2013年07月30日

8月第1主日礼拝(平和聖日)

       8月 4日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”力を捨てよ” 音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  詩編 46編1〜12節(p.880)
賛 美 歌  27、410、490、357、373、79、29
交読詩編  57編1〜6節(p.65)

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posted by 行人坂教会 at 10:49 | 毎週の礼拝案内

2013年07月29日

まず、仲直りから【マタイ5:21〜26】

聖句「その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(5:24)

1.《関西のアホ》 関西人にとって「アホ」は身近な語です。1日百回くらいは、会話の中で「アホ」を言って、関係の緊張緩和を促します。関東の「バカ」よりも深みがあり、人間性を表現する語です。しかし、関西人は「バカ」と言わないから良いのではありません。問題にされているのは、言葉ではなく心です。

2.《裁く人の心》 イエスさまは、兄弟に「バカ」と言う者は裁かれ、兄弟を不信者扱いして裁く者こそは「地獄行き」と仰っているのです。しかし、「バカ」と言わなくとも、心無い言葉で、人の心を切り裂いてしまうことが、私たちにもあります。そして、どんなに「言葉狩り」をしても、差別する心は無くなりません。むしろ「裁く心」、人を「切り捨てる心」が問題なのです。その点では、「義憤」等というものは、マスコミによって製作され、時の政治権力によって利用、操作され易いものです。私憤の方が未だしも危険がありません。

3.《和解を優先》 自分が正しいと思って他人を切り捨てる人が「地獄行き」なのです。特に信仰者は肝に銘じなくてはなりません。教会は「恵みにより召されたる者の集い」です。信仰心が篤いからでも愛が深いからでもなく、ただ、神の恵みにより集い、私たちは互いに出会ったのです。神の恵みが無ければ、生涯、出会うこともなく、勝手に短い一生を終えていたのです。キリスト者にとって最も大切な礼拝よりも、イエスさまは「仲直り」を優先されています。同じように、御もとへと向かう人生(25節「一緒に道を行く場合」)なのですから、今の内に「途中で早く和解しなさい」と言われるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:38 | 毎週の講壇から

2013年07月26日

ゲリラ豪雨

1.前方の視界

南九州に暮らしていた頃、台風と集中豪雨は珍しくありませんでした。珍しくないとは言え、実際には、毎年やって来る台風の猛威は凄まじいものでした。集中豪雨も、私のような本州から来た者にとっては、あたかも「熱帯のスコール」のように思われました。地元の人が大抵、裸足に草履なのは、大雨が降って膝まで水に浸かっても平気だからです。

南九州では、自動車を運転していて、思わず低速運転せざるを得ないような、大雨も何度か経験しました。けれども、運転に支障を感じる程の集中豪雨を体験したのは、意外なことに、九州時代ではありません。

忘れ難い集中豪雨の思い出、その1回目は、但馬の実家へ里帰りの途中、中国自動車道の吉川JCTの辺りでした。もう1回は、軽井沢の東日本ユースキャンプに行く途中、上信越自動車道の藤岡JCTの辺りでした。いずれの場合も、余りの豪雨のために前方の視界が遮られて、高速道路であるにも拘わらず、30〜20キロまで減速せざるを得ませんでした。前方が見えないままの運転くらい、恐ろしいことはありません。

そう言えば、映画の『ザ・フォッグ』『ミスト』も斯くやと思うような濃霧に突入したことも何度かありました。北海道時代には、猛烈な地吹雪のために、フロントガラスの向こうが「ホワイトアウト」ということがありました。

2.豪雨と落雷

去る7月23日の「ゲリラ豪雨」にも驚かされました。翌日のニュースでも採り上げられていたので、御覧になった方も多いでしょう。目黒川が氾濫の寸前まで行きました。1時間に百ミリの集中豪雨が続き、水位が急上昇しました。沿岸地域では、サイレンが鳴り響きました。水位上昇が護岸から2.5メートルに達すると、自動的に警報機のサイレンが鳴るようになっているのです。

