2014年02月25日

3月第1主日礼拝

       3月 2日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”道筋を真っ直ぐに” 音楽             朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 3章1節〜12節(p.3)
賛 美 歌  27、455、490、193、173、75、29
交読詩編  102編1〜15節(p.114)

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posted by 行人坂教会 at 06:50 | 毎週の礼拝案内

2014年02月24日

命のある限り【詩編 146:1〜10】

聖句「命のある限り、わたしを主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。」(146:2)

1.《生き甲斐》 未だ「仕事が生き甲斐」「子育てに生き甲斐を感じる」と言う人も大勢いますが、最近では趣味やスポーツやペットに生き甲斐を感じる人も増えて来ました。「生き甲斐」は「生きている意義」、「甲斐」は「効き目」を意味します。ある行為に値するだけの効果です。「甲斐性がある」「頼り甲斐」「甲斐性なし」等という言い回しは、自分の働きが価値され意味付けされることが前提です。どこかで他者を必要としているのです。

2.《死に甲斐》 死生学では「死に甲斐」と言います。なぜなら、私たちが生きているのは、いずれ死ぬことが前提となっているからです。「そのためなら自分の命を差し出しても構わない」と思うのが「死に甲斐」です。「生き甲斐」と言えば、自分を生かすこと(自己目的)を強く感じさせます。しかし、自分の損失を承知で他の誰かを生かそうとするのが、究極の「生き甲斐」ではないでしょうか。私たちは何のために生まれたのでしょうか。聖書には、人間存在の意味が「主を賛美するために創造された」と端的に示されています。

3.《命の限り》 現在の「グリー」の定義は「自分を解放し、歓喜すること」、「合唱」は「チームワークによる芸術性の高いパフォーマンス」と成ります。歌うことの醍醐味は「歓喜と解放」なのです。聖書は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神を愛するように勧めています。「心を尽くし」は「胸の奥から」「腹の底から」です。声を上げることです。「魂を尽くし」は「自分自身で」です。人生を誰かに代わって生きて貰えないのと同様、人任せにせず、自分の声と思念が大切です。「力を尽くして」は「誠心誠意、一生懸命、全身全霊、精一杯」と訳すことも出来ます。力の出せない日も、神は私たちの気持ちを見てくださいます。古代ユダヤ教徒は来世を信じませんでしたが、私たちは、この世を、ただ1度の「予行演習」と考えます。「本番」に向けて進みましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:46 | 毎週の講壇から

2014年02月20日

大好きなゴジラ

1.ヌイグルミ

小学生時代、私が将来に夢描いていたのは、怪獣のヌイグルミに入って演技をするスーツアクターに成ることでした。ゴジラの中に入っていた中島春雄こそが、私のヒーローだったのです。『地球攻撃命令/ゴジラ対ガイガン』(1972年)を最後に、中島はスーツアクターを引退したのですが、時を同じくして、私の「怪獣熱」も急速に冷めて行きました。西部劇やオカルト映画、クンフー映画にシフトして行ったのです。

そんなこんなで、「ガイガン」に続く『ゴジラ対メガロ』(1973年)に至っては、結婚して子どもたちが生まれ、彼らと一緒にビデオで鑑賞したのが最初だったのです。その空白期間たるや、何と30年に及びます。その「メガロ」には、スーパーロボットのジェットジャガーが登場、ゴジラとタッグを組んで、ガイガン+メガロのヒール(悪役)と対決するのです。所謂「怪獣プロレス」です。これには、当時、保育園児だった長男が噴き出して、ケラケラ笑い出す始末でした。映画の最後に、小学生の男の子がロボットの奮戦振りに、「ジェットジャガー、良かったぞぉ!」とエールを送るのですが(もろ、子ども向け!)、それを二男は口真似して、何度も繰り返していました。

