2013年05月28日

6月第1主日礼拝

       6月 2日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”天使の顔 ” 音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 6章8〜15節(p.223)
賛 美 歌  27、551、490、492、545、77、26
交読詩篇  29編1〜11節(p.34)

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posted by 行人坂教会 at 08:20 | 毎週の礼拝案内

2013年05月27日

わたしにあるもの【使徒言行録3:1〜10】

聖句「私には金や銀はないが、持っているものを上げよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)

1.《大化け》 デビュー時に目立たなかったタレントが、何かを契機にして一躍大スターに成ることを、芸能界では「化ける」と言います。ペトロは思慮浅く、誘惑に負け、何度も失敗を重ねました。しかし、その冴えない男が使徒の代表、やがてローマ教会の指導者となり、殉教を遂げるのです。歴史に大きな活動の足跡を残したペトロを支えた、信仰の原点は何だったのでしょうか。

2.《奇跡力》 イエスさまを否認したペトロでしたが、危うい所を、主の復活と赦しによって生かされたのです。彼にあるのは、その確信と証言だけでした。神殿で「生まれながら足の不自由な男」と出会ったペトロは、その「持っているものを上げた」のです。物乞いは「歩き回ったり躍ったりして」神を賛美しました。「歩き回る」こと等、私たちには何でも無い事のようですが、それが奇跡です。当たり前の事として見過している事柄の中に、神さまの御力が働いているのです。

3.《お名前》 人を生かすものは金銀ではなく、十字架の赦しの力です。「イエス・キリストの名によって」と言われているように、奇跡の出来事はペトロの力によるものではありません。イエスさまの御名に、その御生涯と御業、御言葉が全て宿っているのです。しかしながら、魔術的な呪文でも霊験新たかな効力でもありません。ただ、私はここに立っている、赦され生かされているという証しです。そして、それこそが人間の恢復に是非とも必要なのです。更には、それが「無学な普通の人」に非凡な人生を歩ませて行ったのです。

朝日研一朗牧師

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2013年05月21日

5月第4主日礼拝(三位一体主日)

       5月26日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”わたしにあるもの” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 3章1〜10節(p.217)
賛 美 歌  27、353、490、165、351、25
交読詩篇  106編1〜5節(p.121)

昼食サービス(カレーライス:300円) 礼拝後   於 階下ホール

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2013年05月20日

弱虫ペトロの力強い証し【使徒言行録2:37〜42】

聖句「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとその他の使徒たちに、『私たちはどうしたらよいのですか』と言った。」(2:37)

1.《ペンテコステ》 見た目に囚われると物事の本質は見えてきません。「聖霊降臨」によって引き起こされた現象にばかり囚われると、却って出来事の意味を見落とします。繰り返される「ような」という語は日常に有り得ないが故の表現です。出来事の説明が僅かに4節なのも、聖書が現象よりも意味に重点を置いているからです。聖霊の働きは人間の理解を超えているのです。

2.《兄弟たちよ!》 ペトロが「知って頂きたい」と語るのは、イエス・キリストの十字架の死と復活です。その説教の中で「あなたがたが殺した」と糾弾をしているのです。それなのに人々は「大いに心を打たれ」、「兄弟たちよ」と言って、使徒たちに身の処し方の如何を尋ねるのです。普通、ミスを指摘されたり、糾弾されたら、生理的に反発するはずです。罪を指弾されながらも、互いに「兄弟よ」と呼び交わす関係が生まれるとしたら、それこそが聖霊の働きです。

3.《罪の仲間たち》 「私たちはどうしたらよいのですか」は、絶望と希望とが綯い交ぜになった言葉です。自分に自信があったら、そんなことは言いません。自分に絶望した者が、すっかり神さまに自分を明け渡しているのです。そして、罪の糾弾を受けた人たちが「仲間に加わった」と言われています。実は、使徒たちも全く同じ経験をしていたのです。ペトロたち自身が「主を十字架に付けたのは私だ」「どうしたらよいのか」と泣き叫んだはずなのです。それだからこその「仲間」なのです。絶望の告白の上に教会は立っているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:27 | 毎週の講壇から

2013年05月14日

ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝

       5月19日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”弱虫ペトロの力強い証し” 音楽   朝日研一朗牧師
聖  書  使徒言行録 2章37〜42節(p.216)
賛 美 歌  27、353、490、397、7、76、25
交読詩篇  106編1〜5節(p.121)

