2013年09月30日

神さまのプレゼント【マタイ7:7〜12】

聖句「況して、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない。」(7:11)

1.《魚か蛇か》 まさか、この日本で、自分の子供に蛇を食べさせている親はいないと思います。ところが、案外「蛇を食べさせていたかも」と気付きました。それは回転寿司のネタの表示です。アナゴ寿司はマルアナゴで「ウミヘビ科」だったのです。回転寿司屋のスズキはナイルパーチ、カンパチはスギ、ヒラメはオヒョウ、タイはアメリカナマズかティラピアだったのです。

2.《良い賜物》 現代は、親が子に「良かれ」と思って与えている物が、その実、良くない物、偽りの物だったりする時代です。イエスさまの仰る「良い物」は「贈り物、賜物」です。「良い/アガトス」は「内面の卓越性」を意味します。「人々が、あなたがたの良い行ないを見て」と言われていた「カロス」(チャーミングの語源)とは少し違います。「アガトス」は見た目ではないのです。「有益な、幸福な、慈悲深い」という含みもあります。私たちを幸福にしてくれるのは、物それ自体の価値ではなく、与えてくれた人との繋がりにあるのです。

3.《愛する道》 来年のテレビ小説の原作『アンのゆりかご』は、『赤毛のアン』の翻訳者、村岡花子の伝記です。彼女が5歳の独り息子、道雄を疫痢に奪われる場面が悲痛です。彼女は「奪うなら、どうして与えたのだ」と神を呪ったと言います。ある日、そんな花子の心の奥底から「神はその独り子を賜う程に世を愛し給えり」の聖句が聴こえて来たのです。子を亡くす悲痛な体験の中から、彼女は「世にある人の子たちのために、道を照らそう」と、児童文学の翻訳に取り組んで行くのでした。確かに、失って初めて「幸福な賜物」に気付くことがあります。そこで、私たちはイエスの十字架に出会うのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:01 | 毎週の礼拝案内

2013年09月28日

自分の魂を取り戻す

1.あまちゃん

NHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』が終了します。実は、この原稿を書いている現時点では、最終回は未来形なのです。けれども、来週からの「『あまちゃん』のない生活」を想像すると、本当に遣り切れなくなります。予告編を見る限り、杏主演の『ごちそうさん』も悪くはなさそうですが、この大きな喪失感を埋められるのか、甚だ心配です。

どうやら、そんな風に感じているのは、私だけではないようで、放映期間も半ばの頃から「日曜日は『あまちゃん』がないから楽しくない」というファンの声が雑誌に採り上げられていました。そして、遂には誰が作った造語か、「ペットロス」ならぬ「あまロス」等という語まで出来てしまいました。これらは週刊誌などに書いてあるネタに過ぎません。しかし、我が家でも、妻が「『あまちゃん』は鎹(かすがい)」という新しい諺を作ってしまいました。私たちは、何かと喧嘩ばかりしている夫婦なのですが、『あまちゃん』の話をしている時は、楽しく和やかな雰囲気の会話が成立するのです。

例えば、「タイトルで跳んでいるアキちゃんの格好、“J”なんだって」とか、「原宿駅のプラットホームに『おら、「あまちゃん」が大好きだ!』(扶桑社から出ているファンブック)の巨大看板が出ていたよ」とか、「『あまちゃん歌のアルバム』というCDが出ていて、「潮騒のメモリー」も「暦の上ではディセンバー」も「地元に帰ろう」も「南部ダイバー」も入っている」とか、「NHK渋谷のスタジオパークのカフェで「まめぶ汁」が食べられる」とか、「東銀座の岩手県のアンテナショップでも食べられる」とか、そんな他愛もないことを喋るのが嬉しくて堪らなかったのです。

2.自分は自分

『あまちゃん』の物語やキャラ、全体に散りばめられた小ネタとパロディの数々を、改めて採り上げるつもりはありません。私には「ファンブック」に書いてある以上のことは言えませんし、見ていない人には、コアな内容説明など全く無意味でしょう。

それでも、私の注目したワンポイントを申し上げます。これまでも田舎から上京/上阪して来るヒロインの物語は数多あったのですが、今回のヒロインは東京生まれの東京育ちでありながら、母親に連れられて、生まれて初めて母の生家に戻ったのです。その架空の町「北三陸市」(ロケは久慈市)で、地元漁協の海女クラブ会長をしている祖母と出会って、海に落とされて、自分も海女になることを決意するのです。

この第1週で、ヒロインは訛るようになってしまうのです。東京で生まれ育ったヒロインが訛りで喋るようになって、そこから若い生命感が弾けるように顕われて来るのです。まるで、これまで封印されていた彼女の魂が蘇ったようでした。

例えば、宮崎駿の『魔女の宅急便』の中にも「魔女は呪文で飛ぶのではない。箒で飛ぶのでもない。魔女は血で飛ぶ」という名台詞がありましたが、『あまちゃん』のヒロイン、アキの場合も、彼女の中にある海女の血の為せる業かと思わせます。実際、海に浮かんで「きもちいいーッ」と叫ぶアキを見て、海に落とした祖母(夏ばっぱ=宮本信子)が満面の笑みを浮かべて「やっぱり、おらの孫だ」と言う場面があります。

