2013年12月31日

1月第1主日礼拝(新年礼拝)

       1月 5日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”新しい人間” 音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 10章46〜52節(p.83)
賛 美 歌  27、122、490、141、460、73、2
交読詩篇  98編1〜9節(p.111)

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2013年12月30日

しあわせをたずねて【ルカ6:20〜26】

聖句「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」(6:20,21)

1.《繁栄を求めて》 パナソニックの創始者、松下幸之助は、終戦後、各宗教の代表者を招いて、各宗旨の勘所を求めたそうです。しかし、いずれも彼を満足させるものはなく、自らの考えを纏めたのが「PHP」でした。その意味は「繁栄によって平和と幸福を」です。「平和と幸福」は「繁栄」によってもたらされるということです。焼け野原と化した日本を、何とかして復興させようとの意気込みで、何よりも「繁栄」を優先させたのです。

2.《衰退する時間》 「繁栄」とは「商売繁盛」です。商売人がそれを第一目標にするのは仕方ないとしても、他の分野まで倣ってしまったのは問題です。精神のみならず産業それ自体まで空洞化している日本社会の現状を見るにつけ、余りにも人間中心の価値観だったのでは無いでしょうか。「生病老死」「四苦八苦」の現実と向き合うのが宗教です。苦しみは人生に付きものですし、衰退も誕生の時から命の中に組み込まれているのです。成長するだけが能ではなく、次の新しい命の芽生えのために、ゆっくりと衰退して行くことも大切なのです。

3.《幸せの求道者》 「繁栄を前提とした幸福」は、お金が無ければ不幸せという意味です。実際には、お金があっても不幸な人は大勢います。それに比べると、イエスさまの「幸いなるかな」はショッキングです。どうして、貧困や飢えや悲嘆が幸いでしょうか。主は「これが幸い」と形にしようとはなさいません。本当の幸いとは何だろうと、私たちに問い掛けて居られるのです。現世的な幸い、物質的な幸いは永続するものではありません。むしろ、呆気なく簡単に引っ繰り返ってしまうのです。幸せは手に入れられるものではなく、幸せを尋ね求めて生きて行くところに、本当の幸せがあるのでは無いでしょうか。

朝日研一朗牧師

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2013年12月26日

八重の桜も散りぬるを

1.山本八重

毎週、楽しみにしていたNHKの大河ドラマ『八重の桜』が終わってしまいました。前年の『平清盛』程ではないにしろ、低視聴率だったと聞いています。新機軸を打ち出していたドラマだっただけに残念でした。

例えば、ドラマは、米国内戦「南北戦争」の戦闘場面から始まっていました。この戦争に使用された武器弾薬が、その後、戊辰戦争と会津戦争に使用されたことは、以前から指摘されていましたが、それを実際に映像で見せたところに新鮮な説得力がありました。

『八重の桜』には、様々な銃火器が出て来ました。オランダの「ゲベール銃」は既に時代遅れでした。「ゲベール」を改良したのが「ミニエー銃」です。その「ミニエー」から発展したのが、南軍の主力銃「エンフィールド銃」で、これが幕末にアメリカから5万挺も輸入されています。「エンフィールド」を更に改良したのが「スナイドル銃」です。山本覚馬が長崎で大量買い付けに成功しながら、会津戦争に間に合わなかったのが、そのプロイセン版「ドライゼ銃」です。覚馬から会津の八重に届けられた1挺が「スナイドル」の米国版「スペンサー銃」です。しかも、歩兵用のライフルを騎兵用に短銃身化した物(カービン銃)で、7連発でした。史上初の「後装式」(後ろ込め)だったのです。

「無煙火薬」は1890年代以後ですから、これらの銃器は全て「黒色火薬」を使っています。銃器に詳しい私の友人は、黒色火薬の発火時の猛烈な反動を考えると、「女が撃てるはずはない。肩の骨が外れてしまう」と言って批判していました。まあ、それだからこそ、八重が米俵を軽々と担いだり、大山巖と腕相撲をしたりする逸話を加えて、彼女の怪力女ぶりを必死に強調していたのでしょう。

2.武田惣角

会津の人で、私が一番興味を持っているのは、武田惣角(1859−1943)という人物です。合気道の開祖にして、「皇武館」設立者として有名な、植芝盛平という人がいますが、その植芝盛平の師匠に当たる武道家です。「講道館」柔道の創始者、嘉納治五郎(1860−1930)がほぼ同年代に居り、相前後しますが、清朝には、洪家拳の黄飛鴻/ウォン・フェイホン(1847−1924)、秘宗拳の霍元甲/フォ・ユァンジャア(1868−1910)という凄い武術家が出ています。沖縄空手の喜屋武朝徳(1870−1945)も忘れてはなりません。

