2013年04月02日

4月第1主日礼拝

       4月 7日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”愛によって生きる” 音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネの手紙 4章7〜12節(p.445)
賛 美 歌  27、330、490、326、475、74、24
交読詩篇  145編14〜21節(p.163)


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2013年04月01日

心の目を開いて【ルカ 24:13〜32】

聖句「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(24:31)

1.《見えない復活》 主の復活は目に見えるような出来事だったのでしょうか。福音書は「見た」という目撃証言ではなく、「見なかった」という証言ばかりです。世の中で「見た」が重視されるのは、誰もが同じように見えると前提しているからです。その前提が崩れると、途端に恐慌を起こすのです。改めて考えると、何と目の見える人本位の世界であることでしょうか。

2.《エマオの弟子》 婦人たちに見えたのは「空虚な墓」、ペトロに見えたのは「遺体に巻かれていた亜麻布」でした。エマオ途上の弟子たちにしても、「イエスだと分かった」瞬間に「その姿は見えなく」なるのです。見た人しか信じられないような信仰、目の見える人しか信じられない復活に価値はありません。福音書が一貫して主張しているのは、「見た」証言ではなくて「現われた」という顕現です。徹底して、個々人との出会い、再会として描かれているのです。

3.《心の目で見る》 エマオに向かう2人の弟子は、復活の第一報を耳にしながら「戯言のように思われて」、早々にエルサレムを跡にしました。しかし、この救いようもなく消極的な逃亡者に、彼らが「愚か」と断じた復活のイエスが、直々に近付いて、共に歩いて下さるのです。物分りが悪く、心の鈍い弟子たちのためには、愚か者を召すためには、自分から愚か者の仲間と成られるのです。漸く弟子たちが悟った時には、御姿が消えて行きます。復活というものは、心で確信するならば、もはや目で見る必要はないのです。

朝日研一朗牧師

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