粉1掴み」だったと言われています。それは、当時のユダヤ社会で「1日の命を繋ぐ最低量の食糧」とされた表現です。日本なら、差し詰め「ご飯1膳」と言ったところでしょうか。仮に5キロ米が2千円とすると、1膳36円です。

その寡婦を見て、イエスさまは弟子たちに言われました。「はっきり言って置く。この貧しい寡婦は、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりも沢山入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである」。

2.礼拝の献金

今更、言うまでもありませんが、プロテンタント教会は、私たちの献金によって成り立っています。そして、大雑把に分けると、献金は2種類から成っています。1つは、礼拝の中で奉げられる「礼拝献金」です。これは礼拝の席上で集められるので「席上献金」とも言われます。

もう1つは「月定献金」「特別献金」「季節献金」等の献金です。「月定献金」は、年間を通して、教会活動を支えるために自分の収入の中から一定の金額を奉げていくものです。これは、信徒である私が神さまと交わす約束という意味で「約定献金」とも言われます。「特別献金」は、誕生日や受洗日、結婚記念日、召天記念日、その他、個人的な感謝や祈念のために奉げられるものです。「季節献金」は「クリスマス献金」「イースター献金」「夏期献金」です。「季節献金」だけは、毎回、目標額が設定されていますから、その目標額到達のために、自らが奉げるのみならず、「目標が達成されますように」と祈りを合わせていくのです。以上、「月定」「特別」「季節」の、3種類の献金は、専用の袋に入れて、個人名を記して奉げるので、昔から教会では「袋献金」と総称されています。

要するに、献金には「礼拝献金/席上献金」と「袋献金」の2種類があるのです。そして「礼拝献金/席上献金」は完全に匿名の献金であり、「袋献金」は教会会計が領収すると、奉げた個人に対して受け取り書が発行されます。会員に対しては袋に会計印が押されて返却され、非会員に対しては領収書を郵送しています。

勿論、何事にも例外はあり、匿名で「クリスマス献金」や「イースター献金」を奉げる人もあります。「袋献金」は基本的に会員の務めですが、非会員でも「クリスマス献金」や「イースター献金」、あるいは「特別献金」を奉げて下さることは少なくありません。

さて、「礼拝献金/席上献金」は、その日に礼拝に出席した者が、大人も子供も、会員も非会員も、信者も未信者も、一緒に奉げる献金です。そして、礼拝学では「献金こそは礼拝のクライマックスである」と言われています。なぜなら、「献金」とは「奉献」であり、「奉献」とは、神の召しと恵みに対して「これは私たちの献身のしるしです。清めてお受け取り下さい」と、自らを差し出して行く応答の儀式だからです。

3.匿名の献金

私が行人坂教会に赴任して、7年目が終わろうとしています。その間、ズッと気になっていることがありました。この機会に書き記します。「礼拝献金/席上献金」と「袋献金」とは全く異なる種類の献金であるということが、理解されていないように思うのです。

多くの教会では、受付台に南京錠付きの木製の箱が置いてあり、礼拝に出席する会員は、そこに予め「袋献金」を入れて行きます。勿論、礼拝のクライマックスである「奉献の祈り」の際には、献金当番が集約した「席上献金」と共に、聖餐台の前に運ばれて来て、それもまた「献身のしるし」として、神さまに奉げられるのです。本当に徹底して、献金の意義を明確にして行くためには、そのようにしたら良いかも知れません。ただ、行人坂には行人坂の伝統があり、会員の皆さんの意見も聞く必要があるでしょう。

ここで私が申し上げたいのは、1つだけです。「袋献金」を出しても、それによって「礼拝献金/席上献金」を奉げたことにはならないということです。「袋献金」は個人の献げ物ですが、「礼拝献金/席上献金」は会衆の献げ物です。

こんな不況の時代です。年金も減らされる一方で、誰もが経済的に疲弊しています。遠方から交通費を使って来ている人もいらっしゃいます。無理を言うつもりは毛頭ありません。「レプトン銅貨」で良いのです。「袋献金」とは別に、それを一緒に奉げて頂きたいのです。「礼拝献金/席上献金」は「匿名の献金」です。そこに名前はありません。誰に気兼ねする必要も、体裁や立場を考える必要もありません。名前の書いていない献金であっても、そこに込められた祈りを、イエスさまは見詰めて居られます。寡婦の祈りと「レプトン銅貨」36円を加えて、私たちの「献身のしるし」を確かなものとして参りましょう。

牧師 朝日研一朗

【2013年3月の月報より】

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2013年02月19日

2月第4主日礼拝(レント第2主日)