余談になりますが、最近、(ブルース・リーの師匠だったということからでしょうか)急に映画やドラマで人気が高まっている、詠春拳の葉問/イップ・マン(1893−1972)は、植芝盛平(1883−1969)と活動時期が重なっています。それはともかく、銃器鉄砲万能の時代、19世紀末から20世紀初頭に、これだけの武道家が出て来ているという事には、何か深い意味があるように思います。

さて、武田惣角です。惣角は「大東流合気柔術」の創始者とされています。彼は会津藩士の家に生まれました。祖父の武田惣右衛門は「御式内」と言われる武術の専門家でした。この「御式内」は、名前の通り「会津藩士以外の者に教えたり伝えたりすることが禁止」されていました。これが「大東流合気柔術」の源流とされています。更に、惣右衛門は陰陽師でもあって、京都の土御門家(安倍晴明の子孫)から叙任を受けています。その「御式内」と陰陽道を、会津藩家老の西郷頼母(『八重の桜』で、西田敏行が演じていた)に教えたのが、惣右衛門だそうです。父親の武田惣吉は、宮相撲の力士で、禁門の変、戊辰戦争、会津戦争を戦っていますが、全く『八重の桜』には登場しませんでした。但し、惣角の母親、富は日新館の居合術指南役の黒河内伝五郎の娘でした。黒河内(ドラマでは、六平直政が演じていました)は、山本八重に薙刀の稽古をつける先生です。

惣角が物心ついた頃には、明治時代になっていました。家を継ぐのを嫌がって、西南戦争の西郷軍に加わろうとした程の変り種です。それにしても、会津の人間が薩摩の西郷に加勢しようとは何という了見でしょう。その後、惣角は全国を行脚して、他流試合、野試合を繰り返し、実践武術としての「大東流合気柔術」を磨いて行くのです。

3.近代日本

『八重の桜』には、近代兵器と古武術の相克が描かれていて、私の想像力を掻き立てたのでした。これが最終回での、徳富蘇峰(覇権主義の近代的国家論を展開)との対決に生きて来たのだと思います。

幕末から昭和までの日本近代史は、戦争に明け暮れた歴史でした。戊辰戦争、会津戦争、西南戦争、それら内戦の後は、琉球処分、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、ノモンハン戦争、アジア・太平洋戦争と続き、どんな大義名分を言おうとも、日本は単なる「戦争国家」と化して行きます。実際の八重はどうだったのかは知りませんが、少なくともドラマの作者は「別の道」を懸命に模索する、八重の姿を描いたのです。

「猪一郎さん、力は、未来を切り拓くために、使わねばなんねぇよ。昔、わだすが生まれ育った会津という国は、大きな力に呑み込まれた。わだすは銃を持って戦った。最後の一発を撃ち尽くすまで。一人でも多ぐの敵を倒すために。…んだけんじょ、もしも今、わだすが最後の一発の銃弾を撃つとしたら…」。そう言って、再び鶴ヶ城に立った八重は、空を覆う黒雲に向かって、最後の一発を発射します。黒雲から陽光が差し込んで来ます。「わだすは諦めねえ」。

武術の修練は「型稽古」にあります。自分の体をどのように動かして、どのような力の使い方をするのかを徹底的に学ぶのです。大切なのは「力を何のために使うのか」なのです。

最後に正岡子規の句を。「一重づつ一重づつ散れ八重桜」(1886年)。

牧師 朝日研一朗

【2014年1月の月報より】

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2013年12月25日

2013クリスマスイヴ賛美礼拝

12月24日のクリスマスイヴ賛美礼拝の様子です。

クリスマスイブ賛美礼拝
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2013年12月24日

12月第5主日礼拝(歳晩礼拝)

      12月29日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”しあわせをたずねて” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 6章20〜26節(p.112)
賛 美 歌  27、254、490、90、271、25
交読詩篇  113編1〜9節(p.130)

・・・当日の音声録音を聴く
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2013年12月23日

別の道がある【マタイ2:1〜12】

聖句「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(2:12)

1.《博士と王》 米国の戦争映画『スリー・キングス』も、ビセーの劇伴『アルルの女』に引用される民謡「三人の王の行進」も、クリスマスの博士たちが変形したものです。6世紀頃に「博士」は「王」と言われ始め、18世紀の植民地獲得競争の時代には、ヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸を代表する王として描かれるようになります。単なる異国趣味だったものが、やがて西欧列強諸国の権力欲と結び付いて、「博士」より「王」が好まれるようになったのです。