その傍らで、私は冷や汗を流していたのです。ああ、少年時代に観なくて良かった。あの時、もしも劇場に足を運んで観ていたら、恥ずかしさの余りに、怪獣映画ファンだったことも後悔して、永遠に魂の奥底に封印してしまい、無かったことにしていたかも知れません。年齢を重ねて、余裕をもって鑑賞できたことを、神に感謝したものです。

近年公開された、ギレルモ・デル・トロの『パシフィック・リム』(2013年)は、怪獣と対決するロボットの話です。『パシフィック・リム』は、『ゴジラ』シリーズ初期の監督、本多猪四郎と「ダイナメーション」のレイ・ハリーハウゼンに捧げられています(献呈の辞が出て来ます)。けれども、実際には(公開から丁度40年の歳月を経た)『ゴジラ対メガロ』のラインではないかと、私は心密かに考えているのです。

2.窓の外に眼

「怪獣熱」は冷めてしまった私ですが、決して「怪獣魂」までは失われてはいませんでした。その後、悪魔主義、猟奇趣味が高じて、挙句に裏返って、キリスト教の牧師になってしまったくらいですから、何がどのように作用するのか、人生は全くの謎です。

私くらいの年季になると、昔の『ゴジラ』(1954年)を観ても、『ガメラ3/邪神覚醒』(1999年)を観ても、『グエムル/漢江の怪物』(2006年)を観ても、『第9地区』(2009年)を観ても、キリストの御足の跡を見ることが出来るのです。まあ、これは殆ど「妄想」と言っても構いません。

例えば、コルコバードのキリスト像が『巨人ゴーレム』や『大魔神』よろしく、突然、歩き始めて、山を下りて行き(勿論、両手を開いたままです)、オリンピックの準備未だ整わぬリオデジャネイロを破壊して回るような、そんな怪獣映画を想像してしまうのです。あのキリストは身長が39.6メートル、両手の長さが左右30メートルですから、建物を破壊するにも余り大き過ぎず、リアリティが保たれると思うのです。

そう言えば、ハリウッドで製作され、今や完成間近の『ゴジラ』の新作は、何でもゴジラの図体が「地球規模の大きさに成る」とも噂されていて、予告編を見ながら、正直、私は心配でなりませんでした。渡辺謙やジュリエット・ビノッシュ、懐かしの宝田明まで引っ張り出しているようですが、余りスケール(尺度)が大きくなり過ぎると、人間の感覚は現実感を失ってしまい、コミカルに感じるようになるのです。

昨年、アニメがヒットした『進撃の巨人』の場合なども、50メートル級の超大型巨人は別にして、通常が3〜15メートルとされていました。この設定が怖いのです。2階、3階の窓から怪物の眼球が覗いている怖さなのです。『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が語っていたように、少年時代に『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』(1965年)や『フランケンシュタインの怪獣/サンダ対ガイラ』(1966年)を見て感じたという、身長20メートル前後の怖さというものがあるのです。

3.モンスター

誰しも「鬼」と言えば、虎縞の腰巻を着けた角の生えた大男を想像するでしょう。けれども、そのように図像化される以前、「鬼」は「死霊、死者の魂魄」を意味していました。つまり、見えないものだったのです。同じように「怪獣、怪物」を意味する「モンスター」の語源は「モーンストルム/monstrum」、この語の第一義は「戒め、警告、予兆」なのです。つまり、モンスターもまた、目には見えないものだったのです。目には見えないものの徴や兆しを、別の何かに認めることで、古来、人間は危険を回避して来たのです。

そのように考えると、怪獣映画において、怪獣たちの全体像が中々画面に現われないのも道理かも知れません。姿を現わした瞬間、図像化されてしまった瞬間に、対象化されたそれは、もはや不気味な「モンスター」では無くなってしまうのです。丁度、ローランド・エメリッヒ版の『GODZILLA』(1998年)が「大きなウミイグアナ」でしかなかったというマヌケな展開で、観客の失笑を買ったパターンです。