ネットの投稿写真で見ると、下流の五反田大橋は橋桁近くまで水が来ていました。どうやら、行人坂教会の辺りの目黒川も、氾濫まで残り2メートルというところだったようです。目黒川は氾濫せずとも、降水量の多さに道路の排水が追い付かず、山手通は(場所によっては)脹脛(ふくらはぎ)まで水嵩が来て、マンホールの蓋が浮いていたそうです。その結果、大鳥神社前交差点のアンダーパスは水没し、山手通は大渋滞となりました。

何でも目黒区民センターの近所の一般家庭では、トイレから下水が逆流して噴き出したそうです。やはり、川の近くだからでしょうか。川が氾濫する以前に、川に流している排水道に水が溢れてしまったのでしょう。

目黒川とは無関係ですが、ネットには、世田谷区の駒沢大学のキャンパスが水没した投稿写真、五反田や目黒中町の冠水した道路の写真もありました。恐らく、これらの地域は窪地に成っていて、周辺の地域から水が流れ込んで来たのではないでしょうか。

落雷も凄かったようです。目黒清掃工場の避雷針には、あの日だけで、3発もの雷が落ちたそうです。東急池上線は停電、エスカレーターもエレベーターも動かなくなりました。車椅子の子供を抱える家庭としては、そういう出来事がとても恐ろしく感じられます。また、東急東横線の学芸大学駅は雨漏りのために、パニック状態に成ったと言います。

3.菅原道真公

いつまでも鳴り止まない雷鳴を聞きながら、私は「清涼殿落雷事件」を思い出していました。旧約聖書の神、ヤハウェも「栄光の神の雷鳴は轟く」と、その御声が雷鳴に喩えられています(詩編29編3〜10節)。昔の人が天の雷光、雷鳴、落雷をどれだけ恐れていたか、よく分かります。

「天神様」「学問の神様」として知られる菅原道真ですが、その実体は「祟り神」であり、「雷神」として畏怖されているのです。菅原道真は幼少期から詩歌の才に秀で、官僚と成っても業績を重ね、朝廷随一の天才と言われ、宇多(うだ)天皇の寵愛を受けて右大臣にまで出世したのです。ところが、時の左大臣、藤原時平に妬まれて、讒言を受け、大宰府に左遷され、失意の内に僻地の九州で亡くなります。

ところが、その死後、彼は日本宗教史上、最大最強の怨霊と成って(夢枕獏の『陰陽師』にも登場しますね)、朝廷に祟りをもたらします。時平はじめ、その子孫を次々に病死させ、遂には御所の清涼殿に雷を落として、政府要人を皆殺しにしてしまいました。特に、左遷に直接関与した藤原清貫(きよつら)等は、落雷の直撃を受けて、丸焦げに成った上に、胸が裂けて、内臓が溢れ出ていたと言われています。

これが、930年の「清涼殿落雷事件」です。それは「延長8年6月26日」、現在の暦で言えば、7月24日のことでした。奇しくも、あの「ゲリラ豪雨」と1日違いだったのです。丁度、24日の「聖書と祈りの集い」のテキストは「ヨブ記」26章でした。「神について私たちの聞き得ることは何と僅かなことか/その雷鳴の力強さを誰が悟り得よう」の註解で、私は菅公の「清涼殿落雷事件」の話をしたのです。聖研の準備をするのは前週の水曜日ですから、私にも少し「預言する霊」が与えられたようです。

神道では「魂鎮め」と言って、「怨霊」を慰撫し、「英霊」や「神」へと祭り上げます。故に「鎮魂」と言います。生者に祟らないように鎮めるのです。しかし、キリスト教の「レクイエム」は「死者が生前に犯した罪が、神の慈悲によって赦され、永遠の安息が与えられるように祈る」ものです。「死者のためのミサ/Missa pro defunctis」の冒頭の句「主よ、彼らに永遠の安息を与え、彼らを絶えざる光をもて照らし給え/Requiem aeternam dona eis,Domine: et lux perpetua luceat eis」から来ているのです。有難くて涙が出ます。