2.《ヘロデ王》 「ヨハネの黙示録」にも「王の王」という表現があります。「救い主」と訳される「メシア」も本来は「王」を意味する語です。占星術の学者たちは、エルサレムの王宮にヘロデ王を訪ねます。「ユダヤ人の王」は王宮に生まれると考えたのです。ヘロデ王には5人のお妃と7人の息子がいました。しかし、その時々のローマの権力者に取り入って、ユダヤを支配するのがお家芸でした。「ローマあってのヘロデ王家」だったのです。まさか自分の家族の中から、帝国に叛旗を翻す者が出るはずないことは明らかでした。

3.《別の道を》 占星術の学者たちは何のために、東の方から「地の果て」ユダヤまで旅して来たのでしょうか。かつて権勢を誇った東方の諸国も消滅し、辛うじてローマに拮抗するパルティアも王権の交代が続く、不安定な状態でした。彼らもまた、ローマ帝国の圧倒的な影響力から、衰退著しいオリエント世界を開放してくれる「王の王」を求めて辿り着いたのです。しかし、彼らが目にしたのは、この世の権力ではなく、無力な赤ん坊に受肉した神の慈しみの深さでした。行き詰まりを覚え、希望を抱きにくい時代です。破滅に向かっているとさえ思われます。しかし、私たちにも必ず「別の道」が与えられるのです。

