2013年10月07日

狭い道を選ぼう【マタイ7:13〜23】

聖句「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(7:13)

1.《掟の門》 カフカの短編小説に『掟の門』があります。「掟の門」の前には屈強な門番が立っています。入ろうとした男は門前で待機させられます。たとえ忍び込んでも、奥に行く程に恐ろしい門番が何人も立ち塞がっていると言います。やがて臨終を迎えた男は「なぜ、私独りしか掟の門に来ないのか」と尋ねると、門番は「この入り口は、お前のために作られたものだ」と答えるのでした。

2.《狭き門》 「掟」はユダヤ教の律法、旧約の信仰を意味します。掟も信仰も実際に生きられてこそのものです。イエスさまの譬にある門も、大勢の人が押し寄せて行列を作っているから「狭き門」なのではありません。門はイエスさま自身なのです(ヨハネによる福音書10章9節)。「信ぜよ」と招いて居られるのです。しかし、「狭い」と聞いて、私たちは「窮屈」「困難」と錯覚します。実際には、教会や信徒が「狭き門」になって、敷居を高くしているのです。信仰は「細い道」です。ただ単に、そこにに続いているから「狭き門」なのです。

3.《細い道》 無条件に招いて居られるのに「狭い」のは何故でしょうか。1つは独りでしか入れないからです。信仰は人生ですから、誰か他の人に代わって生きて貰う訳にはいかないのです。もう1つは荷物を持って入ることが出来ないからです。学歴や経歴、肩書き、地位や名誉、家財産、過去の罪、長年の垢を落として門に入るのです。左右には裾野が広がっています。一方には、自分も他人も戒めで縛り、息が詰まる律法主義の世界があり、他方、罪の奴隷に成り下がる自由放縦の世界があります。しかし、イエスさまを信じる道は自由の道です。尾根伝いの道です。山の道(人生)は自分の足で歩いてこそです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から