2013年10月14日

いのちの土台【マタイ7:24〜29】

聖句「雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(7:25)

1.《呼び掛け》 イエスさまの「山上の説教」は「幸いなるかな」という祝福への招きで始まりました。そして「あなたはどこに立って生きるか」という決断への招きで結ばれているのです。招いておられるのは主、決断するのは私たちです。「山上の説教」は、これまで通りの自分にして置いては聞くことの出来ぬ教えです。単なる人生論や修養論ではありません。

2.《岩の上に》 私たちが家を建てるとなれば、建築デザインやスタイル、素材に話が及びます。ラビの教えにも「石材の上に煉瓦を積む家」の話があり、童話の「三匹の子豚」も同系列です。しかし、取り敢えずは「家を建てる」こと、生活を営むことが言われています。試練が襲い掛かって来るのも、全ての人の人生に共通です。しかし、それでも倒れないのは「土台」が違うのです。問題は、どこに自分の生活の「居を定めるか」です。「ルカによる福音書」の並行記事では、「地面を深く掘り下げる」という別の解釈をしています。

3.《生きた石》 愚かな人生は「倒れ方が酷かった」とあり、致命的なことが分かります。「聞いて行なう」は21節の「天の父の御心を行なう」と繋がります。「文語訳」の「天に在す我が父の御旨を行のう」、即ち「御旨に生きる」のです。さすれば、もはや条件を満たす等という陳腐な事ではありません。「聞く」と「行なう」は1つです。私たちが真心で受け止めて、それが生き方に成るのです。イエスさまこそ私たちの「命の土台」です。石そのものに命はありませんが、命の土台に与る時、私たちも「生きた石」とされるのです。私たちの命の拠り所はどこにあるのか、何の甲斐あって生きるのか、吟味すべきです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 21:38 | 毎週の講壇から