       2月24日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”まさか、わたしが・・・音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 26章17〜25節(p.52)
賛 美 歌  27、394、490、314、306、88
交読詩篇  125編1〜5節(p.147)

昼食サービス(カレーライス:300円) 礼拝後   於 階下ホール

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2013年02月18日

墓場のレギオン【マルコ 5:1〜20】

聖句「イエスが、『名は何というのか』とお尋ねになると、『名はレギオン。大勢だから』と言った。」(5:9)

1.《レギオン》 「レジオンドヌール勲章/名誉軍団国家勲章」も、「レジオネラ菌」の名前の由来「在郷軍人/レジョネーア」も「レギオン」から来ています。ローマ帝国の軍団単位から「大勢」を表わす意味で、当時のユダヤでも使われていたようです。ロラン・バルトは「悪霊は複数である」と定義し、人間関係の中に生成する感情(絶望、嫉妬、拒絶、欲望、自己喪失、高慢、虚栄心、不安)に、私たちが振り回される様を例えていました。

2.《病の分類》 近代以後、「汚れた霊に取り憑かれた人」の症状から「精神病」と分類されて来ました。確かに「病人」と「悪霊憑き」はセットに成っていて、体の病と心の病と考えられます。しかし、皮膚病も「癩病」も衣類や家屋の黴も同じ語で表わす時代です。原因の分からない病気は何もかも「悪霊憑き」としたはずです。北海道の「べてるの家」のメンバーは「自分の病気は自分で命名」しています。その病を背負って生きている者にしか本当のことは分かりません。それどころか、私たちが自分の病に気付かない場合もあります。

3.《家に帰る》 レギオンに取り憑かれた人は墓場にいました。生きながらにして死の世界に置かれていたのです。鎖や足枷で縛っても問題は解決しません。反対に信頼さえも失われてしまいました。直訳は「汚れた霊の中における人間」なのです。大勢の中にいても無感覚で無関心、愛も希望もありません。これは私たち自身の姿です。私たちの解放の根拠は神さまです。神に根拠を置いてこそ、愛は愛となります。イエスの悪霊祓いとは、閉鎖的な自己喪失状態から私たちを解放して、改めて社会と家族に送り返して下さることなのです。

