2013年の行人坂教会のバザー10月27日に開催されました。






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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(10:32)
1.《牧師の定義》 「牧師」は英語の「パスター」を翻訳した語です。その語源は「羊飼い」です。家畜に草を食べさせながら移動する「遊牧者」です。「牧師」と言うと、生真面目なイメージがありますが、一文字「遊ぶ」と付けるだけで、田園に遊び戯れる楽しげなイメージに成ります。また、牧師は、仏教で言えば「一所不在」、遍歴する者でなければいけません。
2.《遍歴する主》 イエスさまの生活も、町々村々を旅して歩き、そこに暮らす人たちと出会う遍歴でした。主の行く先には、苦しみ悩む人がいます。イエスさまは彼らを癒しますが、いずれまた別の病気に罹ったはずです。蘇えった人も、いずれ再び亡くなったことでしょう。悩みが1つ解決したと思っても、それは次の悩みへの小休止に過ぎません。生き難さは変わらないのです。けれども、イエスさまとの出会いは、私たちの希望と勇気を与えてくれます。イエスさまは悩む人たちと一緒に愛の宝を育み、生み出していかれたのです。
3.《先導する主》 「マルコによる福音書」を読むと、イエスさまの旅のルートがジグザグであることが分かります。合理的ではないのです。まるで、誰かを訪ね求めて彷徨い歩いているような有様です。そこに出会いがあるのでしょう。しかし、エルサレムを目指し始めるや、真っ直ぐに進みます。エルサレムには受難と十字架が待っていますから、弟子たちは恐れます。私たちも多かれ少なかれ不安を抱えて暮らしています。しかし、主が先導してくださるのです。「もう後がない」「もうお仕舞い」と思うこともありますが、「停車駅の1つ」「地上は仮住まい」「次は何が来るのか」と考えてみたらどうでしょう。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」(10:13)
1.《父の形見》 1964年、空前のエレキブームに、高校1年生だった私は、友人たちと共にバンドを結成して、聖公会三光教会のクリスマス会で演奏しました。やがてフォークの時代が来ました。私もピーター・ポール&マリーやボブ・ディランに影響を受けて、アコギを弾くようになりました。20歳のお祝いに父が買ってくれたギターが、父の唯一の形見になりました。
2.《長い道程》 ピーター・ヤローもディランもユダヤ系で、旧約聖書を主題にした歌詞が多くありました。私たちのバンドも、1960年代末、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックを三光教会の礼拝で演奏しました。しかし、司祭に受け入れられませんでした。持病があったため、プロを目指すこともなく、バンドは解散しました。けれども、ニッポン放送のフォーク番組に出演した際に、現在の妻と知り合えたことは幸いでした。仕事も家庭も順調でしたが、ある日、持病の悪化で大量吐血し、緊急手術をすることになりました。
3.《新しい命》 病気によって希望を失った時、主治医から信仰を持つように勧められました。行人坂教会に行く前には、浄土真宗の家なので躊躇もしました。しかし、礼拝では親身に受け入れて貰い、2006年の復活日に夫婦で洗礼を受けました。受洗翌日、自分が生まれ変わったような印象を受けました。だから、受洗志願者には、その感情を大切にと必ず言います。神さまは、遅れて来た人にも祝福を与えて下さいます。礼拝の中でギター伴奏をする機会も与えられ、神さまが新しい人生を用意していて下さったことを実感しました。いつもキリストは共にいて下さっていますが、御手を差し伸べて下さってもいるのです。
信徒奨励 星野文雄
目次「牧師の書斎から」に掲載しております、「幽径耽読 Book Illumination」関連の記事について、読みやすくするために分割いたしました。
聖句「雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(7:25)
1.《呼び掛け》 イエスさまの「山上の説教」は「幸いなるかな」という祝福への招きで始まりました。そして「あなたはどこに立って生きるか」という決断への招きで結ばれているのです。招いておられるのは主、決断するのは私たちです。「山上の説教」は、これまで通りの自分にして置いては聞くことの出来ぬ教えです。単なる人生論や修養論ではありません。
2.《岩の上に》 私たちが家を建てるとなれば、建築デザインやスタイル、素材に話が及びます。ラビの教えにも「石材の上に煉瓦を積む家」の話があり、童話の「三匹の子豚」も同系列です。しかし、取り敢えずは「家を建てる」こと、生活を営むことが言われています。試練が襲い掛かって来るのも、全ての人の人生に共通です。しかし、それでも倒れないのは「土台」が違うのです。問題は、どこに自分の生活の「居を定めるか」です。「ルカによる福音書」の並行記事では、「地面を深く掘り下げる」という別の解釈をしています。
3.《生きた石》 愚かな人生は「倒れ方が酷かった」とあり、致命的なことが分かります。「聞いて行なう」は21節の「天の父の御心を行なう」と繋がります。「文語訳」の「天に在す我が父の御旨を行のう」、即ち「御旨に生きる」のです。さすれば、もはや条件を満たす等という陳腐な事ではありません。「聞く」と「行なう」は1つです。私たちが真心で受け止めて、それが生き方に成るのです。イエスさまこそ私たちの「命の土台」です。石そのものに命はありませんが、命の土台に与る時、私たちも「生きた石」とされるのです。私たちの命の拠り所はどこにあるのか、何の甲斐あって生きるのか、吟味すべきです。
朝日研一朗牧師
聖句「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(7:13)
1.《掟の門》 カフカの短編小説に『掟の門』があります。「掟の門」の前には屈強な門番が立っています。入ろうとした男は門前で待機させられます。たとえ忍び込んでも、奥に行く程に恐ろしい門番が何人も立ち塞がっていると言います。やがて臨終を迎えた男は「なぜ、私独りしか掟の門に来ないのか」と尋ねると、門番は「この入り口は、お前のために作られたものだ」と答えるのでした。
2.《狭き門》 「掟」はユダヤ教の律法、旧約の信仰を意味します。掟も信仰も実際に生きられてこそのものです。イエスさまの譬にある門も、大勢の人が押し寄せて行列を作っているから「狭き門」なのではありません。門はイエスさま自身なのです(ヨハネによる福音書10章9節)。「信ぜよ」と招いて居られるのです。しかし、「狭い」と聞いて、私たちは「窮屈」「困難」と錯覚します。実際には、教会や信徒が「狭き門」になって、敷居を高くしているのです。信仰は「細い道」です。ただ単に、そこにに続いているから「狭き門」なのです。
3.《細い道》 無条件に招いて居られるのに「狭い」のは何故でしょうか。1つは独りでしか入れないからです。信仰は人生ですから、誰か他の人に代わって生きて貰う訳にはいかないのです。もう1つは荷物を持って入ることが出来ないからです。学歴や経歴、肩書き、地位や名誉、家財産、過去の罪、長年の垢を落として門に入るのです。左右には裾野が広がっています。一方には、自分も他人も戒めで縛り、息が詰まる律法主義の世界があり、他方、罪の奴隷に成り下がる自由放縦の世界があります。しかし、イエスさまを信じる道は自由の道です。尾根伝いの道です。山の道(人生)は自分の足で歩いてこそです。
朝日研一朗牧師