2013年03月31日

ナラティヴム

1.読み聞かせ

2009年4月初め、二男が突然、小児脳梗塞(脳幹梗塞)という病気を発症し、生死の境を彷徨いました。意識を取り戻したものの、重い四肢麻痺と構音障碍が残りました。2ヶ月の急性期入院と半年間のリハビリ入院期間が終了し、車椅子ながらも下目黒小学校に復帰することが出来たのは、3学期に成ってからでした。寒い季節でもあり、後遺症や免疫力の低下もあったのでしょう。2日登校しては1日休むというような学校生活でした。

朝に私が二男を送り、午後に妻が迎えに行くという毎日が始まりました。そんな時、私たち夫婦は、PTAの方から「読み聞かせ」のボランティアに誘われました。月1回、ほんの10分程の「朝の会」のことです。2011年の2学期から始めたのだったと記憶しています。何しろ慌しい朝の時間です。始めた当初は、完全に失念してしまっていて、夫婦して穴を開けるという大失態を演じたことがあります(突然の欠席にも対応できるように、区民ボランティアのベテランさんがサポートして下さっているのですが…)。

この失敗を反省して以来、基本的には、私が参加し、妻は1年1回か2回くらいの特別出演に成っています。私が「読み聞かせ」をしようと思った契機は、二男が愛して止まぬ下目黒小学校の、その子どもたちに、何か関わりを持ちたいと思ったからです。保護者の、しかも、お父さんの「読み聞かせ」は珍しがられたようで、現在、下目黒小学校のHPにも写真がアップされています(2013年3月10日付け3年生のページ「今年度最後の読み聞かせ」)。

2.語りと騙り

@長谷川集平:『トリゴラス』(文研出版)、Aマイケル・ローゼン作・クエンティン・ブレーク絵:『悲しい本』(あかね書房)、B長谷川集平:『はせがわくんきらいや』(ブッキング)、Cキティ・クローザー:『ちいさな死神くん』(講談社)、Dエヴァ・シュヴァンクマイエローヴァー:『オテサーネク』(水声社)、E長谷川集平:『すいみんぶそく』(童心社)、F宮部みゆき作・吉田尚令絵:『悪い本』(岩崎書店)、Gかのこ作・米倉斉加年絵『トトとタロー』(アートン)、H皆川博子作・宇野亜喜良絵:『マイマイとナイナイ』(岩崎書店)、Iアーサー・ビナード作・ベン・シャーン絵:『ここが家だ/ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)、J八百板洋子作・齋藤芽生絵:『吸血鬼のおはなし』(福音館書店)、K本橋成一:『チェルノブイリからの風』(影書房)、L鳥山明:『てんしのトッチオ』(集英社)、M杉山亮作・竹内通雅絵『きんたろう』(小学館)、N京極夏彦作・町田尚子絵:『いるのいないの』(岩崎書店)…。順番は適当ですが、これまで採り上げた本です。

こうして並べてみると、ACEは典型的な「死の教育/デス・エデュケーション」です。Bは森永砒素ミルク中毒、Iは第五福竜丸の被曝、Kはチェルノブイリ原発事故を扱った社会的なテーマの作品です。@は怪獣、Dは人喰い樹、Fは心の闇、Hは体の中にいる他者、Jは吸血鬼、Nは家に憑依した霊と、恐怖と怪奇と不安をテーマにしています。Gは全く分類不能です。LとMだけが辛うじて痛快な作品です。

実は、私は「読み聞かせ」という語が余り好きではありません。「聞かせ」という部分に、何か押し付けがましさと言うか、強制力を感じてしまうのです。それで、私自身は「語り」と呼んでいます。文化人類学や旧約聖書学、古典文献学や言語学では「ナラティヴム/Narativum」と言われる部分を担当していると、自分では心得ています。勿論「語り」は「騙り」に通じてもいます。けれども、それだからと言って、即ち「嘘」等という訳ではありません。フィクションの中にもリアリズムがあり、ファンタジーの中にも現実世界が反映されて居り、嘘八百の戯作の中にも真実が込められているのです。

