2013年09月02日

偽善者の田舎芝居【マタイ6:1〜4】

聖句「見て貰おうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたの天の父のもとで報いを頂けないことになる。」(6:1)

1.《村芝居》 杉浦日向子の『駆け抜ける』という作品の中で、彰義隊士だった御隠居が「新撰組」と聞いて、「あんな村芝居の忠臣蔵のような格好とは訳が違います」と反論する場面があります。江戸育ちの粋な旗本、目の肥えた江戸っ子から見れば、新撰組は「田舎者の猿芝居」なのです。落語の『村芝居』でも、秋祭りの出し物に「仮名手本忠臣蔵」が演じられるのですが、無理解と準備不足から、舞台は滅茶苦茶に成ってしまいます。

2.《偽善者》 イエスさまは「山上の説教」の中で、繰り返し「偽善者」と言われます。「偽善者」は「役者、俳優」という意味です。ギリシアの仮面劇から来ています。施しも祈りも断食も、人に見せるための演技で、神さまに向かっていないことを告発しています。「見て貰おうとして」も「劇場」の語源を同じくし、「既に報いを受けている」の「受ける」も商業用語です。神社や寺の石柵には寄進者の名前が彫ってありますが、ユイスマンスによると、欧州のカトリック教会も同じようでした。プロテスタント教会は匿名性を基本にしていますが、名誉欲や自慢、自己満足の罠は、私たちの中にも潜んでいます。

3.《委ねる》 「偽善者たちが人から褒められようと」等と非難されていますが、褒められること自体が悪い事ではありません。褒められて、人は成長を促されます。批判と反省、叱責ばかりでは気力が失われ、萎縮していまいます。そうではなくて、褒められることが目的に成っては本末転倒なのです。棟方志功は「上手な絵描きになるな。下手な絵描きになれ」と言いました。人の評判におもねるのではなく、芸術家は美に仕えるのです。信仰者の行ないは、自分にではなく主に仕えるのです。「敬虔は、判断することを自らに禁ずる」(アラン)のです。判断と評価とは、神さまにお委ねして参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 10:05 | 毎週の講壇から