牧師 朝日研一朗

【2013年8月の月報より】

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2013年07月23日

7月第4主日礼拝

       7月28日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”まず、仲直りから” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 5章21〜26節(p.7)
賛 美 歌  27、468、490、414、476、28
交読詩篇  107編1〜9節(p.123)

・・・当日の音声録音を聴く
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2013年07月22日

正しさを押し付けない【マタイ5:17〜20】

聖句「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)

1.《押す文化》 この何十年かで日本社会は「押すこと」が支配的になりました。何から何まで「プッシュ式」です。ダイヤルも引き戸も譲り合いの心も消えました。経済成長時代が終わっても、相変わらずの「押せ押せ」です。押せば必ず人を圧迫してしまいます。押す文化は自分を押し付けることです。

2.《引く文化》 イエスさまは、律法学者やファリサイ派に「義がない」とは仰いません。但し、彼らの義は「押し付けの義」だったのです。「ルカ福音書」18章に「ファリサイ派の人と徴税人」が神殿で祈る譬話があります。自己犠牲と善行を誇るファリサイ派は、傍らで祈る罪人の徴税人を見下して蔑んだのです。しかし、神の前に義と認められたのは、徴税人の方だったのです。自らを引き、自分の非を認めて悔い改めることこそが、神の御前の義なのです。「押し付けの義」は必ずや他人を見下げて、成り立っているのです。「押す」ことではなく「引く」ことによって、神の赦し、即ち「神の義」は与えられていくのです。

3.《もう一歩》 「引く」と言っても「引きっ放し」では困ります。柔道の「引き技」は海辺の波のように「寄せば引く、引けば寄す」です。つまり、肩肘張って、肩怒らせて生きるのではなく、肩の力を抜くのです。自分の力を抜けば、それだけ、そこに神の御力が働きます。私たちは際限ない「自己主張の綱引き」を止めて、神さまを唯一義なる御方として仰いで参りましょう。「律法の中の律法」「律法と預言者」を極めると、その心は7章12節に書いてあります。いつも自分が出発点です。しかし、到達点は他の誰かなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:54 | 毎週の講壇から

2013年07月16日

7月第3主日礼拝

       7月21日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”正しさを押し付けない” 音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 5章17〜20節(p.7)
賛 美 歌  27、468、490、227、209、28
交読詩篇  107編1〜9節(p.123)

賛美歌練習 (7月の月歌:410番)  礼拝後   於 礼拝堂
礼拝音声配信サービス説明会  讃美歌練習後から10分間 於 礼拝堂
あいさつの会(相互交流の会)      賛美歌練習後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール

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posted by 行人坂教会 at 18:10 | 毎週の礼拝案内

2013年07月15日

地の塩、世の光【マタイ5:13〜16】

聖句「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」(5:13)

1.《ほんの少し》観念的にならないように「蝋燭と塩と石鹸」を思い浮かべて見たら如何でしょう。いずれも我が身を削って初めて役に立つのです。自分の身を擦り減らさないことには真価を発揮しなのです。そして、いずれも少量で良いのです。何事にも適量があるのです。出しゃばりや厚かましさは逆効果です。むしろ、慎ましやかさや目立たぬことに価値があります。

2.《地にあって》イエスさまは「地の塩、世の光」に、弟子たることの意義を説いておられます。「地の塩になれ」とは言われません。イエスさまを知って、共に生きようとする時、私たちは既に「地の塩」とされているのです。それは御大層な目標ではなく、「地にある」のです。但し、塩には「塩気、塩味」があるのですから、それをこの地域にあって発揮していかなくてはなりません。教会から一歩出た時から、私たちの「塩」としての真価が問われるのです。

3.《世にあって》イエスさまによって既に「世の光」とされているのに、私たちは、折角の灯火を計量カップで覆って消してしまうのです。臆病さや甘えや気兼ねや責任逃れです。放って置けば、自ずと輝いているのです。「隠そう」とするのは、却って自己顕示欲の裏返しなのです。16節の「立派な」は「魅力的な」と訳すべきでしょう。自分本位ではなく、人間味に溢れ、人情の機微を知っている人は、自身も周囲もワクワクさせるのです。神さまが「その独り子を賜った程に」   愛された「この世」を、私たちも愛して参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から