3.愛を叫ぶ獣

私が「語り=騙り」に拘っているのは、思い返してみると、子ども時代に見たテレビドラマの影響かも知れません。『アウターリミッツ』『宇宙大作戦』『未知の世界/ミステリーゾーン』『悪魔の異形』『プリズナーNo.6』『四次元への招待』『ヒッチコック劇場』『オーソン・ウェルズ劇場』等の米英ドラマ、円谷プロ製作の『ウルトラQ』『怪奇大作戦』『恐怖劇場アンバランス』も忘れる事は出来ません。

例えば、『アウターリミッツ』にはハーラン・エリスン(『世界の中心で愛を叫んだけもの』)が、『ミステリーゾーン』にはリチャード・マシスン(『地球最後の男』『ある日どこかで』)が台本が書いた作品もあったのです。幼少時に、これらの作品に触れた御蔭で、私は自ら命を絶つこともせずに、投げ槍になることも無く、今も生きるを得ているのです。

今の子どもたちが、それに匹敵する「語り」に出会っているか、それは知りません。『世にも奇妙な物語』『本当にあった怖い話』『トリハダ』等の現代のショートショートが、果たして、私たちが生きる力を得た程に、今の子どもたちに与えてくれるのか、私には分かりません。時代状況も、子どもを取り巻く環境も違うからです。しかし、私は、かつて私が受けたように、子どもたちに語ろうと思います。

ハーラン・エリスンやリチャード・マシスンには遠く及びませんし、金城哲夫や市川森一や上原正三に比ぶべくもありませんが、「子どもたちに、生きる力を届けたい」という、その心意気だけは失わないで、子どもに向かって「語り」を続けていきたいと思っているのです。その意味では、小学校の「読み聞かせ」も、教会学校の「子どもの礼拝」のメッセージも、私にとっては同じなのです。

世界に対する違和感だったり、居心地の悪さだったり、漠然とした不安だったり、そういうものが、結局、最後の最後には「生きる力」に成って行くのです。なぜなら、私たちがこの世に生きるということは、まさしく、そういうことに他ならないからです。

牧師 朝日研一朗

【2013年4月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 07:37 | ┣会報巻頭言など

2013年03月26日

イースター(復活日)礼拝

       3月31日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”心の目を開いて” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 24章13〜32節(p.160)
賛 美 歌  27、222、490、334、333、73、89
交読詩篇  118編22〜29節(p.134)

イースター愛餐会(入会者歓迎会)  礼拝後    於 階下ホール
 メニュー:カレーライス、苺とお菓子
 会費:大人(中学生以上)400円、小学生300円、入会者・未就学児童無料

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posted by 行人坂教会 at 10:39 | 毎週の礼拝案内

2013年03月25日

この人を見よ【ヨハネ 19:1〜22】

聖句「イエスは茨の冠を被り、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」(19:5)

1.《真正面から》 美しく威厳のあるものには人が集まり、「勝利」という語は人を酔わせます。主のエルサレム入城の際、棕梠の枝を振って迎えた群集は消え去り、十字架に近付く者はありません。正面から見詰める者は無く、誰もが斜めから遠巻きに眺めていました。教会の扉を開けると、正面に十字架があります。その度に、私たちの信仰の真意如何を問い掛けられているようです。

2.《目を逸らす》 ある未信者が「生前のイエスを間近に見ることが出来たら信じられたのに」と呟きました。しかし、十字架を間近に見た人は大勢いましたが、信じたのは、同じ責め苦を味わった強盗と、実際に手を汚して磔にした百人隊長だけでした。見物人は決して信じることは出来ないのです。受難のキリストと真正面から向き合うことが信仰なのです。十字架のキリストから目を逸らして、他にどんなキリストがあると言うのでしょうか。

3.《沈黙の意味》 「イザヤ書」53章「苦難の僕」は、救い主の惨めな姿と共に、その沈黙を預言しています。四福音書の全てが「キリストの沈黙」を採り上げています。ドストエーフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」で、同じ沈黙を表現しています。私たちは沈黙が恐ろしいのです。どれだけ正当化して弁明しようと、自らの罪から逃れられないのです。十字架は何も言わず、いつも私たちを静かに見詰めています。されば、私たちは、せめて目を逸らさずに、素直に真正面から十字架に向かいましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:51 | 毎週の講壇から

