2013年12月26日

八重の桜も散りぬるを

1.山本八重

毎週、楽しみにしていたNHKの大河ドラマ『八重の桜』が終わってしまいました。前年の『平清盛』程ではないにしろ、低視聴率だったと聞いています。新機軸を打ち出していたドラマだっただけに残念でした。

例えば、ドラマは、米国内戦「南北戦争」の戦闘場面から始まっていました。この戦争に使用された武器弾薬が、その後、戊辰戦争と会津戦争に使用されたことは、以前から指摘されていましたが、それを実際に映像で見せたところに新鮮な説得力がありました。

『八重の桜』には、様々な銃火器が出て来ました。オランダの「ゲベール銃」は既に時代遅れでした。「ゲベール」を改良したのが「ミニエー銃」です。その「ミニエー」から発展したのが、南軍の主力銃「エンフィールド銃」で、これが幕末にアメリカから5万挺も輸入されています。「エンフィールド」を更に改良したのが「スナイドル銃」です。山本覚馬が長崎で大量買い付けに成功しながら、会津戦争に間に合わなかったのが、そのプロイセン版「ドライゼ銃」です。覚馬から会津の八重に届けられた1挺が「スナイドル」の米国版「スペンサー銃」です。しかも、歩兵用のライフルを騎兵用に短銃身化した物(カービン銃)で、7連発でした。史上初の「後装式」(後ろ込め)だったのです。

「無煙火薬」は1890年代以後ですから、これらの銃器は全て「黒色火薬」を使っています。銃器に詳しい私の友人は、黒色火薬の発火時の猛烈な反動を考えると、「女が撃てるはずはない。肩の骨が外れてしまう」と言って批判していました。まあ、それだからこそ、八重が米俵を軽々と担いだり、大山巖と腕相撲をしたりする逸話を加えて、彼女の怪力女ぶりを必死に強調していたのでしょう。

2.武田惣角

会津の人で、私が一番興味を持っているのは、武田惣角(1859−1943)という人物です。合気道の開祖にして、「皇武館」設立者として有名な、植芝盛平という人がいますが、その植芝盛平の師匠に当たる武道家です。「講道館」柔道の創始者、嘉納治五郎(1860−1930)がほぼ同年代に居り、相前後しますが、清朝には、洪家拳の黄飛鴻/ウォン・フェイホン(1847−1924)、秘宗拳の霍元甲/フォ・ユァンジャア(1868−1910)という凄い武術家が出ています。沖縄空手の喜屋武朝徳(1870−1945)も忘れてはなりません。

余談になりますが、最近、(ブルース・リーの師匠だったということからでしょうか)急に映画やドラマで人気が高まっている、詠春拳の葉問/イップ・マン(1893−1972)は、植芝盛平(1883−1969)と活動時期が重なっています。それはともかく、銃器鉄砲万能の時代、19世紀末から20世紀初頭に、これだけの武道家が出て来ているという事には、何か深い意味があるように思います。

さて、武田惣角です。惣角は「大東流合気柔術」の創始者とされています。彼は会津藩士の家に生まれました。祖父の武田惣右衛門は「御式内」と言われる武術の専門家でした。この「御式内」は、名前の通り「会津藩士以外の者に教えたり伝えたりすることが禁止」されていました。これが「大東流合気柔術」の源流とされています。更に、惣右衛門は陰陽師でもあって、京都の土御門家(安倍晴明の子孫)から叙任を受けています。その「御式内」と陰陽道を、会津藩家老の西郷頼母(『八重の桜』で、西田敏行が演じていた)に教えたのが、惣右衛門だそうです。父親の武田惣吉は、宮相撲の力士で、禁門の変、戊辰戦争、会津戦争を戦っていますが、全く『八重の桜』には登場しませんでした。但し、惣角の母親、富は日新館の居合術指南役の黒河内伝五郎の娘でした。黒河内(ドラマでは、六平直政が演じていました)は、山本八重に薙刀の稽古をつける先生です。

惣角が物心ついた頃には、明治時代になっていました。家を継ぐのを嫌がって、西南戦争の西郷軍に加わろうとした程の変り種です。それにしても、会津の人間が薩摩の西郷に加勢しようとは何という了見でしょう。その後、惣角は全国を行脚して、他流試合、野試合を繰り返し、実践武術としての「大東流合気柔術」を磨いて行くのです。

3.近代日本

『八重の桜』には、近代兵器と古武術の相克が描かれていて、私の想像力を掻き立てたのでした。これが最終回での、徳富蘇峰(覇権主義の近代的国家論を展開)との対決に生きて来たのだと思います。

幕末から昭和までの日本近代史は、戦争に明け暮れた歴史でした。戊辰戦争、会津戦争、西南戦争、それら内戦の後は、琉球処分、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、ノモンハン戦争、アジア・太平洋戦争と続き、どんな大義名分を言おうとも、日本は単なる「戦争国家」と化して行きます。実際の八重はどうだったのかは知りませんが、少なくともドラマの作者は「別の道」を懸命に模索する、八重の姿を描いたのです。

「猪一郎さん、力は、未来を切り拓くために、使わねばなんねぇよ。昔、わだすが生まれ育った会津という国は、大きな力に呑み込まれた。わだすは銃を持って戦った。最後の一発を撃ち尽くすまで。一人でも多ぐの敵を倒すために。…んだけんじょ、もしも今、わだすが最後の一発の銃弾を撃つとしたら…」。そう言って、再び鶴ヶ城に立った八重は、空を覆う黒雲に向かって、最後の一発を発射します。黒雲から陽光が差し込んで来ます。「わだすは諦めねえ」。

武術の修練は「型稽古」にあります。自分の体をどのように動かして、どのような力の使い方をするのかを徹底的に学ぶのです。大切なのは「力を何のために使うのか」なのです。

最後に正岡子規の句を。「一重づつ一重づつ散れ八重桜」(1886年)。

牧師 朝日研一朗

【2014年1月の月報より】

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