朝日研一朗牧師

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2013年02月16日

幽径耽読 Book Illuminationその5

  • 「米軍が恐れた「卑怯な日本軍」(一ノ瀬俊也著、文藝春秋)
    米陸軍の対日戦マニュアル「The Punch below the Belt」から説き起こし、満州事変、日中戦争、張鼓峰事件、ノモンハン事件の「戦訓」も分析。圧倒的な火力を誇る敵軍に対しては、誰しも「卑怯な戦法」を採らざるを得ないのです。日本軍は、そのゲリラ戦においても中途半端だったことが分かります。「無策のツケは、最終的に現場が自らの創意工夫で支払わされることになった」。「上層部の無策を現場が頑張って解決しようとしてしまうという、今でも続く日本社会の構図」。これ、米軍戦車に対抗するのが、肉攻による地雷という話です。
  • 「失脚/巫女の死/デュレンマット傑作集」(フリードリヒ・デュレンマット著、増本浩子訳、光文社古典新訳文庫)
    『故障』が抜群に面白い。料理の描写が美味しい。『失脚』は、スターリンからフルシチョフに権力交代した時はこんな感じだったのかと思わせます。本の栞に登場人物紹介があって助かりました。映画監督のベルトラン・タヴェルニエが京都で講演した時に、サインを貰ったことがあります。タヴェルニエの『判事と暗殺者』はデュレンマットの原作だったのですね。
  • 「ゾティーク幻妖怪異譚」(クラーク・アシュトン・スミス著、大瀧啓裕訳、創元推理文庫)
    洞窟を抜けると異世界に。その庭園の果実を食べると、失われた王族の人生を辿る。『クセートゥラ』は『千と千尋』です。人生の歩みが文字化される『最後の象形文字』、人間の屍に魔界の植物を接ぎ木する『アドムファの庭園』が大好き。首が鈴生る椰子、耳の咲く蔓、乳房の実るサボテン、花弁の中で動く目…。これはIPS細胞か、はたまた、天才会田誠の「愛ちゃん盆栽」か。
  • 「せどり男爵数奇譚」(梶山季之著、ちくま文庫)
    うちの教会員に、梶山の事務所に勤めていたKさんがいます。それを知って以来、身近に感じるようになりました。最初は「男爵」然としていた笠井氏が、中盤から「…でげす」とか「…でさあ」と、お下品な喋り方になります(微妙なキャラ変更)。永井荷風のイメージを推し進めたということでしょうか。梶山お得意の「京城もの」、本格推理(松本清張の『黒い福音』とカブる)みたいな「キリシタン版」は、さすが名手と思わせます。巻末の「人皮装『姦淫聖書』」に至っては、サド侯爵も乱入して、悪ノリが過ぎています。でも、私なら刺青を入れた人皮にするな。Kさんの家には、梶山の描いたキリストの絵があるのだそうです。
  • 「英語で読む罪と罰の聖書」(石黒マリーローズ著、コスモピア)
    高校時代に購読していた「スクリーン・イングリッシュ」で、著者の文章を読んだことがあり、懐かしくて買いました。「創世記」のエピソードに、かなりの分量が割かれています。犯罪、セックス、悪魔、地獄という皆の大好きなテーマで勉強しましょう。「煉獄」と「アブラハムの懐/the bosom of Abraham」の関係、これは使えるネタです。
  • 「奇形建築物世界遺産100」(珍建築研究所編、扶桑社)
    樫の木の中に造られた礼拝堂(仏)、先住民プエブロ族の伝統を採り入れた土壁のカトリック教会(米)が、職業的に参考になりました。個人的な趣味としては、シュヴァルの理想宮(仏)、湖畔の岩の間に建つ家(仏)、ストーンハウス(葡)、仏教テーマパーク(ラオス)に行ってみたい。要するに、大企業や行政が巨費を投じて作った「箱物」が嫌いなのです。改めて納得しました。
  • 「HUNTER×HUNTER/ハンター×ハンター」第0巻「クラピカ追憶編」(冨樫義博作、集英社)
    二男が映画『緋色の幻影』を観に行って貰って来ました。丁寧な画線、完成した構図、短けれども素晴らしい物語…。最新刊32巻「完敗」(題名通り)の手抜き作業と比べるべくもありません。あれは「間奏曲」としても許容外です。
  • 「ブラウン神父の無心」(ギルバート・キース・チェスタトン著、南條竹則・坂本あおい訳、ちくま文庫)
    それにしても、ブラウン神父の口から出るスコットランド長老派に対する揶揄は凄まじい限り。ピューリタンに対するイヤミもありますが、スコットランド人は異教徒扱い、カルヴァン派が本当に嫌いだったのですね。まあ、幾分その気持ちは理解できます。「他のすべての人間の聖書も読むのでなければ、自分の聖書を読んだって無益だ」。全くその通りです、神父さま。
  • 「キャプテン・アメリカはなぜ死んだか/超大国の悪夢と夢」(町田智浩著、文春文庫)
    アーミッシュの「ラムシュプリンガ」、デヴィッド・ロシュの「信心80%の教会」等、結構、キリスト教ネタがあり、勉強になります。これを読んでいた時に、丁度、コネティカットの小学校の虐殺事件が起こりました。あの国が経済、政治、文化、軍事、宗教などによって、世界を牽引しているかと思うと呆然とします。いずれ行き着く先は破滅かと…。
  • 「18の罪/現代ミステリ傑作選」(ローレンス・ブロック他著、田口俊樹他訳、ヴィレッジブックス)
    昔、虫明亜呂無が引用した文章に接して以来、ジョイス・キャロル・オーツの作品を読みたいと思っていました。勿論、オーツの『酷暑のバレンタイン』は巻末を飾るに相応しい傑作。札幌時代、私の後輩の牧師に、これと似た状態の死体を発見する羽目になった人がいます。いずれ劣らぬ傑作揃いのアンソロジーです。
  • 「汚辱の世界史」(ホルへ・ルイス・ボルヘス著、中村健二訳、岩波文庫)
    学生時代に『悪党列伝』(晶文社)として出版された本書を読んでいました。30年を経て、改めて読んでみると、ボルヘス独特のネジレが心に沁みるのです。巻頭の、ラス・カサスが「インディオスの破壊」について訴えなければ、黒人奴隷も存在せず、ハバネラもブードゥー教も生まれなかったという件などは典型です。煉獄に行ったメランヒトンの話(まるで幻想文学の筆致ですが)、本当にスウェーデンボルク自身がこんな風に書いていたとは思えません。
  • 「シュトヘル」第7巻(伊藤悠作、小学館)
    スドーが消えてシュトヘルが還って来た!! ジルグス戦で手負いのハラバルと完全復活を果たしたシュトヘルとの死闘は、まさに『キングコング対ゴジラ』の迫力でした。当然の引き分けの後に、新キャラ登場。これで繋いで行きます。やはり、西夏文字は海を渡って、日本に来るのですかね。
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2013年02月12日