2013年03月24日

棕梠の主日です。

棕梠の主日

棕梠の主日

棕梠の主日
posted by 行人坂教会 at 21:16 | 教会アルバム

トンネル脱出法

行人坂教会創立の年、1903年2月に、どんな出来事があったのか調べてみたら、「中央本線笹子トンネル開通」と書いてあって、一瞬ドキッとしました。勿論、鉄道線路ですから、先の崩落事故とは関係がありません。それでも、驚きました。

スイスの作家に、フリードリヒ・デュレンマット(1921〜90年)という人がいて、「トンネル」という短編があります(カフェ光文社古典新訳文庫『失脚/巫女の死/デュレンマット傑作選』)。親の脛をかじって大学に通っている肥満児が、週末をバーゼルの自宅で過ごそうと、夕刻の満員列車に乗り込みます。

葉巻に火をつけようと思ったら、運悪く列車がトンネルに入ります。トンネルから出たらと辛抱しているのですが、少しもトンネルを抜けません。その内に「バーゼル行きの線に、こんな長いトンネルはなかったはずだ」「きっと、列車を間違ったのだ」と焦ります。けれども、他の乗客も検札も「これは、バーゼル、ジュネーヴ行き」と頓着がありません。やがて、彼は一人の車掌を捕まえて、漸く「このトンネルの長さは異常だ」と納得させます。

肥満児と車掌は危険を冒して、機関室まで辿り着きます。ところが、そこには運転士の姿はありません。列車は運転士無人のまま暴走していたのです。二人は汗水たらして努力してみますが、列車は全く制御不能です。止まりません。しかも、トンネルは次第に地の奥底に向かって下降して行くようなのです。

ここで車掌が告白します。「実は、運転士と助手は既に飛び降りていた」と。彼は目視していながらも、余りの異常な事態に、何もしないでやり過ごしていたのです。意を決した車掌は、客車に戻って、恐らく、今はパニック状態に陥っているであろう、乗客の面倒を見に行くと申し述べます。最後に、職業倫理を発揮したのです。ところが、肥満児は機関室の床に座り込んだまま動こうとしません。彼は「何もしなくていいんです」と呟きました。

翻訳者(増本浩子)による解説によると、デュレンマットの最初の草稿では「神が私たちを落下させたのだから、私たちは神のもとへと突き進んで行くだけです」という言葉で終わっていたそうです。まるで、黒澤明の『暴走機関車』のようですが、列車が真っ暗なトンネルの中を走り続けているというイメージは、むしろ、テレビの空想科学ドラマ『ウルトラQ』第10話「地底超特急西へ」に近いかも知れません。また、黒澤は「暴走機関車」に核戦争のイメージを付与したようですが、デュレンマットは、第二次世界大戦の戦火を、スイスという「檻」の中から、何も出来ないまま目撃しなければならなかったそうです。それで、デュレンマットは牧師の息子でありながら、信仰を失ってしまったそうなのです。

日本社会は「長いトンネルに入ったままだ」「出口のないトンネル」等と言われます。トンネルやスランプを考える時、車掌の生き方も肥満児の生き方もあると思うのです。せめて同じ列車に乗っている者は、誰かを悪者にしないで、お互いの道を認め合うしかありません。

【会報「行人坂」No.246 2013年3月24日発行より】

posted by 行人坂教会 at 09:06 | ┣会報巻頭言など

キリスト教こんにゃく問答]U「審判」

1.ミスジャッジ

小学生の頃、友だちと草野球をして遊んだものです。野球をして遊ぶのは、都市部と違って、公園や造成前の空き地などではありません。農村では、稲刈りが終わった後の田んぼでした。足元が悪くて、走りにくい「球場」でした。その時、野球の審判を指す「アンパイア」という専門用語を覚えて、とても嬉しかったことを覚えています。

その連想で思い出したのが『渥美清の泣いてたまるか』というテレビドラマです。渥美清が毎回違う色々な役柄を演じるドラマなのですが、第三話「オールセーフ」では、セリーグの審判を演じていました。この男、些かミスジャッジ(誤審)の多いアンパイアで、そのために巨人が負けたりするのです(大洋・巨人戦、満員の川崎球場)。すると、妻(津島恵子)は近所の人たちから散々に嫌味を言われ、子どもは学校でイジメ倒されるのです。

