2013年07月22日

正しさを押し付けない【マタイ5:17〜20】

聖句「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)

1.《押す文化》 この何十年かで日本社会は「押すこと」が支配的になりました。何から何まで「プッシュ式」です。ダイヤルも引き戸も譲り合いの心も消えました。経済成長時代が終わっても、相変わらずの「押せ押せ」です。押せば必ず人を圧迫してしまいます。押す文化は自分を押し付けることです。

2.《引く文化》 イエスさまは、律法学者やファリサイ派に「義がない」とは仰いません。但し、彼らの義は「押し付けの義」だったのです。「ルカ福音書」18章に「ファリサイ派の人と徴税人」が神殿で祈る譬話があります。自己犠牲と善行を誇るファリサイ派は、傍らで祈る罪人の徴税人を見下して蔑んだのです。しかし、神の前に義と認められたのは、徴税人の方だったのです。自らを引き、自分の非を認めて悔い改めることこそが、神の御前の義なのです。「押し付けの義」は必ずや他人を見下げて、成り立っているのです。「押す」ことではなく「引く」ことによって、神の赦し、即ち「神の義」は与えられていくのです。

3.《もう一歩》 「引く」と言っても「引きっ放し」では困ります。柔道の「引き技」は海辺の波のように「寄せば引く、引けば寄す」です。つまり、肩肘張って、肩怒らせて生きるのではなく、肩の力を抜くのです。自分の力を抜けば、それだけ、そこに神の御力が働きます。私たちは際限ない「自己主張の綱引き」を止めて、神さまを唯一義なる御方として仰いで参りましょう。「律法の中の律法」「律法と預言者」を極めると、その心は7章12節に書いてあります。いつも自分が出発点です。しかし、到達点は他の誰かなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:54 | 毎週の講壇から