2013年11月30日

2013クリスマス諸行事のご案内

2013年の行人坂教会の「クリスマス関連の諸行事のご案内」のパンフレットです。

クリスマス関連の諸行事のご案内 2013


行人坂教会 クリスマス関連諸行事のご案内

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主の来られる喜び

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posted by 行人坂教会 at 21:39 | 教会からのお知らせ

2013年11月26日

12月第1主日礼拝(アドベント第1主日)

      12月 1日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”ぼく、インマヌエル” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 1章18〜25節(p.1)
賛 美 歌  27、254、490、356、231、71、25
交読詩篇  113編1〜9節(p.130)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 07:29 | 毎週の礼拝案内

2013年11月25日

石のパン【マタイ7:9〜10】

聖句「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」(7:9,10)

1.《チェルノブイリ》 1986年4月26日、ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号炉が核暴走の末、爆発し、放射性核分裂生成物、所謂「死の灰」が外に噴き出しました。広島の原爆5百発分に当たると言われています。原発から30キロ範囲の住民に避難命令が出され、そこは「立入禁止地区」、人の住まないゴーストタウンになってしまったのでした。

2.《南瓜のお婆さん》 原発の建屋はコンクリートで固められ、「石棺」と呼ばれています。事故から数年後には、大勢の子供が甲状腺癌や急性白血病を発症するようになりました。慶応大学の藤田祐幸さんは現地の汚染調査に入った時、住民たちが「立入禁止地区」に戻って生活をしているのを見て愕然としました。あるお婆さんは大きなカボチャを見せて、「放射能なんて心配ない」と笑いました。藤田さんは「何て無知な、愚かな婆さんか」と呆れたそうです。

3.《親が毒を与える》 村での調査を終えた時、藤田さんはお婆さんに再会しました。今度は浮かない顔をしています。聞けば「キューバに疎開している孫娘が夏休みで帰って来る」と言います。「良かったじゃないか」と答えた藤田さんに、お婆さんは掴み掛かりました。「あんた、科学者なんだろ。この土地がどんなに汚染されているか知っているだろう!」。藤田さんは「人間の心」が分かっていなかったと思い知らされたと言います。事故直後、日本の母親の母乳からも放射能が検出されました。甘蔗珠恵子さんは「かつて三度の食事に毒を混ぜて食べさせる母親がいただろうか。今の世の母親は殆ど知らずに、知っていてもどうすることも出来ずに」していると悲鳴のような言葉を綴っています。「毒を食らわば皿まで」と言いますが、子や孫にも同じことが言えるでしょうか。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:11 | 毎週の講壇から

2013年11月19日

11月第4主日礼拝(収穫感謝日、謝恩日)

      11月24日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”石のパン” 音楽          朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 7章9〜10節(p.11)
賛 美 歌  27、580、62、「みんなのてのひらに」、424、106、24
交 読 文  ”天国”(エミリ・ディキンソンの詩より)
新生児祝福式(亀山陽仁郎)       司式:朝日研一朗牧師

収穫感謝日ガーデンパーティー 礼拝後     階下ホールと中庭
 豚汁とご飯、鉄板焼きソバ、その他、持ち寄り歓迎、カンパお願い!

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 09:41 | 毎週の礼拝案内

2013年11月18日

囚われない心【マルコ7:14〜23】

聖句「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(7:20,21)

1.《福と鬼》節分の豆撒きの口上は「福は内、鬼は外」です。「鬼」とは「災厄」の意味です。「家内安全」は誰しも願いしますが、だからと言って「自分の家庭さえ幸せなら良い」と考える剥き出しのエゴイズムには躊躇を感じます。そのせいでしょうか、寺社ですら「鬼も内」と唱える所があります。

2.《内と外》問題は「内と外」の区別です。聖書の世界、古代ユダヤ社会では、異民族、異教徒、それらと接する徴税人は汚れた者とされていました。婦人病に悩む女性が「群集に紛れ込み、後ろから」イエスさまの服に触れるのも、彼女に接しただけで「夕方まで汚れる」とされていたからです。死人や死体も、それに触れた者までも汚れが伝染すると考えられていました。しかし、イエスさまは「忌み穢れ」のタブーを打ち破って、御自ら外に出て行かれました。

3.《罪と幸》イエスさまは「鬼は外から来るのではなく、鬼は内にいる」と仰っているのです。罪や悪は人間の心の中から生まれるもので、病気や不幸とは何の関係もないのです。イエスさまは社会の外側に置かれた人に近寄り、寄り添って生きられました。寄り添うことはくっ付いて「共依存」に成ることではありません。相手の人格を認め、相手の人生を尊重すればこそ、距離を保つ必要があります。その他者に心を与える時、幸せが生まれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:47 | 毎週の講壇から