2月第3主日礼拝(レント第1主日)

       2月17日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”墓場のレギオン音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 5章1〜20節(p.69)
賛 美 歌  27、394、490、296、313、88
交読詩篇  125編1〜5節(p.147)

賛美歌練習 (3月の月歌:222番)  礼拝後   於 礼拝堂
あいさつの会(相互交流の会)      賛美歌練習後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール

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2013年02月11日

日曜日は喜びの日【申命記 5:12〜15】

聖句「主の安息日であるから、如何なる仕事もしてはならない。…そうすれば、あなたの男女の奴隷も、あなたと同じように休むことが出来る。」(5:14)

1.《日曜日》 1872年の「明治改暦」により、太陰暦から太陽暦に改めた際に、日曜日を公休日と決めました。江戸時代には「一六日」がありましたが、穏やかに休むことは許されませんでした。日本社会もキリスト教の「主日」を受け入れたのですが、「週の初めの日」とは考えていません。多くの人が労働の余禄として手にした「週末の休み」と受け止めています。

2.《安息日》 旧約聖書の律法は「安息日」の意味付けとして、3点を挙げています。主がエジプトで奴隷であったイスラエルを救い出したのだから、全ての人が苦役労働から解放されるべきである(申命記5章)。天地創造の御業を覚えて安息すべきである(出エジプト記20章)。主と民との契約を確認し、更新すべきである(エゼキエル書20章)。3つの理由に共通して言えるのは、神さまが人を生かして下さる「御業に感謝しなさい」です。律法と言いながらも、元来、安息日は「喜びの日」「祝いの日」であったのです。

3.《主の日》 ところが、安息日厳守を求める余り、「違反者を死刑に処せ」とまで言われるようになるのです。キリスト者は主の復活日を「主日」として守るようになりました。人を「束縛する日」ではなく「解放する日」として教えたのです。しかし、カトリックの国教化の後も、宗教改革者が権力を握った後も、日曜日を法律によって強制しようとする愚かな試みが繰り返されました。まるで「鼬ごっこ」です。人の心は規則では縛れません。却って、離れて行ってしまいます。愛は私たちが自発的に生きる力なのですから。

朝日研一朗牧師

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2013年02月06日

2月第2主日礼拝

       2月10日(日) 午前10時30分〜11時45分
説  教 ”日曜日は喜びの日音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  申命記 5章12〜15節(p.289)
賛 美 歌  27、394、490、413、204、71、29
交読詩篇  125編1〜5節(p.147)


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2013年02月05日

弱小低遅狭(じゃくしょうていちきょう)!【マタイ7:13〜14】

聖句「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(7:13)

1.《狭い門と広い門》 イエスの時代の町は城壁で囲まれた要塞都市でした。「大きく広い門」とは権力者が入城する凱旋門、「小さく狭い門」は「糞門/汚物門」でした。そこには、ゴミを漁る貧民、排除された病者、被差別の階層がいました。イエスの言葉は、その人たちと肩を並べて生きる「共生への志」に満ち溢れた言葉なのです。入試に言う「狭い門・広い門」とは訳が違うのです。

2.《三間=さんまを》 「今の子どもには『さんま』がない」と言われます。「時間」(余裕の欠如)と「空間」(場の喪失)と「仲間」(本当の友の不在)です。かつての日本家屋には色々な「間」がありました。しかし今は、競い合い、命を削り合い、「狭き門」に殺到する生き方の中で「間」が無くなっています。距離感を失っているのです。かつて若者たちの間では「仲間以外は皆風景」と言われ、今や「自分以外は皆風景」と言われています。「間」が抜けた時代です。これを「間抜け」と言うのでしょう。

3.《余地のある客間》 高度経済成長期に「強大高速広」を追求した結果です。今の若者たちも尚、履歴書の空欄の「間」を必死に埋めようとしています。しかし、私たちは所詮「致死率百%」の弱さと脆さを抱えた存在です。弱さを絆として、命を育み合うのが本分です。徴税のための人口調査(住民登録)に、ベツレヘムが溢れ返る中、「客間には彼らのいる余地がなかった」で、イエスの生涯が始まります。そのイエスが好んで徴税人の家に泊まった事実は興味深いことです。傷付いた人の心の隙間に、イエスは泊まろうとされるのです。教会が神の「居間」、神と出会う「広間」と成りますように、そこにこそ、教会の存在意義があるのではないでしょうか。

木村良己牧師(同志社高等学校・中学校校長)

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