2013年06月29日

ご自宅で礼拝を

1.放談会から

行人坂教会では、毎年1月に「役員放談会」というものを開催しています。クリスマスの諸行事が終わり、新年度定期総会の準備に忙しくなる前に、牧師と役員が集って、文字通り「放談」をするのです。「放談」ですから「無責任な思い付き」を出し合うのです。

私の着任後しばらくは、もう少し真面目に「役員懇談会」等と称していました。この機会に、日頃の役員会では、報告と協議事項に追われて、話題に出来ないことを懇談しよう。あるいは、新年度の「牧会方針案」に、牧師だけではなく役員のアイデアも盛り込もう。そんなことを考えて始めたものです。

その後、余り真面目にやっていたのでは、ダイナミックな意見、自由で生き生きとした意見が出ないと気付き、「懇談会」ではなく「放談会」と名称変更したのです。因みに、定期総会後、つまり、役員改選後の5月の「懇談会」は「懇談会」のままにして置いたのですが、これも新年度は、遂に「放談会」と化してしまいました。

2.瓢箪から駒

さて、1月の「放談会」で出された意見の中から、一気に具体化しつつあるのが、電話回線を利用した「礼拝音声配信サービス」です。

「放談会」の席上、ある役員が「今は礼拝に通うことが出来ているが、将来、高齢になったり、病床に就いたら、礼拝できなくなるのか」と問題提起をなさったことが発端でした。そこで思い出されたのが「多回線音声応答装置・サービスホン」の存在でした。教会の指定番号に電話を掛けるだけで、その日その時に行われている礼拝の実況が聴けるのです。昔、私が伝道師、副牧師として在任した南大阪教会が、逸早く、そのシステムを導入していました。南大阪教会では「福音コール」という愛称を付けていました。システム導入に取り組んだ岩橋常久牧師は、既に横浜の紅葉坂教会に転任なさっていましたが、早速お電話をして、資料をドッサリお送り頂き、翌々月の役員会に諮ることが出来ました。その際に、設置に向けて取り組むことが決定されました。

4月14日には、実際に運用なさっている教会から話を伺おうということで、2名の前役員と共に、中渋谷教会に赴き、M長老から詳しく運用のノウハウを教わりました。その中渋谷教会の事例を紹介した『教団新報』の記事(2008年3月1日号)から、以下、引用してみたいと思います。

「電話回線で礼拝が守れることで高齢者は安心して老いることができる。自宅にいる限り礼拝を守ることができるということが大きな力になっている。電話機の進化もそれに一役買っている。電話のオンフック機能の普及によって、ずっと受話器を支えていなくても、礼拝を聞くことができるようになった。」

「オンフック機能」とは「スピーカー機能」のことです。しかも、この記事が掲載された5年前から電話機の機能は更に向上し、子機でも可能になっています。子機を利用すれば、ベッドの傍らに置いて、礼拝を聞くことが出来ます。最近では携帯電話(セルラー)の普及も著しく、高齢者でも携帯電話を利用されている方は大勢おられます。さすれば、「自宅にいる限り」という制約すら、絶対では無くなっているのです(但し、病院と特定の施設、公共交通機関では、携帯電話の使用は控えなくてはなりません)。

しかも、各自の利用料(自己負担額)は1回の礼拝につき、(東京24区内の場合)180〜250円が電話料金に加算される程度のことです。そう、礼拝に通う電車賃、バス料金くらいの値段なのです。

3.本物の礼拝

ご高齢のため、その他の理由のため、今現在、長期間にわたって、礼拝をお休みになっている会員の10家庭に、アンケートを取って、ご利用を促す予定です。このシステムを導入するために、取り敢えず6つの専用回線を設置します。利用希望者が大勢おられれば、12回線に増設することも考えています。

設置の初期費用に46万円余を支出します。設置すれば、月額利用料として1万1千円余を、教会は毎月負担して行くことになります。しかし、お金の問題以上に大切な課題があります。それは、最初にあった問題提起です。「高齢になって通えなくなったら、礼拝に参加できなくなる」という現状を放置して、無策のまま、手を拱(こまね)いているのは、教会の在り方として善くないという認識です。

私自身も、その時その場に共にいるのが「本物の礼拝」で、映像や音声を流しても「本物の礼拝」ではないと思い込んでいました。そのように教え込まれて来たからです。しかし、「礼拝に参加したい」「礼拝を聞きたい」、それも「他でもない、行人坂教会の礼拝を!!」という切なる願いを、信仰の先輩たちが持っておられたと思い至った時に、今まで自分は何と無為無策であったかと、大いに反省した次第です。