その意味では、私たちもまた、生き馬の目を抜くような都会で暮らしていて、自分の言葉を奪われ、自分の血を封印されてしまい、本当の自分、「自分が自分であること」を失ってしまっているのかも知れません。勿論、現実には、故郷にUターンすれば、本当の自分を取り戻すことが出来るとか、田舎の方言を使えば、それで取り戻せる等という図式的なものではありません。「血」と言っても、恭しく御先祖様を奉るとか、血族主義で固まるとか、そんな単純なものでもないと思います。

ともかく、一種のイニシエーション(通過儀礼)によって、一旦、自分自身の魂を取り戻したヒロインは、以後、東京に行こうが地元に帰ろうが、全くスタンスがブレなくなるのです。女優の鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)からも「天野アキを演じさせたら、あなたの右に出る者はいない」と太鼓判を押されます。

3.共に生きる

そんなアキに比べると、相方のユイは、アイドル志望の女子高生がグレてヤンキーになる変貌ぶりを見るにつけ、これぞ「女優」という役柄です。アキ役の能年玲奈が素朴な「天然」を演じているとすると、ユイ役の橋本愛はキャラクターの不安定さを武器にして、色々な表情を演じているのです。

アキとユイとは、劇中の台詞でも「太陽と月」に喩えられて、「光と影」のような対称として描かれています。「シャドウ」や「影武者」がキーワードのドラマですから、影の果たす役割は重要なのです。そして、もう1つの暗喩は、宮沢賢治の『双子の星』でしょう。音楽担当の大友英良は劇伴として、『双子の星』の主題歌「星めぐりの歌」(宮沢賢治作詞作曲)のメロディーを繰り返し流しています。

『双子の星』のチュンセ童子とポウセ童子の慈愛、『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラの死別、『グスコーブドリの伝記』のブドリとネリ兄姉の別れ、『ひかりの素足』の一郎と楢夫兄弟の死別…。一連の宮沢賢治作品における、2人1組の童話を思い出させるのです。勿論、宮沢賢治のように悲劇に終わったりしないのでしょうが、背景にあるモチーフは間違いなく宮沢賢治の世界です。

「自分が自分であること」は大切なテーマですが、それだけでは、ただの独善とエゴでしかありません。同時に、そんな自分が「誰と共に生きるのか」というテーマが加わって、そこで初めて、人生はホンモノになるのです。本当の自分の魂に到達できるのです。

牧師 朝日研一朗

【2013年10月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 16:23 | ┣会報巻頭言など

2013年09月24日

9月第5主日礼拝

       9月29日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”神さまのプレゼント 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 7章7〜12節(p.11)
賛 美 歌  27、440、490、2、19、88
交読詩篇  147編1〜7節(p.164)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 08:12 | 毎週の礼拝案内

2013年09月23日

目ん玉から丸太ん棒 【マタイ7:1〜6】

聖句「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(7:5)

1.《目に入る物》 目から涙が出るのは当たり前。長い人生の途上には、目に色々な物が入り、目から色々なものが出て来ます。将棋には「目から火が出る王手飛車」、相撲には「目から汗が出る」猛練習、聖書には「目から鱗」があります。私も学生時代、京都の呉服問屋でバイト中に事故に遭い、目に入った蛍光管の破片を、病院の眼科で1つずつ取り出して貰った経験があります。

2.《木屑と丸太》 目に入った異物を自分で取り除くことは、自分独りで出来ません。小さいからと言って放置して良い物でもありません。イエスさまは大工の息子ですから、丸太を挽いたり削ったりして木屑の舞い散る木工所を、身をもって御存知だったはずです。「他人の目の木屑には気付くが、自分の目の丸太に気付かない」は「自分の事は棚に上げて、他人の失敗を指摘する」嫌味な奴のことですが、一方的に他人の世話ばかり焼いている人にも当て嵌まります。何が問題かと言えば、人間関係が一方向的に成っている点です。

3.《共同の作業》 コントの締めは「豚に真珠」です。「猫に小判」は単なる「宝の持ち腐れ」ですが、「豚に真珠」は「折角見付けたお宝を粗末にしてはいけない」という意味です。それは福音、十字架の愛、そして、イエスさまの愛が私たちの相互関係に受肉することなのです。目に木っ端が入れば、取って上げます。「困った時はお互い様」なのです。双方向的なのです。何の痛みも共感も無い所から出発するのは、根本的に間違っています。私たちが他の人を、どんな眼差しで見ているか、神さまは御存知です。自分の目の木っ端を取り除くのに、必ず他の人の手を借りなければなりません。それが福音の世界です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:09 | 毎週の講壇から

2013年09月22日

行人坂教会バザー2013のご案内

教会では、以下のような2013年のバザーのご案内を出しております。

クリックすると拡大された画像が表示されます。


(裏側)

