2013年03月25日

この人を見よ【ヨハネ 19:1〜22】

聖句「イエスは茨の冠を被り、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」(19:5)

1.《真正面から》 美しく威厳のあるものには人が集まり、「勝利」という語は人を酔わせます。主のエルサレム入城の際、棕梠の枝を振って迎えた群集は消え去り、十字架に近付く者はありません。正面から見詰める者は無く、誰もが斜めから遠巻きに眺めていました。教会の扉を開けると、正面に十字架があります。その度に、私たちの信仰の真意如何を問い掛けられているようです。

2.《目を逸らす》 ある未信者が「生前のイエスを間近に見ることが出来たら信じられたのに」と呟きました。しかし、十字架を間近に見た人は大勢いましたが、信じたのは、同じ責め苦を味わった強盗と、実際に手を汚して磔にした百人隊長だけでした。見物人は決して信じることは出来ないのです。受難のキリストと真正面から向き合うことが信仰なのです。十字架のキリストから目を逸らして、他にどんなキリストがあると言うのでしょうか。

3.《沈黙の意味》 「イザヤ書」53章「苦難の僕」は、救い主の惨めな姿と共に、その沈黙を預言しています。四福音書の全てが「キリストの沈黙」を採り上げています。ドストエーフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」で、同じ沈黙を表現しています。私たちは沈黙が恐ろしいのです。どれだけ正当化して弁明しようと、自らの罪から逃れられないのです。十字架は何も言わず、いつも私たちを静かに見詰めています。されば、私たちは、せめて目を逸らさずに、素直に真正面から十字架に向かいましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:51 | 毎週の講壇から