行人坂教会の礼拝に思いを寄せながら、天国に召されて行った、姉妹兄弟たちのお顔が思い浮かびます。しかし、今からでも遅くはありません。1年後、数年後に、通えなくなるかも知れない信仰の友たちのためにも、早急に設置に踏み切ろうと、6月役員会は決断したのです。最初の利用者が、たとえ誰もいなくても、設置しようと決定したのです。

その昔、『ティファニーで朝食を』という題名の映画がありました。そもそも、高級宝飾店のティファニーに食堂はないのですが、あたかも「ティファニーで朝食を食べるような身分」というヒロインの憧れを表現したのです。私たちが願い求めているのは、そんな贅沢なことではありません。ただ「自宅で行人坂教会の礼拝を」、それだけのことなのです。

牧師 朝日研一朗

【2013年7月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 18:13 | ┣会報巻頭言など

2013年06月25日

6月第5主日礼拝

       6月30日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”キリスト教会の心” 音楽 野田 沢牧師(学生キリスト教友愛会主事)
聖  書  使徒言行録 2章36〜47節(p.216)
賛 美 歌  27、551、490、390、567、26
交読詩篇  29編1〜11節(p.34)

昼食(お弁当:500円、非会員は無料で提供)  礼拝後   階下ホール
教会懇談会         正午〜1時30分       階下ホール
 発題:「災害と教会〜目を覚ましていなさい〜」      野田 沢牧師

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posted by 行人坂教会 at 08:48 | 毎週の礼拝案内

2013年06月24日

欠けを補う【コロサイ1:24〜29】

聖句「今や私は…キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(1:24)

1.《キリストの欠け》 キリストの十字架の苦難に「尚足りない所」があったかのように思われる言葉です。キリストの救いは、後から人間が補ったり満たしたりするような安普請なのでしょうか。救済史においては、十字架の一回性が強調されるのですが、ここに言う「苦しみ」は複数形です。どうやら、私たちが生きていて出遭う悲しみや苦しみであるようなのです。

2.《欠けは私たちに》 むしろ、欠けたるは私たち自身なのです。キリスト者たる者、キリストの復活の命に与ることを願うならば、十字架の死にも与るべきなのです。そのことを自覚した時、どこまでも足りない自身に気付かざるを得ないのです。到底、満たし切れない不足です。救いの御業を不完全なものにしているのは私たちなのです。だからこそ、繰り返し、愛の業によって、身をもって満たしていこうとするのです。これが「悩む力」「苦しむ力」です。苦しみの中で尚、生きていく生き方があるのです。それを信仰と言います。

3.《小さなキリスト》 今イエスさまは目に見える御姿では居られません。今度は私たちの出番なのです。キリストの使者として、苦しみを担う時、私たちも「小さなキリスト」に成ります。何も「大きなキリスト」に成ろうとする必要はありません。むしろ、誰か一人でも良いのです。私たちの小さな奉仕の背後に、真の主が居られることに気付いてくれさえすれば、使命を達成できるのです。この世の中に、十字架と関わりの無い苦しみは、ただの1つもありません。それ故、あらゆる苦しみが輝きを帯び、光を放つのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:35 | 毎週の講壇から

2013年06月18日

6月第4主日礼拝

       6月23日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”欠けを補う” 音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  コロサイの信徒への手紙 1章24〜29節(p.369)
賛 美 歌  27、551、490、281、474、26
交読詩篇  29編1〜11節(p.34)

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posted by 行人坂教会 at 09:23 | 毎週の礼拝案内

2013年06月17日

共に喜び、共に泣く【ローマ 12:9〜21】

聖句「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:14,15)

1.《神からの信号》 人間に痛みと苦しみが無ければ、どんなに幸せでしょうか。ところが、実際に、アメリカに痛みを感じない子供がいたそうです。「穏やかな良い子」と可愛がられていましたが、釘を踏み抜いていても、何も気付かなかったと言います。むしろ、痛みも苦しみも神さまからの信号として受け止めて行くべきではないでしょうか。きっと、何か意味があるのです。

2.《不幸は驚き!》 大きな不幸に遭った時、私たちは「なぜ?」という叫びを上げます。答えは見つかりません。驚きとして、謎のままに残されるのです。私たちが求めているのは、苦しみの「原因」説明ではなく、苦しみの「目的や意味」でからです。不幸に驚く者は、神の創造それ自体に驚いているのです。今更ながらに生まれたこと、生かされていることに驚いているのです。何一つ自明のことはありません。問い掛けを発することで被造物としての自覚が生じるのです。キリスト教で「苦難」が語られるのは、諦念や悟りのためではありません。

3.《共に苦しむ》 聖書は「ハウツー物」ではありませんから、幸せに成るコツは書いてありません。むしろ「苦難は必ずある」と言います。避けて通りたいのが本音ですが、避けられないのならば、どうすれば良いでしょうか。ここに「コンパッション/共苦」があります。苦しみは孤独と疎外を生み出すばかりか、排斥される場合もあります。しかし、「キリストの体」は「共に悩む」のです。これは人間には奇跡に近いことです。これこそが十字架を仰ぐ教会に与えられた信仰の指標です。イエスさまの十字架の道に連なるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:52 | 毎週の講壇から