2013年07月09日

7月第2主日礼拝

       7月14日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”地の塩、世の光” 音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 5章13〜16節(p.6)
賛 美 歌  27、468、490、55、100、28
交読詩篇  107編1〜9節(p.123)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 22:26 | 毎週の礼拝案内

2013年07月08日

しあわせな人たち【マタイ5:1〜12】

聖句「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(5:9)

1.《信仰の真髄》「山上の説教」を「山上の垂訓」と呼び習わして、校長や社長の訓辞のように受け止めたところに、日本のキリスト教の不幸があります。忽ち実行できる事は道徳です。しかし、信仰は生涯をかけて目指して行くものです。一気飲み、鵜呑みは慎んで、時間をかけて味わって参りましょう。イエスさまの教えは全世界、全時代、全ての人に向けて語られた御言葉なのですから。

2.《求めること》イエスさまは命令や教えの前に「幸せ」を宣言なさって、私たちを招き、無条件に祝福して下さるのです。「八福」と言われますが、前半は受け身の状態を、後半は「共に生きようとする時の姿勢」を表わしています。前半4つの「人々」はカテゴリーや条件付けではありません。共通しているのは、ひたすらに神を求め、寄り頼むことです。「求める人は幸い」なのです。自分は神のもの、生きるも死ぬるも、健康でも病気でも、持っていても持っていなくても、求めることは許されているのです。そこに信仰の道が始まるのです。

3.《共に生きる》神の御名を求めることが許されている幸せな人は如何に生きるか。どのように生きるのがキリスト者の幸せか。それが後半です。モデルはキリストの十字架の生涯です。「憐れみ深い」は「友愛」、「心の清い」は偽りに満ちた私を神の真実の前に投げ出すこと、「平和を実現する」は「この世の平和」の偽りを暴くこと、「義のために迫害される」はその結果です。善いことを求めて迫害されたのでは堪ったものではありません。しかし、それも幸せなのです。幸せにあれこれと条件を付けているのは私たち自身なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:14 | 毎週の講壇から