朝日研一朗牧師

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2013クリスマス礼拝と愛餐会

12月22日のクリスマス礼拝と愛餐会の様子です。

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2013年12月21日

幽径耽読 Book Illuminationその11

  • 「氷川清話/付勝海舟伝」(勝海舟談、勝部真長編、角川ソフィア文庫)
    「行政改革ということは、よく気をつけないと弱いものいじめになるよ。…全体、改革ということは、公平でなくてはいけない。そして大きいものから始めて、小さいものを後にするがよいよ。言いかえれば、改革者が一番に自分を改革するのさ」。日本の政治家と官僚たちは真逆のことをやっているのですね。これが明治時代の談話だから凄い。この人、どこまで遠く見えてたんだろ。「功名をなそうという者には、とても功名はできない。きっと戦いに勝とうという者には、なかなか勝ち戦はできない。…せんじつめれば余裕がないからのことよ」。勝部による小伝も抜群に面白いです。江戸城明け渡しの際、西郷との談判決裂時の策として、慶喜の英国亡命、江戸の焦土戦術、住民の避難誘導まで準備した上で、臨んでいたとは…。
  • 「ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光」(町田智浩+柳下毅一郎著、ちくま文庫)
    私がジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』を見たのは80年代前半、京大西部講堂でした。確か同時上映はトッド・ブラウニングの『フリークス』だったと思います。その頃、ケネス・アンガーの諸作品も一気に観たのでした。ところで、この本のコンセプトは、アンガーの『ハリウッド・バビロン』ですよね。ウォーターズのインタビュー記事を読むと、「変態だったりバカだったりして(笑)、生きづらい連中と出会って、彼らと映画を作ることで救われたんだと思うよ」という感想(ウェイン町山)が出て来て、大いに納得。それから映画以外でも、1999年の段階で、アウトサイダー・アートについて、繰り返し採り上げていてビックリ。犯罪者、パンクロック、ポルノ、スキャンダル…異端の文化史なのですが、見世物としての映画(エクスプロテーション)の復興を強く念じないではいられません。
  • 「日本人とキリスト教」(井上章一著、角川ソフィア文庫)
    解説の末木文美士が、今の日本人は「お寺と神社と教会とをきちんと使い分けているのだ」という「神仏キ習合」論を展開してくれます。実際、うちの教会のイヴ礼拝の出席者は大半がご近所さん(未信者)です。如何にしてキリスト教信仰を日本文化の中に接ぎ木するかについて、互いにとってより善きシンクレティズムの在り方を、日夜、模索している私にとって、大変に参考になりました。特に禁教下の江戸時代における、切支丹についての言説の分析は瞠目しました。私自身、魔法使いのような帽子とマントの装束で歩き、「邪教」のイメージを意識的に振り撒いています。プロテスタント教会には、もう少しロマンチシズムとエキゾチシズムのスパイスが必要です。
  • 「冬虫夏草」(梨木香歩著、新潮社)
    山奥に生まれる鉱山町の話が出て来ます。その社会の活気は「未来永劫続くようなものではない。儚いものだ。あれも、鉱床が尽きるまでの話だ。…幻の町だ」。私の生まれ故郷にも、神子畑、明延、生野という鉱山町がありました。鉱夫とその家族のために、スーパーマーケット、共同浴場、映画館までもあって、私たちから見ると都会のようでした。今は跡形もありません。「衰えていくものは無理なく衰えていかせねばならぬ」という高堂の言葉もありました。この国だけではない、世界中、衰退のペースが加速し過ぎています。衰退は悪いことではありません。必要で自然なプロセスなのです。でも、その一事を拒絶し、更なる「成長」を目指そうと無理をするので、却って急激な崩壊を招いて、被造物の何もかもが悲鳴を上げているように思います。
  • 「刻刻」第7巻(堀尾省太作、講談社)
    「神ノ離忍(カヌリニ)」化した佐河と飛野の戦闘は、予告画通りの怪獣映画的描写でした。それ以上に、過去を告白する佐河と樹里が対峙する緊迫した描写と台詞、圧巻でした。「ありもしない信頼にすり変えて隠そうとしていたのは、お互い1ミリも妥協できないという現実」。この樹里の台詞、どうしたら、こういう言葉を思い付くのでしょうか。
  • 「怪奇小説日和/黄金時代傑作選」(西崎憲編訳、ちくま文庫)
    ノルウェーのヨナス・リーの『岩のひきだし』は、魔女に魅入られて以来、クリスマスの前々日に姿を消す男の話。M・ボウエンの前世の因縁もの『フローレンス・フラナリー』も、H・ウォルポールの魔術ネタ『ターンヘルム』も、なぜかクライマックスはクリスマスです。E・ボウエンの『陽気なる幽霊』もクリスマスの話。季節柄ピッタリでした。M・P・シールの『花嫁』は、教会の日曜学校の校長をしている男が、下宿先の姉妹二人から同時に愛される話です。しかも、この男、結構ズルイのです。「創世記」のヤコブとレア、ラケル姉妹の話が下敷きに成っています。R・F・エイクマンの『列車』を読んで、昔のホラー映画『女子大生危険なサイクリング』を思い出しました。W・W・ジェイコブズの『失われた船』は短いけれど圧巻です。申し分のない文学です。
  • 「ハカイジュウ」第11巻(本田真吾作、秋田書店)
    トール型(巨大特殊生物)の群れと戦うフューズ・シリーズ…。大変なスペクタクルが展開されると思いきや、意外に面白くない。多分、一体一体のモンスターに思い入れを感じる暇もないからでしょう。それは、各フューズについても言えることです。もはや戦闘はドラマの背景でしかなく、グロテスクも凡庸化するのだなと思いました。物語は佳境なのに面白くない、切り株描写が少ないからでしょうか。
  • 「エンニオ・モリコーネ、自身を語る」(エンニオ・モリコーネ+アントニオ・モンダ著、中山エツコ訳、河出書房新社)
    ファンにとっては堪えられない本。例えば、『天地創造』のために書いた曲を、23年後の『サハラの秘宝』に使ったとか、『続・夕陽のガンマン』のエレキギターの音は、磁石を側に置いて弾いたとか、『シシリアン』のテーマはJ.S.バッハの「フーガ/イ短調」前奏曲から生まれたとか、『ガンマン大連合』と『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』に、グレゴリオ聖歌の旋律要素が入っているとか、パゾリーニが『テオレマ』に「モツレク」を入れたのは、芸術的な理由ではなく、厄除けのためだったとか(共産党員のくせに!?)…。訳者、よく頑張っていますが、『ピオヴラ』シリーズ(p.187)は『対決』という邦題でビデオ化されていたことを指摘して置きます。因みに、ウェルトミューラーの『バジリスク』の主題歌を歌ったファウスト・チリアーノ(p.48)こそは、『特捜最前線』の「私だけの十字架」を熱唱した人なのです。
  • 「西洋中世奇譚集成/皇帝の閑暇」(ティルベリのゲルファシウス著、池上俊一訳、講談社学術文庫)
    名古屋の「ひつまぶし」を、いつも「ひまつぶし」と読んでしまう私にピッタリの本。12世紀のヨーロッパ各国を遍歴した知識人が、当時、耳にした「驚異」(mirabilia)の数々を蒐集編纂したのです。「馬頭人類」はスウィフトやコクトーを思い出させます。「ドラクス」は日本の河童か中国の水虎に似た妖怪ですが、子孫の乳母として働かせるために、人間の女を水底に引き摺り込んで誘拐します。動物に育てられた子ならぬ、悪霊に養育された娘も登場します(やはり、言葉は忘れています)。この話、オチが怖いです。ダマスカスの教会にある聖母像は、生身の乳房から癒しの油を分泌します。「エペルヴィエ城の貴婦人」は、必ずミサの途中で退席してしまいますが、正体は悪霊の化身で、強引に引き止めると、礼拝堂を破壊して、奈落へ消え行きます。
  • 「日本怪談集/幽霊篇」下巻(今野圓輔著、中公文庫)
    巻頭の「防空頭巾の集団亡霊」(三重県津市、1963年「女性自身」)が圧巻です。その他、アジア・太平洋戦争の戦死者の亡霊について多くのページが割かれています。日本人が「幽霊」について考察する場合に避けて通れない事柄ではあるのでしょう。それにしても、朝鮮人、中国人、アジア諸国の外国人は幽霊に成りません。多くの惨禍をもたらした張本人である日本人の前に化けて出ないのは、どうしてなのでしょうか。やはり、幽霊とは、日本人の自己言及に過ぎないのでしょうか。著者の指摘するように、交通機関の発達と共に、幽霊も電車、タクシー、飛行機に出現します。いずれ宇宙船にも同乗して来るはずです(『ゴースト・オブ・マーズ』か)。
  • 「日本怪談集/幽霊篇」上巻(今野圓輔著、中公文庫)
    著者が福島県生まれの人のため、相馬地方の山中郷、現在の飯館村の話、双葉郡や相馬郡の話が多く採録されています。原発の出来る前は、この地方、本当に辺鄙な所だったのでしょうね。臨終時に現われて、知人を訪ねたりする幽霊を、秋田県鹿角地方では「オモカゲ」と言うのだそうです。『HUNTER×HUNTER』の映画版に、そんなキャラがいましたね。神奈川県立博物館は横浜正金銀行(東京銀行)の建物だったそうですが、関東大震災の大火災で避難した人々は地下室に…。僅かに開いて空気取りをした窓からは、焼死していく外の人々の断末魔が延々と聞えて来たそうです。これはコワイ。
posted by 行人坂教会 at 09:57 | 牧師の書斎から

