説 教 ”キリストは昇天す”

聖 書 使徒言行録 1章6〜11節(p.213)
賛 美 歌 27、353、490、338、495、75、25
交読詩篇 106編1〜5節(p.121)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(15:58)
1.《人生は徒労》 「苦労、労苦」のヘブル語は「アーマール」と言います。「詩編」90編に、人生70年、健康な者が80年生きても得るのは「労苦と災い」と言われているものです。「勤労」と言うより「徒労」、「骨折り損」なのです。「人生は徒労である」という苦々しい現実を前提に、そのアンチテーゼとして、パウロの「苦労は無駄にならない」があるのです。
2.《主に殉じる》 「徒労は無駄にならない」という言葉は矛盾しています。「無駄な骨折り」だからこそ「徒労」でしょう。私たちは誰でも、死の力に抗いながら生きていますが、最期には抵抗力が無くなって死んでしまいます。これまでの生一切が断絶され、「徒労」に終わるのです。しかし、十字架の死を越えて、イエスさまの復活があります。この主を信じる時、「徒労は徒労に終わらない」のです。但し、キリストに立たないならば、一切は無駄な骨折りなのです。
3.《生きる歓び》 生の終わりは死ではありません。神さまなのです。神のみが絶対なのです。それを示すためにこそ、イエスさまの復活があります。私たちも遅かれ早かれ死ぬでしょう。しかし、生の領域において主である御方は、死の領域においても主であられます。自己目的、自己追求の結果は、死でしかありませんが、神に目標を合わせる時、苦しみも意味を持ちます。教会形成も愛の業も、世間からは徒労と思われるものです。しかし、これに賭けて生きていくのです。主の業に励む時にこそ、労苦は無駄にならないのです。
朝日研一朗牧師
聖句「誰でも初めに良い葡萄酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良い葡萄酒を今まで取って置かれました。」(2:10)
1.《ベタニヤ出発》 弟子の召命はガリラヤ湖と思い込んでいますが、「ヨハネによる福音書」では「ヨルダン川の向こう側のベタニヤ」です。復活したラザロやマルタ・マリアの姉妹のベタニア村とも違います。むしろ、死海に近いのです。そこから3日後に、イエスさまはガリラヤのカナの婚礼で最初の奇跡を起こされるのです。「死にて葬られ、3日目に…」と繋がる印象です。
2.《予想外の事態》 呑ん兵衛のイエスさまが弟子たち数人と共に飛び入り参加をしたためでしょうか、婚宴の葡萄酒が足りなくなりました。丸1週間、時には2週間も続く婚宴のために準備は整っていたはずですが、思わぬ事が起こったのです。不測の事態に出遭うと、私たちは失望して諦めたり、動揺するばかりだったりしますが、そんな時には、正しい所に訴えることが大切なのです。勿論、古代ですから、酒屋が配達に来てはくれません。母はイエスさまに訴えたのです。
3.《御心に適う時》 イエスさまは「私の時は未だ来ていません」と答えます。困っている者にとっては冷淡な反応に思われます。しかし、主は十字架と復活の時を待って居られるのです。それなのに私たちは身勝手な願いを言ってばかりなのです。それでも御心の成るを信じて待望する時、しるしを見るのです。召し使いたちも徒労に賭けて働きました。謙虚な服従を示していく時、必ず憂い悲しみは取り去られるのです。人生には苦しみが付いて回ります。人間が苦しみに立ち向かうことが出来るのは、未来に希望があるからです。「時は未だ来ていない」のかも知れませんが、「良い葡萄酒の時」は必ず来るのです。
朝日研一朗牧師
聖句「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『私たちはメシアに出会った』と言った。そして、シモンをイエスの所に連れて行った。」(1:41,42)
1.《その翌日》 イエスさまの伝道の始めは、弟子たちを召し出されることでした。これを「召命」(呼び掛け)と言います。「ヨハネによる福音書」は「その翌日」の繰り返しでドラマが盛り上がりません。それもそのはず、出来事の記録や説明のために書かれたのではありません。「弟子に成るとは、どんなことか」をテーマにしているのです。「最初の神学書」と言われる所以です。