2013年11月12日

11月第3主日礼拝

      11月17日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”囚われない心” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 7章14〜23節(p.74)
賛 美 歌  27、580、281、492、24
交読詩篇  77編5〜16節(p.87)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 08:45 | 毎週の礼拝案内

2013年11月11日

すべてが素晴らしい【マルコ7:31〜37】

聖句「このかたのなさったことはすべて、素晴らしい。」(7:37)

1.《多様性》 皆さんは、その教会の礼拝に初出席した時、その教会を、どんな点で評価なさるでしょうか。美しく壮麗な礼拝堂、厳粛な雰囲気、立派なパイプオルガン、聖歌隊のハーモニー、牧師の説教の良し悪し、受付の対応、交わりの豊かさ、町の名士がいること、うどん食堂のお出汁…?。私が教会を評価する基準は多様性です。色々な人たちが礼拝に集っていることです。

2.《豊かさ》 世間では「健常者」と「障碍者」と区別します。福祉制度の上では必要な区別ですが、人間としての価値、尊厳に何等の違いもありません。安積遊歩さんは、講演の際に「誰もでが障碍者になることの出来る可能性を持っている」と言っていました。考えてみれば、神を知る完全な知識を持っていないという意味では、私たちも「知恵遅れ」です。障碍の有無は価値の差ではなく、個性の差なのです。教会に行って笑顔で迎えてくれたとしても、マクドナルドのように没個性な対応なら気持ち悪いです。個性が違えば違う程に、交わりは豊かになるのです。ここにこそ、神さまの創造の豊かさがあるのです。

3.《出会い》 差別と偏見は、私たちの無知から来ています。知らないことが他人の心を傷つけ、何も知らないくせに勝手な思い込みを喋ります。しかも、それは親から子へと伝染していくのです。在日外国人、アイヌ民族、ハンセン病患者への差別など、無知が引き起こした罪悪は枚挙に暇がありません。しかし、知識が積み重ねられても十分ではありません。そこに出会いが必要なのです。「サマリア人の譬え話」は、出会いこそが「善き」ものだったのです。イエスさまも常に出会いを求めて行きました。あのように「人のかたち」をとって、この世に来られたのは、私たちと出会って、共に生きるためだったのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:46 | 毎週の講壇から

2013年11月05日

11月第2主日礼拝(障がい者週間)

      11月10日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”すべてが素晴らしい” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 7章31〜37節(p.75)
賛 美 歌  27、580、486、18、82、24
交読詩篇  77編5〜16節(p.87)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 16:17 | 毎週の礼拝案内

2013年11月04日

草の花【Tペトロ1:22〜25】

聖句「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1:24,25)

1.《死者の葬り》 人間だけが死者を葬るということをします。動物は葬ることをしません。何万年も昔の墓からも、懇ろに埋葬された遺骨が出土して、原始の人たちの死者への思いが察せられます。葬る理由は、死者の霊的作用への恐れ、穢れへの忌みかも知れません。しかし、迷信に支配された時代でも、お墓は生活圏の近くに作られたのです。生と死とは地続きなのです。死者たちは、尚、生者たちの中に生きているのです。

2.《過ぎ去る者》 『草の花』は福永武彦の小説です。敗戦後の結核療養所を舞台に、死を見つめて生きる人たちの孤独と絶望を綴った作品です。福永もまた、死者が生者に依然として働き掛けることを言います。その人を憶える人が徐々に死に絶えて後、二度目の決定的な死を迎える。だから、死者を憶えて生きることこそが生者の義務なのだと言います。しかし、その記憶も失われます。メルロ=ポンティは身体を「過去という時間の堆積物」と言いました。私たちが愛する者を失った時、身をもぎ取られるように感じるのは、そのためです。

3.《帰って行く》 地上の命も記憶すらも過ぎ去って行きます。「草は枯れ、花は散る」のです。けれども、聖書は「永遠に変わることがない主の言葉」「朽ちない種」と言います。「草の花」の引用は「イザヤ書」40章「帰還の約束」から採られています。バビロン捕囚からの帰還の預言、しかも、3つの福音書が「神の子イエス・キリストの福音の初め」として巻頭に掲げている御言葉です。草の如くに枯れ、花の如くに散る私たちですが、戻るべき道が用意されているのです。人の目から見れば、以前と何も変わって見えません。相変わらず山あり谷ありです。しかし、確実に行き着く先が変わっているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:49 | 毎週の講壇から