見えないからこそ、私たちは恐怖と不安を抱くのです。見えてしまったら、実は何も怖くないのかも知れません。つまり、私たち、人類は偶像を刻み、絵に描くことによって、神々や仏、鬼や怪物、悪魔なども対象化して来たのです。要するに、怖いものでは無くして来たのです。その意味では、アッラーの神を描くことを一切禁じているムスリムが、もしかしたら、その辺りの極意を一番心得ているのかも知れません。

牧師 朝日研一朗

【2014年3月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 11:23 | ┣会報巻頭言など

2014年02月18日

2月第4主日礼拝

       2月23日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”命のある限り” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  詩編 146編1節〜10節(p.986)
賛 美 歌  27、153、490、167、355、28
交読詩篇  119編129〜136節(p.142)

讃美歌練習(3月の月歌:455番)  礼拝後        礼拝堂

オルガニスト講習会      昼食後〜午後1時30分     礼拝堂
 講師:飯 靖子(霊南坂教会オルガニスト、『礼拝と音楽』編集委員)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 10:00 | 毎週の礼拝案内

小さい人が真ん中に【マタイ18:1〜5】

聖句「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。」(18:2,3)

1.《供え物》 ユニセフの「子どもの権利条約」批准以来、日本でも「子供」ではなく「子ども」と表記することが多くなりました。「子供」という漢字表記は、かつて少年少女や幼児が「人身御供」として生贄に捧げられたことを連想させるようです。古今東西に、子供を生きながらに殺す残酷な宗教儀礼や風俗がありました。昔の人たちは、自分たちの一番大切な子供を犠牲にすることで、何とかして神々に願いを聞き届けさせようとしていたのです。

2.《犠牲者》 「人身御供」こそありませんが、戦争や動乱、災害の際に真っ先に犠牲になるのが幼い命です。児童虐待、ネグレクト、少年少女を標的にした犯罪も跡を絶ちません。「虐待110番」のような電話相談をしている団体の人が、自分たちは「子ども」を「小さい人」と呼んでいると講演されていました。大人、即ち「大きい人」に対して「小さい人」です。小さくても「人」なのです。未熟で無力でも、大人と同じように、尊重され守られるべき人権を持った人なのです。「小さい人」と呼ぶことで、そのことを訴えているのだそうです。

3.《幼な子》 弟子たちがイエスさまに「誰が天国では一番偉いのか」と尋ねました。この質問の背景には、モーセかエリヤか、アブラハムかエノクかという想定があります。「山上の変貌」を見たせいもあって、「イエスさまかも」という念が湧きました。途端に「自分はナンバー2かも」と思ったのでしょう。私たちもテレビのランキング形式によって情報操作されています。しかし、イエスさまはそんな弟子たちの質問に対して、通りすがりの幼な子を招いて「この子が一番」と言われました。それが「天国」なのです。天国にはランキングも偏差値も、優先順位も生活格差もありません。この世は不平等で弱肉強食で、強い人、大きい人を中心にして回っています。けれども、小さい人を真ん中にして生きる時、たとえ、この世であっても、そこに天国が生まれるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 07:54 | 毎週の講壇から

2014年02月17日

命の道を教えて

1.危険がいっぱい

世の中に「苦労人」と呼ばれる人がいます。それと同じように、教会にも「苦労教会」があると思います。例えば、欧米の宣教団体の資金提供を受けて、大きな土地を取得して、立派な会堂を建設してしまった教会があります。他方、バザーをしたりして、募金を集めながら、あちらこちらと用地を探し求めて、民家の屋根に十字架を付けたような会堂を、やっとの思いで建てた教会もあります。

私たちが生まれる時に、家庭の環境や貧富を選べないのと同じように、教会もまた、その創設時に、平等の条件で生まれて来る訳ではありません。更に言えば、こうして土地や建物が手に入ったからと言って、教会の歩みが保証される訳ではありません。