クリックすると拡大された画像が表示されます。
posted by 行人坂教会 at 17:13 | 教会からのお知らせ

2013年09月17日

9月第4主日礼拝

       9月22日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”目ん玉から丸太ん棒” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 7章1〜6節(p.11)
賛 美 歌  27、440、490、538、209、88
交読詩篇  147編1〜7節(p.164)

創立記念ミニコンサート    正午〜午後1時予定        礼拝堂
 大元和憲(テノール)、福田美樹子(ソプラノ)、向阪由美子(ピアノ)
※ コンサート後、ささやかな軽食とお茶の用意がございます(階下ホール)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 17:36 | 毎週の礼拝案内

2013年09月16日

お積み立ては天国銀行へ【マタイ6:19〜21、24】

聖句「富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(6:20,21)

1.《銀行ありき》 イエスさまの時代には、既に「銀行」がありました。「タラントンの喩え話」や「ムナの喩え話」に「銀行」という語が出て来ますから、間違いありません。いずれも、損失を恐れる余りに資金運用を怠り、地面に隠して置いた僕が「役立たず」と言われて追い出される話です。教会では、神の賜物の話に読み替えようとしますが、正直、露骨なお金儲けの話です。

2.《商売と金融》 ユダヤ人は「お金儲けが上手」と言われています。実際、ロスチャイルド財閥やクーン=レーブ商会があり、シェイクスピアやディケンズの作品にも「強欲なユダヤ人」が登場します。しかし、それは飽く迄ステレオタイプ、日本人が皆「サムライとニンジャ」で無いのと同じです。律法に金貸しを禁じられていたユダヤ人ですが、バビロン捕囚期に止む無く業務を始めています。強い絆を利用して金融業と総合商社を立ち上げたのです。同時に商業倫理も発達して仕入れ値の1割6分以上は暴利であるとされました。

3.《宝を奉げる》 イエスさまは「銀行」まで自作のコントに仕込んで居られる程に台本作家でしたが、御自身は教会の組織化も、大聖堂建築も、信徒動員のリバイバル集会も為さいませんでした。むしろ、群集が集まると、移動して行きました。集まり過ぎた群衆のために、ご飯の心配を為さるような御方でした。終生「富」とは無縁でした。24節の「富/マモン」とは「拝金主義」です。19節以下の「富/セサウロス」は「宝」と訳すべきでしょう。「花咲爺」のように、ひょんなことから見つけるものです。「銀行」に積み立てるものではありません。積み立てるならば天の神に感謝して、その喜びをお奉げするのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:09 | 毎週の講壇から

2013年09月10日

9月第3主日礼拝

       9月15日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”お積み立ては天国銀行へ”  音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 6章19〜21節、24節(p10)
賛 美 歌  27、440、490、577、211、88
交読詩篇  147編1〜7節(p.164)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 07:12 | 毎週の礼拝案内

2013年09月09日

異邦人の祈り【マタイ6:5〜15】

聖句「あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」(6:7)

1.《何も要らない》 4世紀の主教、クリュソストモスは「神に祈るために/あなたに何も要らない」という言葉を残しています。「祈りは苦手」と呟く人の多くは何かの準備や用意が必要、何かが足りないと誤解しています。むしろ、イエスさまは「くどくど祈るな」と命じています。多神教のローマ世界では、八百萬の神の名前が抜けないように、神の名前の一覧表を作って読み上げたのです。

2.《祈る人は聴く》 天の父は「願う前から」あなたの祈りを御存知なのです。つまり、祈りの本質は私たちがお喋りをすることではなく、聴くことにこそあります。ある精神科医は「患者が他者の話に耳を傾け始めたら治っている」と言いました。祈りも同じです。祈りは神さまからの贈り物です。私たちが業績を作り、くどくど祈って、神さまに何かを要求するようなものではありません。イエスさまが「アッバ、父よ」と赤ちゃん語で呼び掛けられたように、信頼と愛情をもって呼ぶのです。むしろ、私たちが神を忘れることが問題です。

3.《心底から祈る》 プロテスタントの伝統は、言葉で祈ることに比重が偏り過ぎています。東方教会の「屈身礼拝」や「断食」のように体を使う祈りもあって良いでしょう。何にせよ、形式だけで中身の伴わないものに陥る危険はあります。またしても、私たちは祈りが神の賜物であることを忘れ、受け取らないまま、無理に捻り出そうとするのです。私たちの「心の祈り」の最初は「私を憐れんでください」です。「絶えず祈りなさい」と言われるのは、このことです。祈りは大切ですが、大切にする余りに偶像化してはいけません。食べるのに指や箸は大切ですが、まさか箸や指まで食べてしまう人はいないでしょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:31 | 毎週の講壇から

2013年09月03日

9月第2主日礼拝

       9月 8日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”異邦人の祈り” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 6章5〜16節(p.9)
賛 美 歌  27、440、490、398、464、88
交読詩篇  147編1〜7節(p.164)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 09:41 | 毎週の礼拝案内