説 教 ”キリスト教会の心”

聖 書 使徒言行録 2章36〜47節(p.216)
賛 美 歌 27、551、490、390、567、26
交読詩篇 29編1〜11節(p.34)
昼食(お弁当:500円、非会員は無料で提供) 礼拝後 階下ホール
教会懇談会 正午〜1時30分 階下ホール
発題:「災害と教会〜目を覚ましていなさい〜」 野田 沢牧師
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「今や私は…キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(1:24)
1.《キリストの欠け》 キリストの十字架の苦難に「尚足りない所」があったかのように思われる言葉です。キリストの救いは、後から人間が補ったり満たしたりするような安普請なのでしょうか。救済史においては、十字架の一回性が強調されるのですが、ここに言う「苦しみ」は複数形です。どうやら、私たちが生きていて出遭う悲しみや苦しみであるようなのです。
2.《欠けは私たちに》 むしろ、欠けたるは私たち自身なのです。キリスト者たる者、キリストの復活の命に与ることを願うならば、十字架の死にも与るべきなのです。そのことを自覚した時、どこまでも足りない自身に気付かざるを得ないのです。到底、満たし切れない不足です。救いの御業を不完全なものにしているのは私たちなのです。だからこそ、繰り返し、愛の業によって、身をもって満たしていこうとするのです。これが「悩む力」「苦しむ力」です。苦しみの中で尚、生きていく生き方があるのです。それを信仰と言います。
3.《小さなキリスト》 今イエスさまは目に見える御姿では居られません。今度は私たちの出番なのです。キリストの使者として、苦しみを担う時、私たちも「小さなキリスト」に成ります。何も「大きなキリスト」に成ろうとする必要はありません。むしろ、誰か一人でも良いのです。私たちの小さな奉仕の背後に、真の主が居られることに気付いてくれさえすれば、使命を達成できるのです。この世の中に、十字架と関わりの無い苦しみは、ただの1つもありません。それ故、あらゆる苦しみが輝きを帯び、光を放つのです。
朝日研一朗牧師
聖句「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:14,15)
1.《神からの信号》 人間に痛みと苦しみが無ければ、どんなに幸せでしょうか。ところが、実際に、アメリカに痛みを感じない子供がいたそうです。「穏やかな良い子」と可愛がられていましたが、釘を踏み抜いていても、何も気付かなかったと言います。むしろ、痛みも苦しみも神さまからの信号として受け止めて行くべきではないでしょうか。きっと、何か意味があるのです。
2.《不幸は驚き!》 大きな不幸に遭った時、私たちは「なぜ?」という叫びを上げます。答えは見つかりません。驚きとして、謎のままに残されるのです。私たちが求めているのは、苦しみの「原因」説明ではなく、苦しみの「目的や意味」でからです。不幸に驚く者は、神の創造それ自体に驚いているのです。今更ながらに生まれたこと、生かされていることに驚いているのです。何一つ自明のことはありません。問い掛けを発することで被造物としての自覚が生じるのです。キリスト教で「苦難」が語られるのは、諦念や悟りのためではありません。
3.《共に苦しむ》 聖書は「ハウツー物」ではありませんから、幸せに成るコツは書いてありません。むしろ「苦難は必ずある」と言います。避けて通りたいのが本音ですが、避けられないのならば、どうすれば良いでしょうか。ここに「コンパッション/共苦」があります。苦しみは孤独と疎外を生み出すばかりか、排斥される場合もあります。しかし、「キリストの体」は「共に悩む」のです。これは人間には奇跡に近いことです。これこそが十字架を仰ぐ教会に与えられた信仰の指標です。イエスさまの十字架の道に連なるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」(14:10)
1.《豚はどこへ》 九州教区総会の会場である福岡までは、隣町の教会の牧師と交替で、自動車を運転して、7時間もかかります。追い越し禁止車線の続く山道、豚を乗せたトラックが前を塞いでします。それを笑っていると、トラックが右折しました。その刹那、断末魔のように、豚が一斉にいななきました。そこは「なんちく」というハム工場への曲がり角だったのです。
2.《牛はどこへ》 宗教学者の中沢新一は29歳の時、チベットに行き、ラマ僧のもとで修行をしました。ラマ僧は彼を屠殺場に連れて行き、1日中マントラ(お経)を唱えるように命じます。牛がロープで引っ張って来られ、屠殺人がハンマーを振り下ろします。すぐさま腹を裂いて内臓を取り出します。一面が血の海です。やがて、牛と一緒に悲鳴を上げている自分に気付きました。ラマ僧は「牛はお前だ。お前は牛に成った。自身の心に近付けたら良いのだ」と言いました。
3.《猿はどこへ》 中国南北朝時代(宋)に編纂された『世説新語』にある物語です。都で貴族のペットにでもするのでしょう。子猿が捕らえられて、商人に売り飛ばされ、黄河を下る舟で運ばれて行きます。母猿は子猿の泣き声だけを頼りに、川沿いの断崖を追いかけます。やがて港に着いた時、母猿は子猿の入れられた籠に手を掛けて息絶えました。即ち、その腸は裂けていました。これを「断腸の愛」と人々は呼びました。動物にも植物にも魚貝にも命があります。命があるものには心があります。私たちは命と心を失ってはなりません。
朝日研一朗牧師
聖句「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」(6:15)
1.《ステファノ》 ステファノは「初代教会」最初の殉教者です。教会の中に生じた差別と不公平を解決し、生活困窮者に対応するために立てられた7人の補佐役の1人でしたが、恵みと力に満ちて働きの場を広げました。使徒たちの手の及ばない所、ギリシア語を話すユダヤ人たちに御言葉を宣べ伝えて行ったのです。
2.《天使の働き》 彼の宣教は「リベルテン」と言われる外国生まれのユダヤ教徒から猛烈な反発を受け、宗教裁判所に連行されるのです。しかし、証しを立てるステファノは「天使の顔」のようだったと言われています。「天使」と言うと、私たちは、翼の生えた人間モドキを想像しますが、姿形ではありません。新約聖書では、「聖霊」の場合と同様に、その働きを言うのです。天使の働きは3つです。即ち、御言葉を告げる、神を賛美する、神に仕える。
3.《顔を輝かす》 ステファノが「天使」の如くだったのは、3つの働きに邁進したからです。但し、彼に悩みや苦しみが無かった訳ではありません。初代教会内部は早くも派閥の衝突がありましたし、外部のユダヤ教徒からの迫害も激しかったのです。しかし、全て御手の内にあると信じて、自らの為すべきことを為し、御光を映して行ったのです。実際、歴史は人間の思いを超えていました。ステファノ殺害に加担したパウロが使徒と変えられるのです。
朝日研一朗牧師