2.《名の変化》 ポイントは、イエスさまに対する弟子たちの呼び名の変化です。洗礼者ヨハネに紹介されたイエスを「ラビ/先生」と呼びました。共に宿に泊まった後には、時が満ちて「メシア」と言います。「ナザレのイエス」等と「どこの馬の骨か」と馬鹿にしていたナタナエルも、出会った後では「ラビ、神の子、イスラエルの王」と「信仰告白」をします。他の福音書が「3年間」として描いた物語を、「ヨハネによる福音書」は「3日間」に凝縮しているのです。
3.《来て見よ》 テーマは「キリスト者として生きるとは」です。先ず、キリストに「付いて行く」「従って行く」契機として「出会い」があります。私の道が主の歩みと交錯することで、進路変更を余儀なくされるのです。信仰生活は「絵に描いた餅」ではありません。「来て、見て」初めて醍醐味が知られるのです。アンデレはシモンを、フィリポはナタナエルを連れて行きました。伝道の難しさが言われますが、私たちは「その人に出会っている」でしょうか。イエスさまがして下さったように、心を開いて接しているでしょうか。
朝日研一朗牧師
聖句「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(4:7)
1.《愛する能力》 マザー・テレサは「愛は行ないです。思想や哲学ではありません」と言いました。人間にとって一番重要なもの、人格の中心を形造っているものは「愛する能力」です。1人の人間の進歩を計るのは、知能テストではなく、その人がどこまで愛されているか、愛することが出来るかです。「愛することを知っている」人こそが真に成熟した人間と言えるでしょう。
2.《神さまの愛》 誰しも「愛されたい」と願います。人間の追及する快楽は、それに尽きるのです。「人は皆、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」と、パウロも言っています。しかし、「愛されたい」自分を変えて、「愛する者」として立って行くのです。愛することが出来るのは「神の愛を知っている」からです。その確信を「信仰」と呼ぶのです。健やかな時も病める時も、順境でも逆境でも、神さまは私を愛して下さっているのです。
3.《私の出発点》 神さまに「愛されている」喜びは結構ですが、そこで終わってしまってはいけません。そこから出発して、活きて働くのが信仰です。私たちは何度も何度も失敗しては、ヨハネの呼び掛け「互いに愛し合いましょう」に帰って行くのです。「放蕩息子の家出」は「自立の旅立ち」へ変えられるのです。神の愛が私たちを必ずや変えて下さいます。カトリックのミサの終わりに唱えられる「イテ・ミッサ・エスト」には二重の意味があります。「ミサは終わった」と「汝らは遣わされる」(ミッションの語源)です。
朝日研一朗牧師
聖句「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(24:31)
1.《見えない復活》 主の復活は目に見えるような出来事だったのでしょうか。福音書は「見た」という目撃証言ではなく、「見なかった」という証言ばかりです。世の中で「見た」が重視されるのは、誰もが同じように見えると前提しているからです。その前提が崩れると、途端に恐慌を起こすのです。改めて考えると、何と目の見える人本位の世界であることでしょうか。
2.《エマオの弟子》 婦人たちに見えたのは「空虚な墓」、ペトロに見えたのは「遺体に巻かれていた亜麻布」でした。エマオ途上の弟子たちにしても、「イエスだと分かった」瞬間に「その姿は見えなく」なるのです。見た人しか信じられないような信仰、目の見える人しか信じられない復活に価値はありません。福音書が一貫して主張しているのは、「見た」証言ではなくて「現われた」という顕現です。徹底して、個々人との出会い、再会として描かれているのです。
3.《心の目で見る》 エマオに向かう2人の弟子は、復活の第一報を耳にしながら「戯言のように思われて」、早々にエルサレムを跡にしました。しかし、この救いようもなく消極的な逃亡者に、彼らが「愚か」と断じた復活のイエスが、直々に近付いて、共に歩いて下さるのです。物分りが悪く、心の鈍い弟子たちのためには、愚か者を召すためには、自分から愚か者の仲間と成られるのです。漸く弟子たちが悟った時には、御姿が消えて行きます。復活というものは、心で確信するならば、もはや目で見る必要はないのです。
朝日研一朗牧師