2014年01月25日

光あるところ影がある

1.新島襄の手紙

「先日桂兄より、〔メソジスト派の〕銀座教会のわが新肴丁教会の頭の上〔階上〕に移し、大不都合を生じ云々、明細に御記し一書ご投与に預かり、小生もこれがため甚だ心痛仕り候。しかしながら右の挙動はクリスチャンのなすべき事か否かは、目ある者は見るべき、心ある者考うべし。我輩決して頓着するに及ばず。少年書生の?歎(こうたん)不平を鳴らす者もあるべけれども、なにとぞ桂兄その他の兄弟とも克々ご相談ありて、至急にその所を御立ち退き、少しも不平の色をも顕さず、わが教会の信徒はどこまでも基督の僕たるを表明すべし。定めて移転するに当たりては幾分かのご入費もあるべけれども、これは横浜のグリーン先生とも速やかにご相談あり、またご不足あらば幾分か西京(京都)信徒中よりもご加勢仕るべく候間、ご遠慮これなきよう仕りたく候。」

新島襄が小崎弘道に宛てた手紙の一節です(同志社編『新島襄の手紙』岩波文庫)。日付は1880年(明治13年)2月25日と成っています。小崎は後に、この新肴町教会の後裔として霊南坂教会、更には番町教会の設立に関わっていくのです。文中の「桂兄」とは、新肴町教会を創立した中心人物の1人、桂時亮(かつら・ときあき)です。

この一件には、普段温厚な新島も心を痛め、「これがクリスチャンの為すべき事か!」とまで述べて憤激しています。実際、同志社の学生の中にも、怒り歎く者が数多くあったようです。しかし、新島は「どうせ借家」と思い切ったのか、「頓着するに及ばず」と言い放ち、むしろ「至急にその所を御立ち退き、少しも不平の色をも顕さず、わが教会の信徒はどこまでも基督の僕たるを表明すべし」と、小崎に潔く勧めています。

2.創立の光と影

当時、津田仙が新肴町に農学校の分校を所有していて、組合教会はその建物の2階の1室を借り受けて、新肴町教会として日曜礼拝を守っていました。津田仙は明治の農学者、(津田塾の設立者)津田梅子の父親です。青山学院女子部の前身である「救世学校」の創立者でもあります。ところが、築地美以(メソジスト)教会(もしくは「東京福音会」でしょうか)が津田から農学校の建物ごと買い取ってしまい、銀座美以教会を移設したのです。

その辺りの事情を『銀座教会九十年史』に引用されている、田村直臣著『信仰五十年史』から孫引きします。「…幸にも津田先生は我等に同情を寄せられ、新肴町分校の建物全部を僅かなる金にて譲り渡された。其の建物は学校に用いられてゐたから、二階も下も三ツの教室に別れて居った。我等は三百円を投じて、其二階の仕切りを取り外して一ツの室とし、其れを会堂に用ゐ、下は一部を牧師館に、一部を貸家として、其の上り高を以て、政府の納める月賦となし、新教会堂を新肴町に設け、銀座教会を京橋教会と改称した。」

「我等が津田先生から其の分校を譲り受けた結果、組合教会は他に立退かなければならぬ場となったが、急に移るべき場所もなく日曜日の如き二階は長老教会、階下は組合教会の集会を同時に催したことがあった。」 銀座教会側からすると、こういう和気藹々な表現に変わります。先の新島の手紙にあった「右の挙動はクリスチャンのなすべき事か否かは、目ある者は見るべき、心ある者考うべし」と読み合わせると、受ける印象の違いは明らかです。また、建物2階部分の改装だけに「3百円」(現在の3百万円くらい)をポンッと使ってしまうところ等、「東京福音会」の資金が潤沢だったことが分かります。

対して、組合教会の「日本基督伝道会社」の窮状ぶりを、同じ新島の手紙(小崎宛て)に読み取ることが出来ます。「貧乏なる伝道会社より受くるを辞するは少(すこ)しく君の心に快なるべし。しかし、君の貴重なる時間を幾分か教授に費やして、自己の学識進歩、並びに東京市中の伝道に失うところ幾何(いくばく)ぞ。なにとぞこれを天秤に懸け賜え。もし月々ご不足あらば小生までこれを告げ賜え。小生幾分か会社に関せず、主基督のために尽力すべし。主のために働く者はその償(つぐない)を受けて苦しからず。」

資金力の違いは、アメリカの宣教団からの協力援助の有無です。結局は「小崎らが他の教会とは異なって、外国依存を排し、自主独立を強く目指していたこともあり、その経済的困難や集会の不振は覆うべくもなかった」(『行人坂教会百年史』p.3)との説明に尽きます。

3.誰による政治

とは言え、そんな出来事も今は昔、銀座教会も青山学院も内実としては、もはやメソジストとは言えません。メソジストの政治形態である「監督制」が機能していないからです。因みに、先程からメソジストの略称として「美以」という漢字の熟語が出て来ますが、これこそは「Methodist Episcopal」の頭文字「ME」の当て字です。「エピスコーパル」とは「監督教会、監督主義」の意味です。

その上、先の事件から数年後には、小崎その人が積極的に、組合教会と一致教会(長老派)との合同を推進するようになります。大河ドラマ『八重の桜』には(当然)全く触れられていませんでしたが、新島襄の寿命が10年以上短くなったのは、この「教会合同問題」によるとされています。新島は終生「合同」反対を貫きました。寡頭政治(長老主義)を受け入れれば、組合教会の生命である自由と民主主義(会衆主義)は失われると考えていたようです。実際、当時の日本人で、「教派/denomination」というものを正しく理解していたのは、新島だけだったのでしょう。

そもそも日本のプロテンタント諸派には、教派が枝分かれして行った歴史が欠落しています。ですから、表向きは「学閥」として存在しているだけのように思われます。しかし、これは新島が主張し続けたように、教会の政治形態の違いなのです。政治制度に対する無理解は、教会においても致命的なのです。このことは、私たちも心して覚えて置くべきです。

牧師 朝日研一朗

【2014年2月の月報より】

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