2013年06月11日

6月第3主日礼拝

       6月16日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”共に喜び共に泣く” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  ローマの信徒への手紙 12章9〜21節(p.292)
賛 美 歌  27、551、490、486、540、26
交読詩篇  29編1〜11節(p.34)

賛美歌練習 (7月の月歌:468番)  礼拝後   於 礼拝堂
あいさつの会(相互交流の会)      賛美歌練習後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール

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posted by 行人坂教会 at 09:38 | 毎週の礼拝案内

2013年06月10日

人はどこへ行くのか【ヨブ記14:1〜10】

聖句「だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」(14:10)

1.《豚はどこへ》 九州教区総会の会場である福岡までは、隣町の教会の牧師と交替で、自動車を運転して、7時間もかかります。追い越し禁止車線の続く山道、豚を乗せたトラックが前を塞いでします。それを笑っていると、トラックが右折しました。その刹那、断末魔のように、豚が一斉にいななきました。そこは「なんちく」というハム工場への曲がり角だったのです。

2.《牛はどこへ》 宗教学者の中沢新一は29歳の時、チベットに行き、ラマ僧のもとで修行をしました。ラマ僧は彼を屠殺場に連れて行き、1日中マントラ(お経)を唱えるように命じます。牛がロープで引っ張って来られ、屠殺人がハンマーを振り下ろします。すぐさま腹を裂いて内臓を取り出します。一面が血の海です。やがて、牛と一緒に悲鳴を上げている自分に気付きました。ラマ僧は「牛はお前だ。お前は牛に成った。自身の心に近付けたら良いのだ」と言いました。

3.《猿はどこへ》 中国南北朝時代(宋)に編纂された『世説新語』にある物語です。都で貴族のペットにでもするのでしょう。子猿が捕らえられて、商人に売り飛ばされ、黄河を下る舟で運ばれて行きます。母猿は子猿の泣き声だけを頼りに、川沿いの断崖を追いかけます。やがて港に着いた時、母猿は子猿の入れられた籠に手を掛けて息絶えました。即ち、その腸は裂けていました。これを「断腸の愛」と人々は呼びました。動物にも植物にも魚貝にも命があります。命があるものには心があります。私たちは命と心を失ってはなりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:29 | 毎週の講壇から

2013年06月04日

6月第2主日礼拝(子どもの日・花の日)

       6月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”人はどこへ行くのか音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ヨブ記 14章1〜12節(p.792)
賛 美 歌  27、551、62、507、「わたしたちは何者か」、26
交 読 文  「菜の花」(河野進)


CS花の日訪問     礼拝後   行き先:目黒新橋交番

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posted by 行人坂教会 at 09:01 | 毎週の礼拝案内

2013年06月03日

天使の顔【使徒言行録6:8〜15】

聖句「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」(6:15)

1.《ステファノ》 ステファノは「初代教会」最初の殉教者です。教会の中に生じた差別と不公平を解決し、生活困窮者に対応するために立てられた7人の補佐役の1人でしたが、恵みと力に満ちて働きの場を広げました。使徒たちの手の及ばない所、ギリシア語を話すユダヤ人たちに御言葉を宣べ伝えて行ったのです。

2.《天使の働き》 彼の宣教は「リベルテン」と言われる外国生まれのユダヤ教徒から猛烈な反発を受け、宗教裁判所に連行されるのです。しかし、証しを立てるステファノは「天使の顔」のようだったと言われています。「天使」と言うと、私たちは、翼の生えた人間モドキを想像しますが、姿形ではありません。新約聖書では、「聖霊」の場合と同様に、その働きを言うのです。天使の働きは3つです。即ち、御言葉を告げる、神を賛美する、神に仕える。

3.《顔を輝かす》 ステファノが「天使」の如くだったのは、3つの働きに邁進したからです。但し、彼に悩みや苦しみが無かった訳ではありません。初代教会内部は早くも派閥の衝突がありましたし、外部のユダヤ教徒からの迫害も激しかったのです。しかし、全て御手の内にあると信じて、自らの為すべきことを為し、御光を映して行ったのです。実際、歴史は人間の思いを超えていました。ステファノ殺害に加担したパウロが使徒と変えられるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:56 | 毎週の礼拝案内

2013年06月02日

創立110周年記念・体験礼拝のご案内

来る6月30日に行人坂教会創立110周年記念の行事として次の礼拝をご案内しております。

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posted by 行人坂教会 at 17:23 | 教会からのお知らせ