2013年03月24日

棕梠の主日です。

棕梠の主日

棕梠の主日

棕梠の主日
posted by 行人坂教会 at 21:16 | 教会アルバム

トンネル脱出法

行人坂教会創立の年、1903年2月に、どんな出来事があったのか調べてみたら、「中央本線笹子トンネル開通」と書いてあって、一瞬ドキッとしました。勿論、鉄道線路ですから、先の崩落事故とは関係がありません。それでも、驚きました。

スイスの作家に、フリードリヒ・デュレンマット(1921〜90年)という人がいて、「トンネル」という短編があります(カフェ光文社古典新訳文庫『失脚/巫女の死/デュレンマット傑作選』)。親の脛をかじって大学に通っている肥満児が、週末をバーゼルの自宅で過ごそうと、夕刻の満員列車に乗り込みます。

葉巻に火をつけようと思ったら、運悪く列車がトンネルに入ります。トンネルから出たらと辛抱しているのですが、少しもトンネルを抜けません。その内に「バーゼル行きの線に、こんな長いトンネルはなかったはずだ」「きっと、列車を間違ったのだ」と焦ります。けれども、他の乗客も検札も「これは、バーゼル、ジュネーヴ行き」と頓着がありません。やがて、彼は一人の車掌を捕まえて、漸く「このトンネルの長さは異常だ」と納得させます。

肥満児と車掌は危険を冒して、機関室まで辿り着きます。ところが、そこには運転士の姿はありません。列車は運転士無人のまま暴走していたのです。二人は汗水たらして努力してみますが、列車は全く制御不能です。止まりません。しかも、トンネルは次第に地の奥底に向かって下降して行くようなのです。

ここで車掌が告白します。「実は、運転士と助手は既に飛び降りていた」と。彼は目視していながらも、余りの異常な事態に、何もしないでやり過ごしていたのです。意を決した車掌は、客車に戻って、恐らく、今はパニック状態に陥っているであろう、乗客の面倒を見に行くと申し述べます。最後に、職業倫理を発揮したのです。ところが、肥満児は機関室の床に座り込んだまま動こうとしません。彼は「何もしなくていいんです」と呟きました。

翻訳者(増本浩子)による解説によると、デュレンマットの最初の草稿では「神が私たちを落下させたのだから、私たちは神のもとへと突き進んで行くだけです」という言葉で終わっていたそうです。まるで、黒澤明の『暴走機関車』のようですが、列車が真っ暗なトンネルの中を走り続けているというイメージは、むしろ、テレビの空想科学ドラマ『ウルトラQ』第10話「地底超特急西へ」に近いかも知れません。また、黒澤は「暴走機関車」に核戦争のイメージを付与したようですが、デュレンマットは、第二次世界大戦の戦火を、スイスという「檻」の中から、何も出来ないまま目撃しなければならなかったそうです。それで、デュレンマットは牧師の息子でありながら、信仰を失ってしまったそうなのです。

日本社会は「長いトンネルに入ったままだ」「出口のないトンネル」等と言われます。トンネルやスランプを考える時、車掌の生き方も肥満児の生き方もあると思うのです。せめて同じ列車に乗っている者は、誰かを悪者にしないで、お互いの道を認め合うしかありません。

【会報「行人坂」No.246 2013年3月24日発行より】

posted by 行人坂教会 at 09:06 | ┣会報巻頭言など

キリスト教こんにゃく問答]U「審判」

1.ミスジャッジ

小学生の頃、友だちと草野球をして遊んだものです。野球をして遊ぶのは、都市部と違って、公園や造成前の空き地などではありません。農村では、稲刈りが終わった後の田んぼでした。足元が悪くて、走りにくい「球場」でした。その時、野球の審判を指す「アンパイア」という専門用語を覚えて、とても嬉しかったことを覚えています。

その連想で思い出したのが『渥美清の泣いてたまるか』というテレビドラマです。渥美清が毎回違う色々な役柄を演じるドラマなのですが、第三話「オールセーフ」では、セリーグの審判を演じていました。この男、些かミスジャッジ(誤審)の多いアンパイアで、そのために巨人が負けたりするのです(大洋・巨人戦、満員の川崎球場)。すると、妻(津島恵子)は近所の人たちから散々に嫌味を言われ、子どもは学校でイジメ倒されるのです。

クレームが来て仕事を干されたのだったでしょうか。ある日の午後、渥美清は子どもと一緒にお風呂屋に行きます。「父ちゃんはミスジャッジなんかしない」「父ちゃんがセーフと言ったら、セーフなんだ」等と言いながら、石鹸を滑らせて、子どもと「キャッチボールごっこ」をする場面が秀逸でした。

2.審判者イエス

まさか「裁き」という語を耳にして、楽しいイメージを抱く人はいないでしょう。近年、「裁判員制度」が導入されて、地方裁判所の刑事事件の審理に、一般市民が参加要請されるようになりました。しかしながら、世論調査によれば、過半数を超える人たちが「参加したくない」と回答しています。ミステリー小説や犯罪ドラマの大好きな人たちであっても、煩わしさ、気の重さが先に立つようなのです。況してや、自分が裁かれる側に立つとしたら、どんな気持ちでしょうか。

