2013年03月11日

茨の冠、葦の棒【マタイ 27:27〜31】

聖句「イエスの着ている物を剥ぎ取り、赤い外套を着せ、茨の冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて…」(27:28,29)

1.《引き渡す》 ローマ帝国側の責任者、ユダヤ総督ピラトは「私には責任がない」と言います。「水を持って来させ、群集の前で手を洗う」というパフォーマンスまで演じています。しかし、彼はイエスさまを「十字架に付けるために引き渡した」と明記されています。自分で直接手を下さずとも人は殺せるのです。責任を感じないままに、私たちも大切な何かを「引き渡して」いるかも知れません。

2.《私の責任》 十字架に掛ける前に、死刑囚を嘲るのがローマ兵の習慣でした。しかし、総督官邸から引き出された時には、イエスさまは自分の十字架を担ぐ力も失っていました。磔刑は、受刑者が体力頑健な場合には、数日も生き長らえたと言われますから、数時間で絶命したイエスさまは衰弱していたことが分かります。拷問と虐待、暴行が行なわれたことは明らかです。しかし、福音書は兵士の拷問を告発する代わりに、十字架への信仰告白を行なうのです。

3.《責任告白》 自らの責任を告白せずに、如何なる信仰告白もありません。「赤い外套、茨の冠、葦の棒」は、いずれも私たちの罪と弱さを表現する品物です。しかしながら、緋のような罪もキリストの血によって浄められるのです。茨の棘はアダム以来の原罪を表わします。全国水平社の「荊冠旗」にまで受け継がれています。これも、神が触れる時に救いの徴と変えられる(グレゴリウス1世)のです。葦の棒で頭を打ち叩かれるイエスさまの御姿は如何にも惨めですが、本当に惨めなのは、葦のように折れ易い私たちの弱さでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:53 | 毎週の講壇から

2013年03月05日

3月第2主日礼拝(レント第4主日)

       3月10日(日) 午前10時30分〜11時45分
説  教 ”茨の冠、葦の棒” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 27章27〜31節(p.57)
賛 美 歌  27、222、490、315、310、89
交読詩篇  118編22〜29節(p.134)

主日礼拝に続き、3.11東日本大震災2周年記念礼拝を礼拝堂で行います。

・・・当日の音声録音を聴く
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2013年03月04日

あなたのために祈った 【ルカ 22:24〜34】

聖句「しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)

1.《権力争い》 「最後の晩餐」と言えば、レオナルドの横並びの構図を想像しますが、実際には、車座に地べたに座っていたはずです。イエスさまの十字架の前夜、「聖餐式」の原点とも成る「最後の晩餐」の最中ですが、弟子たちは「誰が一番偉いか」という不毛な議論をしていたのです。

2.《跡目争い》 「ルカによる福音書」9章にも同種の議論があります。つまり、これは弟子たちにとっての最大の関心事であり、主の受難を前にして、いよいよ熱を帯びて来ていたのです。「ポスト・イエス」の指導権争い、教団の跡目争いだったのです。単に愚かな話ではありません。そもそも「裏切り者探し」に端を発しています。駆け引き、下心、野心、打算、疑惑、恩の着せ合いと売り合い、力関係、血縁や縁故、しがらみ等が渦巻く生臭い世界だったのです。弟子たちが血道を上げている内に、一番大事なイエスさまは十字架に付けられたのです。

3.《祈り仕える》 そんな弟子たちに、イエスさまは「仕えること」をお勧めになります。自らパンを裂いて手渡し杯を差し出す給仕のような姿、足を洗う姿を示されたのです。これは単なる謙遜のポーズなのではなく、この世の権力に対する抵抗なのです。反権力闘争をして、権力を倒しても、次は自らが権力と成るのは間違いありません。自らの力に拠り頼まず、「仕える者のように」生きることは、自らの無力を投げ出して、祈っていくことです。イエスさまがペトロを指名されたのは、彼が挫折をすることを見通して居られたからです。

朝日研一朗牧師

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2013年03月03日

2013レント&イースター諸行事のご案内

2013年の行人坂教会の「レント&イースター諸行事のご案内」のパンフレットです。

レント&イースター諸行事のご案内


愛する御手から杯を



レント&イースター諸行事のご案内
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