2013年02月05日

弱小低遅狭(じゃくしょうていちきょう)!【マタイ7:13〜14】

聖句「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(7:13)

1.《狭い門と広い門》 イエスの時代の町は城壁で囲まれた要塞都市でした。「大きく広い門」とは権力者が入城する凱旋門、「小さく狭い門」は「糞門/汚物門」でした。そこには、ゴミを漁る貧民、排除された病者、被差別の階層がいました。イエスの言葉は、その人たちと肩を並べて生きる「共生への志」に満ち溢れた言葉なのです。入試に言う「狭い門・広い門」とは訳が違うのです。

2.《三間=さんまを》 「今の子どもには『さんま』がない」と言われます。「時間」(余裕の欠如)と「空間」(場の喪失)と「仲間」(本当の友の不在)です。かつての日本家屋には色々な「間」がありました。しかし今は、競い合い、命を削り合い、「狭き門」に殺到する生き方の中で「間」が無くなっています。距離感を失っているのです。かつて若者たちの間では「仲間以外は皆風景」と言われ、今や「自分以外は皆風景」と言われています。「間」が抜けた時代です。これを「間抜け」と言うのでしょう。

3.《余地のある客間》 高度経済成長期に「強大高速広」を追求した結果です。今の若者たちも尚、履歴書の空欄の「間」を必死に埋めようとしています。しかし、私たちは所詮「致死率百%」の弱さと脆さを抱えた存在です。弱さを絆として、命を育み合うのが本分です。徴税のための人口調査(住民登録)に、ベツレヘムが溢れ返る中、「客間には彼らのいる余地がなかった」で、イエスの生涯が始まります。そのイエスが好んで徴税人の家に泊まった事実は興味深いことです。傷付いた人の心の隙間に、イエスは泊まろうとされるのです。教会が神の「居間」、神と出会う「広間」と成りますように、そこにこそ、教会の存在意義があるのではないでしょうか。

木村良己牧師(同志社高等学校・中学校校長)

posted by 行人坂教会 at 19:59 | 毎週の講壇から