2013年07月05日

幽径耽読 Book Illuminationその8

  • 「秘書綺譚」(アルジャノン・ブラックウッド著、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫)
    死んだ友人が訪ねて来る「約束」は、水木しげるが漫画化したことで有名です。他にも巻末の「転移」等も『墓場の鬼太郎』の「夜叉と吸血鬼の対決」の元ネタかも知れません。そう言えば、表題作「秘書綺譚」は、飢えた人狼のような食人鬼とその奇怪な「ユダヤ人」の召し使いに追い回される話ですが、これも「鬼太郎」の「顔の中の敵」の人狼を思わせます。
  • 「ねじの回転」(ヘンリー・ジェームズ著、南條竹則・坂本あおい訳、創元推理文庫)
    中学生の頃でしたか、マーロン・ブランド主演の『妖精たちの森』という英国映画を観ました。貴族の邸宅(マナーハウス)を舞台に、下男クウィントと家庭教師ジェスル先生の愛欲模様を描いていました。結局、その邸の姉弟によって2人は殺されてしまうのです。少し人物設定の変更はあるものの、『ねじの回転』の前日譚ですね。あの映画を観ていたせいで、本書では曖昧にしか表現されない背景も具体的にイメージすることが出来ました。併録の「幽霊貸家」が意外に素晴らしい拾いものでした。
  • 「アド・アストラ」第4巻(カガノミハチ作、集英社)
    「ミヌキウスとアエミリウス」から「和解」にかけて、ジーンと心に染みる良い展開です。登場人物に感情移入しにくい諸星大二郎系の絵だったのですが、随分キャラに血を通わせようと努力なさっています。性格の悪そうなヴァロの表情とか、スキピオの婚約者アエミリアの愛らしさとか…。ローマ歩兵の三戦列の陣形とか、貴族と平民との関係とか分かり易く具象化されていて、我が家の中坊が読んでも理解できる程、よく出来ています。いよいよ次の巻は「カンナエ」です。
  • 「人間和声」(アルジャノン・ブラックウッド著、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫)
    「幽霊屋敷もの」のカテゴリーに入るのでしょうが、ホラーとは言えません。クライマックスに達しても、こちらの想像力の不足からか、不安や恐怖を感じることはありませんでした。そうそう、ユダヤ教の神名「YHWH」は、通常は決して発声されることはなく、秘匿されていました。そして、1年に1度だけ、エルサレム神殿の大祭司が至聖所において、その御名を囁くことが許されていたのでした。その話を思い出しました。その手のカバラ話に、音階と色彩と香りを加えてアレンジした辺りが、ブラックウッドの芸達者なところです。古代ヘブル語には母音記号はありませんでした。一旦、死語になったせいで、その文字を何と発声するかは、暗号解読並みに成ってしまったのです。
  • 「怪獣文藝」(東雅夫編、メディアファクトリー)
    吉村萬壱の「別の存在」がエログロの強度で抜きん出ています。但し、全体的な印象は「ゾンビもの」「インフェクテッドもの」で、「怪獣もの」ではありません。語り口の心地良さでは、山田正紀の「松井清衛門、推参つかまつる」でしょうか(これもゾンビでしたが…)。結局、一番感動したのは、夢枕獏との対談で、特技監督の樋口真嗣が「怪獣は夜の闇の中で目が光っているものだと、長年思い込んでいて、実際に光らせてみたら、ねぶた祭りだった」と話しているところでした。やっぱり「幽BOOKS」のせいか、編集者が東先生だからなのか、90%が「怪獣より妖怪」でした。
  • 「見えない日本の紳士たち」(グレアム・グリーン著、高橋和久他訳、ハヤカワepi文庫)
    大学1年生の英書講読のテキストが『第三の男』でした。魅惑的な三十路の女性講師でした。彼女は今頃どこで何をしておられるでしょうか。グリーンはカトリック作家と紹介されていますが、一筋縄では行きません。例えば、「祝福」は、大司教が侵略戦争に使用される戦車を祝福する話、「戦う教会」は、独立前の動乱のケニアを舞台に、カトリックの宣教師たちを描いています。しかし、単純で護教的な信仰譚でもなければ、浅薄な宗教批判でもありません。個人的には、キングのホラーみたいな味わいの「拝啓ファルケンハイム博士」、「庭の下」が気に入っています。
  • 「新・忘れられた日本人」(佐野眞一著、ちくま文庫)
    このような異色人物列伝を書く時の手掛かりとしたのは、かつて著者が『原色怪獣怪人大百科』を編集した時の手法だったとの告白(「あとがき」)にビックリ。確かに「怪人」としか言いようのない異形の人物たちが次から次へと登場します。個人的には、満映、東映に繋がる人たち(西本正、根岸寛一、笹井末二郎、岡田桑三)が面白かったです。とりわけ千本組の組長でありながら、アナキストを支援し、甘粕とも親交を結んでしまう笹井が最高でした。
  • 「「呪い」を解く」(鎌田東二著、文春文庫)
    最初は少し警戒しつつ読み始めましたが、著者の絶妙のバランス感覚(「ブレない」と言った方が良いでしょうか)に、信頼を置いて読み終えることとなりました。「呪い」の世界が一面的ではなく、一筋縄で行かないのと同じく、仏教もキリスト教も、鈴木大拙も平田篤胤も、これを語る時には、あちらこちらに目配りが必要です。その繊細さと、先に述べた「ブレなさ」加減(骨太さ)を持ち合わせて居られます。地下鉄サリン事件の朝に、著者が異常な感覚に悩まされたり、「魔界論」執筆に当たって、霊的妨害を受けたりする辺りも、折口信夫の精神の数少ない継承ではないかと思いました。
posted by 行人坂教会 at 15:55 | 牧師の書斎から