現に、行人坂教会の前身である日本組合京橋基督教会は、創立から20年後に関東大震災で焼失してしまいます。しかし、この世にある教会にとって、被災の悲劇は特別なことではありません。関東大震災、阪神大震災、東日本大震災は言うまでもなく、その他にも、中規模の地震、台風や洪水、火山の噴火によって被災した教会は、どけだけ多くあることでしょうか。失火、放火、不審火などで消失した教会もあります。

忘れてはいけません。太平洋戦争末期、米軍の焦土作戦によって戦災を受けた教会も数多くあります。敗戦直後、当教会が韓国目黒教会に会場を提供したり、麻布狸穴教会と協同で礼拝を営んだりした事実からも、そんな歴史の一端を見ることが出来ます。間借りしながらでも存続できれば未だしも、空襲で会堂を失い、戦時下で再建の目途が立たないまま、他の教会に吸収合併された教会もあるのです。

その歴史から考えると、どちらかと言えば、行人坂は「苦労教会」の部類に入るかも知れません。しかし、艱難に遭うのは世の常、況して、教会が難儀するのは、キリストの十字架に相応しいことです。パウロが「コリントの信徒への手紙二」11章16節以下で述べている通りです。ここで、パウロが繰り返す「難」という語「キンデュノス」は「危険」という意味です。

2.太陽がいっぱい

パウロが「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言っているように、キリスト者にとっても、キリスト教会にとっても一番大切なのは、自らの「弱さに関わる事柄」です。強さではなく弱さについて敏感に反応する感性が、私たちに問われています。なぜなら、それこそが十字架だからです。

それを敷衍させて行けば、大きさ、立派さ、数の多さに目を向けるのではなく、小さな事柄、質素さ、一人一人の姿に目を向けて行くことでしょう。誰もが目を見張るような、この世の栄光や権威ではなく、この世では隠されている神さまの御光や御力を探し求める努力をすることです。何しろ、パウロによれば「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(前掲書12章9節)そうですから。

行人坂教会よりも「大きな教会」、大規模教会は幾らもあります。時折、「大きな教会」を羨ましがる信徒が居られます。あるいは、「大きな教会」に引け目を感じるらしい信徒も居られます。しかし、カテドラルのような礼拝堂が「教会」でしょうか。ビリー・グラハムのスタジアム集会のようなものが「教会」でしょうか。

勿論、礼拝だって何だって人数が多い方が盛り上がるし、献金も多いから財政上も安定するし、奉仕者も多いから多面的な働きが出来るのかも知れません。それでも、私自身は「教会は余り大き過ぎない方が良い」と思っています。「マス」や「メガ」は悪魔の巣窟と化し易いのです。イエスさまが「神と富とに仕えることはできない」(マタイによる福音書6章24節)と言われる通りです。イエスさまの仰る「富」とは「マモン」です。中世には、人間の金銭欲に付け入る悪魔とされました。

私たちの暮らしを振り返れば、自ずと分かることです。生活して行くためには、ある程度の財政的な基盤が必要です。ご飯も毎日食べなくてはいけないし、子供を学校にもやらなければならないし、家の補修もしなくてはならないし、少しは交際費や遊興費もないといけません。けれども、余計な財産を持っていると、ろくなことにはなりません。分不相応な富を得て、家庭が崩壊し、身を滅ぼすプロットは、如何にも有り触れています。教会も少し貧乏臭いくらいの方が正常なのです。

教会にとって大切な事柄は規模の大小、富の大小ではないことを、改めて私たちは意識する必要があります。太陽はいっぱい要りません。太陽は一つで十分なのです。

3.足跡がいっぱい

「強さではなくて弱さを」と言いましたが、何も「粗探し」をする必要はありません。そうではなくて、人間が力自慢する要素ではなく、人間の力の及ばなかった点で、神さまが働かれた痕跡を見つけるのです。

