2013年05月13日

荒野のオアシス【創世記16:1〜16】

聖句「主の御使いが荒れ野の泉のほとり…で彼女と出会って、言った。『…ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。』」(16:7,8)

1.《まなざしの力》 戦前、ある少年の話です。母子家庭の暮らしは厳しく、母親が町の有力者の妾になりました。少年は有力者の援助を受けて隣町の高等中学に通いました。町の人たちの軽蔑と妬みの混じった眼差しに耐え切れず、思わず飛び込んだ教会で「姦通の女」の物語に接して、少年は入信し、やがて牧師に成りました。人を追い詰める眼差しも、人を温かく包む眼差しもあるのです。

2.《それでも人間》 以前、レイプ犯罪の被害者女性のレポートを読んだことがあります。勇気を奮い起こして裁判に訴えたものの、好奇の眼差しに晒され、過去を剥き出しにされて敗訴していました。弁護士が訪ねると「それでも、あたし、人間よね」と彼女は訴えたと言います。誰もが人格をもった大切な存在として尊重されるべきです。「母の日」も、所謂「母親」だけが賛美される日であってはなりません。誰にも母性は与えられており、誰もが「神の子供」なのです。

3.《顧みられる神》 子宝の与えられないアブラハムは、サラの女奴隷ハガルを側女に迎えます。しかし、女主人は妊娠したハガルをイジメて、彼女は行く当てもなく出奔します。神が現われて彼女に「女主人の下に帰り、従順に仕えよ」と言います。「従順に仕えよ」とは「彼女の手の下で苦しめられよ」です。何と、非情な御言葉でしょう。ところが、驚いたことに、ハガルは苦しみしか無い所に戻って行くのです。「私を顧みられる神」の確信を得たからです。勿論「顧みる」とは「見詰める、見守る、眼差しを注ぐ」という意味です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:25 | 毎週の講壇から