クレームが来て仕事を干されたのだったでしょうか。ある日の午後、渥美清は子どもと一緒にお風呂屋に行きます。「父ちゃんはミスジャッジなんかしない」「父ちゃんがセーフと言ったら、セーフなんだ」等と言いながら、石鹸を滑らせて、子どもと「キャッチボールごっこ」をする場面が秀逸でした。

2.審判者イエス

まさか「裁き」という語を耳にして、楽しいイメージを抱く人はいないでしょう。近年、「裁判員制度」が導入されて、地方裁判所の刑事事件の審理に、一般市民が参加要請されるようになりました。しかしながら、世論調査によれば、過半数を超える人たちが「参加したくない」と回答しています。ミステリー小説や犯罪ドラマの大好きな人たちであっても、煩わしさ、気の重さが先に立つようなのです。況してや、自分が裁かれる側に立つとしたら、どんな気持ちでしょうか。

キリスト教に対して、大勢の人たちが抱くイメージの中にも、これと同じような煩わしさ、気の重さ、面倒臭さがあるのではないでしょうか。その最たるものが「最後の審判」です。神さまが終わりの日に、全ての人間を裁くという教説です。しかし、殆どの日本人が「裁かれるなんて真っ平御免だね」、あるいは「偉そうに人様を裁こうなんて言う、あんたは一体、何様だい?」と思っているのです。ですから、「最後の審判」とか「神の裁き」等ということが言われると、もうそれだけで「千疋屋」ならぬ「ドン退きや」なのです。その辺りの素朴な庶民感情を考える必要があります。

むしろ、イエスさまは「裁くな」と仰っています。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。…あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」(マタイによる福音書7章1〜3節)。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネによる福音書8章7節)。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは裁くためではなく、世を救うために来たからである」(同12章47節)。実に、庶民感情に染み透るような、愛の教えではないですか。

ところが、私たちに「裁くな」と教え、御自ら「裁かない」と言明していながら、他方、御自身が「裁く」と言われる場面もあるのです。これだから、こちらは、すっかり混乱してしまうのです。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」(マタイによる福音書16章27節)。先程「裁かない」と仰った、その直後「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハネによる福音書12章48節)と続くのです。そもそも、イエスさまの宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)です。「悔い改め」を促すこと自体から、審判が予告されているのです。

このようにして、福音書の段階で既に、私たち、キリスト信徒は「赦しと断罪」「救いと裁き」との間で宙ぶらりん状態にされてしまうのです。

私は、このことを考える度に、サミュエル・ベケットの芝居『ゴトーを待ちながら』の開幕直後の台詞を思い出すのです。ヴラジミールが相方のエストラゴンに喋ります。泥棒二人が救い主と一緒に磔にされたけれども、一人が救われたと、福音書記者が書いている。だけど、そう書いているのは四人のうちの一人だけ…。「四人とも一緒にいたんだぜ。一人だけが、泥棒の一人は救われたと言う。他の三人より、そいつを信じなけりゃならんのはなぜだ?」(安堂信也・高橋康也共訳「ベケット戯曲全集」より)。

いつ来るのかも分からないゴトーを待っている、エストラゴンとヴラジミール、それこそ救い主の裁きを待つ「二人の泥棒」の隠喩なのでしょうが、神の愛と怒りの間に引き裂かれた私たち自身の姿でもあるのです。因みに、相方エストラゴンの答えは「世の中の奴は皆、馬鹿なんだよ」でした。

3.オールセーフ

私たちは裁かれるのでしょうか。当然、私たちもお白洲に引き出されて裁かれるのです。けれども、何も心配は要りません。それは絶対に、人情味に溢れた「大岡裁き」なのです。神さまの裁きは、人間の裁きと違って、何等の先入観や偏見、見込み、差別やえこ贔屓なく、判決が言い渡されるからです。神さまは賄賂を貰うことはなく、移り変わり易い世論に影響されることもなく、絶対の正義を貫かれるからです。つまり、必ず(たとえ私たちが罪人でしかないとしても)、一人一人の救いに繋がっていくであろう、裁きなのです。

以上のことは、「裁く」のヘブル語「シャーパト」の語源から、そして「出エジプト記」23章に「裁判人」の責任について書かれている事柄から類推したものです。裏を返せば、この世の裁判、人間が行なう裁判は不正義から逃れられないのです。

