説 教 ”道筋を真っ直ぐに”

聖 書 マタイによる福音書 3章1節〜12節(p.3)
賛 美 歌 27、455、490、193、173、75、29
交読詩編 102編1〜15節(p.114)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「命のある限り、わたしを主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。」(146:2)
1.《生き甲斐》 未だ「仕事が生き甲斐」「子育てに生き甲斐を感じる」と言う人も大勢いますが、最近では趣味やスポーツやペットに生き甲斐を感じる人も増えて来ました。「生き甲斐」は「生きている意義」、「甲斐」は「効き目」を意味します。ある行為に値するだけの効果です。「甲斐性がある」「頼り甲斐」「甲斐性なし」等という言い回しは、自分の働きが価値され意味付けされることが前提です。どこかで他者を必要としているのです。
2.《死に甲斐》 死生学では「死に甲斐」と言います。なぜなら、私たちが生きているのは、いずれ死ぬことが前提となっているからです。「そのためなら自分の命を差し出しても構わない」と思うのが「死に甲斐」です。「生き甲斐」と言えば、自分を生かすこと(自己目的)を強く感じさせます。しかし、自分の損失を承知で他の誰かを生かそうとするのが、究極の「生き甲斐」ではないでしょうか。私たちは何のために生まれたのでしょうか。聖書には、人間存在の意味が「主を賛美するために創造された」と端的に示されています。
3.《命の限り》 現在の「グリー」の定義は「自分を解放し、歓喜すること」、「合唱」は「チームワークによる芸術性の高いパフォーマンス」と成ります。歌うことの醍醐味は「歓喜と解放」なのです。聖書は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神を愛するように勧めています。「心を尽くし」は「胸の奥から」「腹の底から」です。声を上げることです。「魂を尽くし」は「自分自身で」です。人生を誰かに代わって生きて貰えないのと同様、人任せにせず、自分の声と思念が大切です。「力を尽くして」は「誠心誠意、一生懸命、全身全霊、精一杯」と訳すことも出来ます。力の出せない日も、神は私たちの気持ちを見てくださいます。古代ユダヤ教徒は来世を信じませんでしたが、私たちは、この世を、ただ1度の「予行演習」と考えます。「本番」に向けて進みましょう。
朝日研一朗牧師
聖句「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。」(18:2,3)
1.《供え物》 ユニセフの「子どもの権利条約」批准以来、日本でも「子供」ではなく「子ども」と表記することが多くなりました。「子供」という漢字表記は、かつて少年少女や幼児が「人身御供」として生贄に捧げられたことを連想させるようです。古今東西に、子供を生きながらに殺す残酷な宗教儀礼や風俗がありました。昔の人たちは、自分たちの一番大切な子供を犠牲にすることで、何とかして神々に願いを聞き届けさせようとしていたのです。
2.《犠牲者》 「人身御供」こそありませんが、戦争や動乱、災害の際に真っ先に犠牲になるのが幼い命です。児童虐待、ネグレクト、少年少女を標的にした犯罪も跡を絶ちません。「虐待110番」のような電話相談をしている団体の人が、自分たちは「子ども」を「小さい人」と呼んでいると講演されていました。大人、即ち「大きい人」に対して「小さい人」です。小さくても「人」なのです。未熟で無力でも、大人と同じように、尊重され守られるべき人権を持った人なのです。「小さい人」と呼ぶことで、そのことを訴えているのだそうです。
3.《幼な子》 弟子たちがイエスさまに「誰が天国では一番偉いのか」と尋ねました。この質問の背景には、モーセかエリヤか、アブラハムかエノクかという想定があります。「山上の変貌」を見たせいもあって、「イエスさまかも」という念が湧きました。途端に「自分はナンバー2かも」と思ったのでしょう。私たちもテレビのランキング形式によって情報操作されています。しかし、イエスさまはそんな弟子たちの質問に対して、通りすがりの幼な子を招いて「この子が一番」と言われました。それが「天国」なのです。天国にはランキングも偏差値も、優先順位も生活格差もありません。この世は不平等で弱肉強食で、強い人、大きい人を中心にして回っています。けれども、小さい人を真ん中にして生きる時、たとえ、この世であっても、そこに天国が生まれるのです。
朝日研一朗牧師
2月16日の主日礼拝後、行人坂教会創立110周年を記念して開催された、明治学院高校ハイグリー部のみなさんによるチャペルコンサートの様子です。
聖句「知らないのですか。あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(6:19)
1.《アイコン》コンピュータ画面に出て来る絵柄、ロゴマークを「アイコン」と言います。アイコンは、東方正教会が信仰生活の中心に置く聖画「イコン」から来ています。正教徒にとってイコンは、単なる絵ではありません。文字の読み書きが出来る人の少なかった昔は聖書の代わりを果たしました。西洋の絵描きのように、イコン画家は独自性や作家性を出して自己主張はしません。絵を自己主張の道具にすることを徹底的に避けているのです。
2.《天国の窓》イコン画家に署名はありません。有名なアンドレイ・ルブリョーフのイコンでも、「ルブリョーフ派」「ルブリョーフ?」と表記される物が多いのです。イコンは模写されることを前提としています。真贋判定や著作権の問題などありません。イコンは飽く迄も窓であって、そこから生まれる祈りが大切にされているからです。ギリシア語の「エイコーン」は、神の「似姿」です。信者は家の各所にイコンを置きます。そこに「天国の窓」が開くと言います。
3.《一つの体》コンピュータのアイコンをクリックすると、そこからプログラムが広がって行きます。同じように、イコンを見た人がそれを入り口として神の国や天国を垣間見るのです。聖書主義によって発展したプロテスタントには、そのような装置はありません。言語と文字を切り口にして来た私たちは、視覚と感覚を疎かにして来ました。文書メディアの影響力低下著しい時代です。その中にあって、プロテスタント教会のアイコンに成り得るのは、やはり「キリストの体なる教会」、信仰共同体だと、私は思います。聖書の「体/ソーマ」は「肉/サルクス」ではありません。キリスト、教会、永遠の命に繋がって行くものです。行人坂教会に来ると、そこから神の世界が見えて来る、そのような場に成って参りますように、皆で力を合わせて行きたいと思うのです。
朝日研一朗牧師