賛美歌練習 (6月の月歌:551番)  礼拝後   於 礼拝堂
あいさつの会(相互交流の会)      賛美歌練習後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール

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posted by 行人坂教会 at 09:09 | 毎週の礼拝案内

2013年05月13日

荒野のオアシス【創世記16:1〜16】

聖句「主の御使いが荒れ野の泉のほとり…で彼女と出会って、言った。『…ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。』」(16:7,8)

1.《まなざしの力》 戦前、ある少年の話です。母子家庭の暮らしは厳しく、母親が町の有力者の妾になりました。少年は有力者の援助を受けて隣町の高等中学に通いました。町の人たちの軽蔑と妬みの混じった眼差しに耐え切れず、思わず飛び込んだ教会で「姦通の女」の物語に接して、少年は入信し、やがて牧師に成りました。人を追い詰める眼差しも、人を温かく包む眼差しもあるのです。

2.《それでも人間》 以前、レイプ犯罪の被害者女性のレポートを読んだことがあります。勇気を奮い起こして裁判に訴えたものの、好奇の眼差しに晒され、過去を剥き出しにされて敗訴していました。弁護士が訪ねると「それでも、あたし、人間よね」と彼女は訴えたと言います。誰もが人格をもった大切な存在として尊重されるべきです。「母の日」も、所謂「母親」だけが賛美される日であってはなりません。誰にも母性は与えられており、誰もが「神の子供」なのです。

3.《顧みられる神》 子宝の与えられないアブラハムは、サラの女奴隷ハガルを側女に迎えます。しかし、女主人は妊娠したハガルをイジメて、彼女は行く当てもなく出奔します。神が現われて彼女に「女主人の下に帰り、従順に仕えよ」と言います。「従順に仕えよ」とは「彼女の手の下で苦しめられよ」です。何と、非情な御言葉でしょう。ところが、驚いたことに、ハガルは苦しみしか無い所に戻って行くのです。「私を顧みられる神」の確信を得たからです。勿論「顧みる」とは「見詰める、見守る、眼差しを注ぐ」という意味です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:25 | 毎週の講壇から

2013年05月07日

5月第2主日礼拝(母の日)

       5月12日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”荒野のオアシス” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  創世記 16章1〜16節(p.20)
賛 美 歌  27、353、490、347、404、25
交読詩篇  106編1〜5節(p.121)


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posted by 行人坂教会 at 08:43 | 毎週の礼拝案内

2013年05月06日

キリストは昇天す【使徒言行録1:6〜11】

聖句「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて、彼らの目から見えなくなった。」(1:9)

1.《期間限定》 イースターから数えて40日目がキリストの「昇天日」です。聖書では「40」はエポックの数字、銀行預金の「満期」です。しかも、復活から昇天までは、人間の体で言えば、骨と骨とを繋ぐ関節のような、「イエス・キリストの時代」から「教会の時代」へと移る節目だったのです。イエスさまが御自ら復活の生き証人として活動された「聖なる期間」でもあったのです。

2.《大喜びで》 イエスさまが「天に上げられ」てしまいました。別離は寂しい悲しい出来事かと思われますが、前編「ルカによる福音書」巻末には、弟子たちが「大喜びで」あったと書いてあるのです。ここに、人生を生きる「喜びの秘訣」が隠されています。昇天の主は私たちを「祝福」なさったのです。祝福は存在の肯定です。また「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続」します。そして、この昇天の出来事を通して、天と地とが、神と人間とが結ばれたのです。今や「御顔を向けて下さい」と祈りことが出来るのです。

3.《世に帰る》 昇天の出来事はベタニア近郊の丘の上だったらしく、古来、欧州では礼拝行進をしたり丘の上で野外礼拝をする伝統がありました。丘の上で、キリスト昇天を見つめている弟子たちに、天使が登場して「なぜ天を見上げて立っているのか」と言います。聖書の天使は、私たちを天の上ではなく、地上へと促すのです。天使の言葉は「聖霊降臨」の出来事を前提としていますが、それ以上に、昇天の祝福が「宣教への祝福」でもあることを思わされます。私たちが主の復活を証しする時、キリストは生きて働かれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:28 | 毎週の講壇から