2013年06月24日

欠けを補う【コロサイ1:24〜29】

聖句「今や私は…キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(1:24)

1.《キリストの欠け》 キリストの十字架の苦難に「尚足りない所」があったかのように思われる言葉です。キリストの救いは、後から人間が補ったり満たしたりするような安普請なのでしょうか。救済史においては、十字架の一回性が強調されるのですが、ここに言う「苦しみ」は複数形です。どうやら、私たちが生きていて出遭う悲しみや苦しみであるようなのです。

2.《欠けは私たちに》 むしろ、欠けたるは私たち自身なのです。キリスト者たる者、キリストの復活の命に与ることを願うならば、十字架の死にも与るべきなのです。そのことを自覚した時、どこまでも足りない自身に気付かざるを得ないのです。到底、満たし切れない不足です。救いの御業を不完全なものにしているのは私たちなのです。だからこそ、繰り返し、愛の業によって、身をもって満たしていこうとするのです。これが「悩む力」「苦しむ力」です。苦しみの中で尚、生きていく生き方があるのです。それを信仰と言います。

3.《小さなキリスト》 今イエスさまは目に見える御姿では居られません。今度は私たちの出番なのです。キリストの使者として、苦しみを担う時、私たちも「小さなキリスト」に成ります。何も「大きなキリスト」に成ろうとする必要はありません。むしろ、誰か一人でも良いのです。私たちの小さな奉仕の背後に、真の主が居られることに気付いてくれさえすれば、使命を達成できるのです。この世の中に、十字架と関わりの無い苦しみは、ただの1つもありません。それ故、あらゆる苦しみが輝きを帯び、光を放つのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:35 | 毎週の講壇から