人間の力自慢はよくあります。私自身、南大阪教会で伝道師をしていた頃、友人たちを礼拝堂に案内して自慢していました。「これは、村野藤吾が設計した会堂で…」等と説明して悦に入っていたものです。若気の至りとしか言いようがありません。会堂建築時には、未だ赴任してさえいなかったのに…。

今でも他の教会を訪問した時、その教会の牧師さんや役員さんから、会堂自慢、パイプオルガン自慢、ステンドグラス自慢などを聞かされることは珍しくありません。自分も「同じ穴の狢」であることを認めた上で申しますが、立ち止まって考えれば、惨めなことです(ヨハネの黙示録3章17節)。

幸い、行人坂教会の礼拝堂をお見せした人たちに、私がそのような自慢をしたことは一度もありません。自慢しようと思ったこともありません。却って、お客様の方で(その年季や雰囲気を)褒めてくださって(お世辞や社交辞令かも知れませんが)、「ああ、そうなんだ。どこがいいのか分からないけど、いいんだ」と思わされたことが一度ならずあります。上手く言えませんが、それが行人坂教会の良さなのかも知れません。古びた会堂ですが、そこここに、イエスさまの歩まれた御跡があるのです。

礼拝も、そのような礼拝でありたいと思います。荘厳なパイプオルガンの響きも、立派な聖歌隊のハーモニーもありません。牧師も権威の無さそうな人だし、会衆の人数も高齢化のせいか減少気味。でも、私たち自身の力や働きではなくて、イエスさまが来て働いてくださっているのです。そこに希望を置きたいと思うのです。恐らく、私たちの弱さを見るに見かねて、やって来られたのです。まさしく「十字架はわが希望」(crux spes mea)です。

ナメクジの通った跡が銀色に輝いているように、イエスさまの御足の跡も、きっと何かが輝いていると思うのです。今は余裕を無くした時代ですから、それは余裕が無いと見えないと思います。

それだから、忙しい教会よりはゆったりとした教会を、一部の隙の無い教会よりも隙だらけの教会を、権威のある教会よりも遜った教会を目指したいと思うのです。礼拝も宣教も、教会形成も教会教育も、祈りも奉仕も、急がず焦らず「百年の計」と心得て、大勢の人たちと一緒に歩いて行きたいと思うのです。

牧師 朝日研一朗

【行人坂教会創立110周年記念文集(2014年2月)より】

posted by 行人坂教会 at 16:05 | ┣会報巻頭言など

行人坂教会創立110周年記念文集

行人坂教会創立110周年を記念して文集「かかわりを新たに」が作成されました。

表紙
表紙

はじめに
はじめに

資料で見る10年
資料で見る10年(p81).jpg

資料で見る10年(p82).jpg

資料で見る10年(p83).jpg
posted by 行人坂教会 at 12:15 | 教会からのお知らせ

2014年02月16日

創立110周年記念チャペルコンサート

2月16日の主日礼拝後、行人坂教会創立110周年を記念して開催された、明治学院高校ハイグリー部のみなさんによるチャペルコンサートの様子です。


チャペルコンサート

チャペルコンサート
posted by 行人坂教会 at 17:49 | 教会アルバム

2014年02月13日

朝日牧師の書評

「本のひろば」3月号に朝日牧師の書評が掲載されました。

本のひろば3月号の表紙

本のひろば3月号の書評p22

本のひろば3月号の書評p23
posted by 行人坂教会 at 14:07 | 教会からのお知らせ

2014年02月11日

2月第3主日礼拝

       2月16日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”小さい人が真ん中に” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 18章1節〜5節(p.34)
賛 美 歌  27、153、490、269、202、28
交読詩篇  119編129〜136節(p.142)

創立110周年記念チャペルコンサート   正午〜午後1時     礼拝堂
 合唱:明治学院高校ハイグリー部(指揮:岡田章)、入場無料

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 14:18 | 毎週の礼拝案内