2013年06月17日

共に喜び、共に泣く【ローマ 12:9〜21】

聖句「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:14,15)

1.《神からの信号》 人間に痛みと苦しみが無ければ、どんなに幸せでしょうか。ところが、実際に、アメリカに痛みを感じない子供がいたそうです。「穏やかな良い子」と可愛がられていましたが、釘を踏み抜いていても、何も気付かなかったと言います。むしろ、痛みも苦しみも神さまからの信号として受け止めて行くべきではないでしょうか。きっと、何か意味があるのです。

2.《不幸は驚き!》 大きな不幸に遭った時、私たちは「なぜ?」という叫びを上げます。答えは見つかりません。驚きとして、謎のままに残されるのです。私たちが求めているのは、苦しみの「原因」説明ではなく、苦しみの「目的や意味」でからです。不幸に驚く者は、神の創造それ自体に驚いているのです。今更ながらに生まれたこと、生かされていることに驚いているのです。何一つ自明のことはありません。問い掛けを発することで被造物としての自覚が生じるのです。キリスト教で「苦難」が語られるのは、諦念や悟りのためではありません。

3.《共に苦しむ》 聖書は「ハウツー物」ではありませんから、幸せに成るコツは書いてありません。むしろ「苦難は必ずある」と言います。避けて通りたいのが本音ですが、避けられないのならば、どうすれば良いでしょうか。ここに「コンパッション/共苦」があります。苦しみは孤独と疎外を生み出すばかりか、排斥される場合もあります。しかし、「キリストの体」は「共に悩む」のです。これは人間には奇跡に近いことです。これこそが十字架を仰ぐ教会に与えられた信仰の指標です。イエスさまの十字架の道に連なるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:52 | 毎週の講壇から