2013年12月17日

クリスマス礼拝(アドベント第4主日)

      12月22日(日) 午前10時30分〜正午
説  教 ”別の道がある” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 2章1〜12節(p.2)
賛 美 歌  27、254、490、279、258、69、256、72、25
交読詩篇  113編1〜9節(p.130)

※ 洗礼式、入会式(転入)があります。


・クリスマス愛餐会(新入会者歓迎会)   礼拝後〜午後2時  階下ホール
 メニュー:カレーライスと菓子、果物
 会費:大人500円、小学生300円、未就学児と入会者は無料

・・・当日の音声録音を聴く
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2013年12月16日

受ける喜び、与える幸せ【使徒言行録20:31〜38】

聖句「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」(20:35)

1.《誕生日》 今でこそ降誕日は12月25日になっていますが、アレクサンドリアのクレメンスは5月20日と推測しました。聖書の記述からすれば、雨季の最中に羊飼いが野宿するはずはありません。春の雨と大麦刈りの終わった5月末が相応しいのです。ミトラ教の冬至祭や農業祭サトゥルナリアに対抗するため、教会が日程を振り替えたのです。御自分の与り知らないところで、誕生日を決められて、さぞやイエスさまも驚きになったことでしょう。

2.《人の心》 だからと言って、クリスマスを否定するのでは人情がありません。つまり、12月25日の意味は人情にあるのです。巡り巡って、寒い冬の最中にお祝いされるようになったことにも、神の御心があるのです。私の師匠、深田未来生牧師は自由学園を退学になった後、16歳で渡米して、皿洗いと掃除夫をしながら苦学しました。けれども、高校から大学までの間、一度も寂しいクリスマスを過ごしたことはなかったと言います。ある時は、級友たちがプレゼントを山積みしてくれました。毎年、招いて迎え入れてくれる家庭もあったのです。

3.《温かみ》 現代日本の子供たちにとって、クリスマスは「プレゼントを貰う」だけの季節に成っています。しかし、本当は「受ける喜び」と「与える幸せ」とは切り離すことが出来ないのです。お返しの出来ない人に与えて、見返りを求めることをしないで済む所に「与える幸せ」があります。「受くるより与えるが幸いなり」と言いますが、「受ける喜び」まで否定する必要はありません。また、受け入れることも大切です。O・ヘンリーの『賢者の贈り物』は、貧しい夫婦が行き違いの贈り物をする話です。お互い無益なので「バカな贈り物」なのですが、相手のことを自分より大切に思った結果なのです。これが宝です。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:44 | 毎週の講壇から