カルヴァンがジュネーヴに打ち立てた神権政治社会では、住民全員に、日曜日と水曜日には教会に行く義務が課せられました。義務を怠る者を摘発するため、警官が街中を巡回しました。逆に、礼拝時間以外に教会に行くと、厳しく罰せられました。これらの規制を強制するために、カルヴァンは、暴力、拷問、処刑を用いざるを得ませんでした。それに反対した咎で火刑に処せられた者は、60年間で150人に達したそうです。これが「十二使徒の時代以来、地球上にかつて存在した最も完璧なキリストの学校」と、ジョン・ノックス(スコットランド改革派教会の始祖)が絶賛したユートピアの実体です。宗教裁判や火刑台、晒し台は、カトリック教会だけの十八番ではありません。

四百年以上昔の異国の話ですが、キリスト教会であっても、この世的な権力として機能した場合には、異端者を告発し、処刑するようになるのです。この世がどこまでも権力によらないではあり得ないように、神の国は如何なる権力にもよらないと、私は信じています。神さまの裁きは権力や暴力によるものではあり得ないのです。

『泣いてたまるか』の「アンパイアの話」には続きがあります。渥美清の息子は母親、津島恵子の連れ子だったのです。血が繋がっていなかったのです。折も折、実の父親が訪ねて来て、何かと苦労の多い渥美と別れて「元の鞘に」と提案します。しかし、妻も息子も、苦楽を共にして暮らして来た「アンパイア」を選ぶのです。故に「オールセーフ」です。


【会報「行人坂」No.246 2013年3月24日発行より】

posted by 行人坂教会 at 09:01 | ┗こんにゃく問答

2013年03月19日

3月第4主日礼拝(棕梠の主日)

       3月24日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”この人を見よ” 音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 19章1〜22節(p.206)
賛 美 歌  27、222、490、307、280、89
交読詩篇  118編22〜29節(p.134)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 08:28 | 毎週の礼拝案内

2013年03月18日

ポンテオ・ピラトのもとに【ヘブライ 13:7〜17】

聖句「私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」(13:13)

1.《使徒信条から》 使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白されています。この一句は紀元2世紀前半の「ローマ信条」にまで遡ることが出来ます。イエスさまを十字架で殺した張本人の名前、使徒たちにとっても忌まわしい記憶でしょうに、唱え続けて来たのです。イエスさまが現実の歴史の中に生きられ、それは私たちの歴史と地続きなのです。

2.《ピラトの下に》 台湾長老教会の高明俊牧師が来日した際に「日本基督教団の信仰告白には『ポンテオ・ピラト』がありませんね」と指摘されました。台湾では1947年の「二二八事件」以来40年間も戒厳令が敷かれ、軍事独裁政権が続きましたが、その中で草の根の民主運動を支えたのは教会と神学校だったのです。イエスさまが「ピラトのもとに」時代の只中を生きられたように、私たちも日本の国にあって「ピラトのもとに」生きているのです。

3.《信仰の現場に》 むしろ、戦前戦中の日本のキリスト教会は「ピラトのもとに苦しみを受け」るよりは、生き残り戦略として「ピラトのもとに」身を寄せたと言っても過言ではありません。朝鮮総督府の資金援助による朝鮮伝道、満州開拓団キリスト村、ホーリネス弾圧の黙認…。黒歴史ですが、主は何もかも御存知ですから、私たちの不真実を引っ提げて御前に行くより他はありません。キリストは「門の外で苦難に遭われた」のです。私たちの信仰が求められる現場は、教会という「宿営」以上に、「宿営の外」なのです。

朝日研一朗牧師

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行人坂教会庭の杏の木

中庭にある杏の木に花が咲きました。

庭の杏の木

庭の杏の木

庭の杏の木
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2013年03月12日

3月第3主日礼拝(レント第5主日)

       3月17日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”ポンテオ・ピラトのもとに” 音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  ヘブライ人への手紙 13章7〜17節(p.419)
賛 美 歌  27、222、490、508、294、89
交読詩篇  118編22〜29節(p.134)

賛美歌練習 (4月の月歌:330番)  礼拝後   於 礼拝堂

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 15:49 | 毎週の礼拝案内