キリスト教に対して、大勢の人たちが抱くイメージの中にも、これと同じような煩わしさ、気の重さ、面倒臭さがあるのではないでしょうか。その最たるものが「最後の審判」です。神さまが終わりの日に、全ての人間を裁くという教説です。しかし、殆どの日本人が「裁かれるなんて真っ平御免だね」、あるいは「偉そうに人様を裁こうなんて言う、あんたは一体、何様だい?」と思っているのです。ですから、「最後の審判」とか「神の裁き」等ということが言われると、もうそれだけで「千疋屋」ならぬ「ドン退きや」なのです。その辺りの素朴な庶民感情を考える必要があります。

むしろ、イエスさまは「裁くな」と仰っています。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。…あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」(マタイによる福音書7章1〜3節)。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネによる福音書8章7節)。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは裁くためではなく、世を救うために来たからである」(同12章47節)。実に、庶民感情に染み透るような、愛の教えではないですか。

ところが、私たちに「裁くな」と教え、御自ら「裁かない」と言明していながら、他方、御自身が「裁く」と言われる場面もあるのです。これだから、こちらは、すっかり混乱してしまうのです。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」(マタイによる福音書16章27節)。先程「裁かない」と仰った、その直後「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハネによる福音書12章48節)と続くのです。そもそも、イエスさまの宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)です。「悔い改め」を促すこと自体から、審判が予告されているのです。

このようにして、福音書の段階で既に、私たち、キリスト信徒は「赦しと断罪」「救いと裁き」との間で宙ぶらりん状態にされてしまうのです。

私は、このことを考える度に、サミュエル・ベケットの芝居『ゴトーを待ちながら』の開幕直後の台詞を思い出すのです。ヴラジミールが相方のエストラゴンに喋ります。泥棒二人が救い主と一緒に磔にされたけれども、一人が救われたと、福音書記者が書いている。だけど、そう書いているのは四人のうちの一人だけ…。「四人とも一緒にいたんだぜ。一人だけが、泥棒の一人は救われたと言う。他の三人より、そいつを信じなけりゃならんのはなぜだ?」(安堂信也・高橋康也共訳「ベケット戯曲全集」より)。

いつ来るのかも分からないゴトーを待っている、エストラゴンとヴラジミール、それこそ救い主の裁きを待つ「二人の泥棒」の隠喩なのでしょうが、神の愛と怒りの間に引き裂かれた私たち自身の姿でもあるのです。因みに、相方エストラゴンの答えは「世の中の奴は皆、馬鹿なんだよ」でした。

3.オールセーフ

私たちは裁かれるのでしょうか。当然、私たちもお白洲に引き出されて裁かれるのです。けれども、何も心配は要りません。それは絶対に、人情味に溢れた「大岡裁き」なのです。神さまの裁きは、人間の裁きと違って、何等の先入観や偏見、見込み、差別やえこ贔屓なく、判決が言い渡されるからです。神さまは賄賂を貰うことはなく、移り変わり易い世論に影響されることもなく、絶対の正義を貫かれるからです。つまり、必ず(たとえ私たちが罪人でしかないとしても)、一人一人の救いに繋がっていくであろう、裁きなのです。

以上のことは、「裁く」のヘブル語「シャーパト」の語源から、そして「出エジプト記」23章に「裁判人」の責任について書かれている事柄から類推したものです。裏を返せば、この世の裁判、人間が行なう裁判は不正義から逃れられないのです。

カルヴァンがジュネーヴに打ち立てた神権政治社会では、住民全員に、日曜日と水曜日には教会に行く義務が課せられました。義務を怠る者を摘発するため、警官が街中を巡回しました。逆に、礼拝時間以外に教会に行くと、厳しく罰せられました。これらの規制を強制するために、カルヴァンは、暴力、拷問、処刑を用いざるを得ませんでした。それに反対した咎で火刑に処せられた者は、60年間で150人に達したそうです。これが「十二使徒の時代以来、地球上にかつて存在した最も完璧なキリストの学校」と、ジョン・ノックス(スコットランド改革派教会の始祖)が絶賛したユートピアの実体です。宗教裁判や火刑台、晒し台は、カトリック教会だけの十八番ではありません。

四百年以上昔の異国の話ですが、キリスト教会であっても、この世的な権力として機能した場合には、異端者を告発し、処刑するようになるのです。この世がどこまでも権力によらないではあり得ないように、神の国は如何なる権力にもよらないと、私は信じています。神さまの裁きは権力や暴力によるものではあり得ないのです。

『泣いてたまるか』の「アンパイアの話」には続きがあります。渥美清の息子は母親、津島恵子の連れ子だったのです。血が繋がっていなかったのです。折も折、実の父親が訪ねて来て、何かと苦労の多い渥美と別れて「元の鞘に」と提案します。しかし、妻も息子も、苦楽を共にして暮らして来た「アンパイア」を選ぶのです。故に「オールセーフ」です。


【会報「行人坂」No.246 2013年3月24日発行より】

posted by 行人坂教会 at 09:01 | ┗こんにゃく問答