説 教 ”新しい人間”

聖 書 マルコによる福音書 10章46〜52節(p.83)
賛 美 歌 27、122、490、141、460、73、2
交読詩篇 98編1〜9節(p.111)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」(6:20,21)
1.《繁栄を求めて》 パナソニックの創始者、松下幸之助は、終戦後、各宗教の代表者を招いて、各宗旨の勘所を求めたそうです。しかし、いずれも彼を満足させるものはなく、自らの考えを纏めたのが「PHP」でした。その意味は「繁栄によって平和と幸福を」です。「平和と幸福」は「繁栄」によってもたらされるということです。焼け野原と化した日本を、何とかして復興させようとの意気込みで、何よりも「繁栄」を優先させたのです。
2.《衰退する時間》 「繁栄」とは「商売繁盛」です。商売人がそれを第一目標にするのは仕方ないとしても、他の分野まで倣ってしまったのは問題です。精神のみならず産業それ自体まで空洞化している日本社会の現状を見るにつけ、余りにも人間中心の価値観だったのでは無いでしょうか。「生病老死」「四苦八苦」の現実と向き合うのが宗教です。苦しみは人生に付きものですし、衰退も誕生の時から命の中に組み込まれているのです。成長するだけが能ではなく、次の新しい命の芽生えのために、ゆっくりと衰退して行くことも大切なのです。
3.《幸せの求道者》 「繁栄を前提とした幸福」は、お金が無ければ不幸せという意味です。実際には、お金があっても不幸な人は大勢います。それに比べると、イエスさまの「幸いなるかな」はショッキングです。どうして、貧困や飢えや悲嘆が幸いでしょうか。主は「これが幸い」と形にしようとはなさいません。本当の幸いとは何だろうと、私たちに問い掛けて居られるのです。現世的な幸い、物質的な幸いは永続するものではありません。むしろ、呆気なく簡単に引っ繰り返ってしまうのです。幸せは手に入れられるものではなく、幸せを尋ね求めて生きて行くところに、本当の幸せがあるのでは無いでしょうか。
朝日研一朗牧師
聖句「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(2:12)
1.《博士と王》 米国の戦争映画『スリー・キングス』も、ビセーの劇伴『アルルの女』に引用される民謡「三人の王の行進」も、クリスマスの博士たちが変形したものです。6世紀頃に「博士」は「王」と言われ始め、18世紀の植民地獲得競争の時代には、ヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸を代表する王として描かれるようになります。単なる異国趣味だったものが、やがて西欧列強諸国の権力欲と結び付いて、「博士」より「王」が好まれるようになったのです。
2.《ヘロデ王》 「ヨハネの黙示録」にも「王の王」という表現があります。「救い主」と訳される「メシア」も本来は「王」を意味する語です。占星術の学者たちは、エルサレムの王宮にヘロデ王を訪ねます。「ユダヤ人の王」は王宮に生まれると考えたのです。ヘロデ王には5人のお妃と7人の息子がいました。しかし、その時々のローマの権力者に取り入って、ユダヤを支配するのがお家芸でした。「ローマあってのヘロデ王家」だったのです。まさか自分の家族の中から、帝国に叛旗を翻す者が出るはずないことは明らかでした。
3.《別の道を》 占星術の学者たちは何のために、東の方から「地の果て」ユダヤまで旅して来たのでしょうか。かつて権勢を誇った東方の諸国も消滅し、辛うじてローマに拮抗するパルティアも王権の交代が続く、不安定な状態でした。彼らもまた、ローマ帝国の圧倒的な影響力から、衰退著しいオリエント世界を開放してくれる「王の王」を求めて辿り着いたのです。しかし、彼らが目にしたのは、この世の権力ではなく、無力な赤ん坊に受肉した神の慈しみの深さでした。行き詰まりを覚え、希望を抱きにくい時代です。破滅に向かっているとさえ思われます。しかし、私たちにも必ず「別の道」が与えられるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」(20:35)
1.《誕生日》 今でこそ降誕日は12月25日になっていますが、アレクサンドリアのクレメンスは5月20日と推測しました。聖書の記述からすれば、雨季の最中に羊飼いが野宿するはずはありません。春の雨と大麦刈りの終わった5月末が相応しいのです。ミトラ教の冬至祭や農業祭サトゥルナリアに対抗するため、教会が日程を振り替えたのです。御自分の与り知らないところで、誕生日を決められて、さぞやイエスさまも驚きになったことでしょう。
2.《人の心》 だからと言って、クリスマスを否定するのでは人情がありません。つまり、12月25日の意味は人情にあるのです。巡り巡って、寒い冬の最中にお祝いされるようになったことにも、神の御心があるのです。私の師匠、深田未来生牧師は自由学園を退学になった後、16歳で渡米して、皿洗いと掃除夫をしながら苦学しました。けれども、高校から大学までの間、一度も寂しいクリスマスを過ごしたことはなかったと言います。ある時は、級友たちがプレゼントを山積みしてくれました。毎年、招いて迎え入れてくれる家庭もあったのです。
3.《温かみ》 現代日本の子供たちにとって、クリスマスは「プレゼントを貰う」だけの季節に成っています。しかし、本当は「受ける喜び」と「与える幸せ」とは切り離すことが出来ないのです。お返しの出来ない人に与えて、見返りを求めることをしないで済む所に「与える幸せ」があります。「受くるより与えるが幸いなり」と言いますが、「受ける喜び」まで否定する必要はありません。また、受け入れることも大切です。O・ヘンリーの『賢者の贈り物』は、貧しい夫婦が行き違いの贈り物をする話です。お互い無益なので「バカな贈り物」なのですが、相手のことを自分より大切に思った結果なのです。これが宝です。
朝日研一朗牧師
聖句「初めての子を産み、布に包んで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(2:7)
1.《ピエタ》 十字架から降ろされたキリストの死体を、母マリアが抱きかかえて見つめる図像を「ピエタ」と言います。「憐れみ、同情、慈悲」という意味です。しかし、ラテン語の「ピエタス」には「悲しみ」や「嘆き」を感じさせるような意味内容は全くありません。「ピエタ」は14世紀ドイツで「祈り念じるための図像」として生まれ、専ら個人の魂の救いを願って祈られるようになりました。我が子を失う究極の悲しみを知る聖母の憐れみに縋ったのです。
2.《死の影》 クリスマスはキリストの降誕を祝う季節ですが、それだけには終わらないのです。クリスマスには「死の影」が漂っています。ヘロデ王によるベツレヘムの嬰児虐殺の物語があり、生後間もないメシアはエジプトに逃れます。イエスさまは「難民」として生まれたのです。難民の物語は族長アブラハムやヤコブにまで遡ります。「出エジプト記」には、ヘブライ人の赤ん坊虐殺命令、エジプト人の初子の死という、これまた血生臭い話があります。クリスマスは否応も無く、虐殺と報復、難民の歴史へと繋がって行くのです。
3.《御恵み》 お目出度い季節に、こんな血生臭い事柄を採り上げなくてもよいではないかと思われるかも知れません。しかし、神さまは繰り返し「クリスマスの意味を忘れるな」と仰るのです。「お祝いをするな」と言うのではありません。「何故に祝うのか、省みよ」との仰せです。苦難を乗り越えたからでも、解放されて自由に成ったからでも、満腹になったからでもありません。未だ解放されぬ者にとっても、苦難と飢えの中にある者にとっても、クリスマスなのです。この血生臭い世界に、イエスさまが難民としてお生まれになったからです。本当のクリスマスは誰も「置き去り」にはしないのです。
朝日研一朗牧師