2014年02月20日

大好きなゴジラ

1.ヌイグルミ

小学生時代、私が将来に夢描いていたのは、怪獣のヌイグルミに入って演技をするスーツアクターに成ることでした。ゴジラの中に入っていた中島春雄こそが、私のヒーローだったのです。『地球攻撃命令/ゴジラ対ガイガン』(1972年)を最後に、中島はスーツアクターを引退したのですが、時を同じくして、私の「怪獣熱」も急速に冷めて行きました。西部劇やオカルト映画、クンフー映画にシフトして行ったのです。

そんなこんなで、「ガイガン」に続く『ゴジラ対メガロ』(1973年)に至っては、結婚して子どもたちが生まれ、彼らと一緒にビデオで鑑賞したのが最初だったのです。その空白期間たるや、何と30年に及びます。その「メガロ」には、スーパーロボットのジェットジャガーが登場、ゴジラとタッグを組んで、ガイガン+メガロのヒール(悪役)と対決するのです。所謂「怪獣プロレス」です。これには、当時、保育園児だった長男が噴き出して、ケラケラ笑い出す始末でした。映画の最後に、小学生の男の子がロボットの奮戦振りに、「ジェットジャガー、良かったぞぉ!」とエールを送るのですが(もろ、子ども向け!)、それを二男は口真似して、何度も繰り返していました。

その傍らで、私は冷や汗を流していたのです。ああ、少年時代に観なくて良かった。あの時、もしも劇場に足を運んで観ていたら、恥ずかしさの余りに、怪獣映画ファンだったことも後悔して、永遠に魂の奥底に封印してしまい、無かったことにしていたかも知れません。年齢を重ねて、余裕をもって鑑賞できたことを、神に感謝したものです。

近年公開された、ギレルモ・デル・トロの『パシフィック・リム』(2013年)は、怪獣と対決するロボットの話です。『パシフィック・リム』は、『ゴジラ』シリーズ初期の監督、本多猪四郎と「ダイナメーション」のレイ・ハリーハウゼンに捧げられています(献呈の辞が出て来ます)。けれども、実際には(公開から丁度40年の歳月を経た)『ゴジラ対メガロ』のラインではないかと、私は心密かに考えているのです。

2.窓の外に眼

「怪獣熱」は冷めてしまった私ですが、決して「怪獣魂」までは失われてはいませんでした。その後、悪魔主義、猟奇趣味が高じて、挙句に裏返って、キリスト教の牧師になってしまったくらいですから、何がどのように作用するのか、人生は全くの謎です。

私くらいの年季になると、昔の『ゴジラ』(1954年)を観ても、『ガメラ3/邪神覚醒』(1999年)を観ても、『グエムル/漢江の怪物』(2006年)を観ても、『第9地区』(2009年)を観ても、キリストの御足の跡を見ることが出来るのです。まあ、これは殆ど「妄想」と言っても構いません。

例えば、コルコバードのキリスト像が『巨人ゴーレム』や『大魔神』よろしく、突然、歩き始めて、山を下りて行き(勿論、両手を開いたままです)、オリンピックの準備未だ整わぬリオデジャネイロを破壊して回るような、そんな怪獣映画を想像してしまうのです。あのキリストは身長が39.6メートル、両手の長さが左右30メートルですから、建物を破壊するにも余り大き過ぎず、リアリティが保たれると思うのです。

そう言えば、ハリウッドで製作され、今や完成間近の『ゴジラ』の新作は、何でもゴジラの図体が「地球規模の大きさに成る」とも噂されていて、予告編を見ながら、正直、私は心配でなりませんでした。渡辺謙やジュリエット・ビノッシュ、懐かしの宝田明まで引っ張り出しているようですが、余りスケール(尺度)が大きくなり過ぎると、人間の感覚は現実感を失ってしまい、コミカルに感じるようになるのです。

昨年、アニメがヒットした『進撃の巨人』の場合なども、50メートル級の超大型巨人は別にして、通常が3〜15メートルとされていました。この設定が怖いのです。2階、3階の窓から怪物の眼球が覗いている怖さなのです。『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が語っていたように、少年時代に『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』(1965年)や『フランケンシュタインの怪獣/サンダ対ガイラ』(1966年)を見て感じたという、身長20メートル前後の怖さというものがあるのです。

3.モンスター

誰しも「鬼」と言えば、虎縞の腰巻を着けた角の生えた大男を想像するでしょう。けれども、そのように図像化される以前、「鬼」は「死霊、死者の魂魄」を意味していました。つまり、見えないものだったのです。同じように「怪獣、怪物」を意味する「モンスター」の語源は「モーンストルム/monstrum」、この語の第一義は「戒め、警告、予兆」なのです。つまり、モンスターもまた、目には見えないものだったのです。目には見えないものの徴や兆しを、別の何かに認めることで、古来、人間は危険を回避して来たのです。

そのように考えると、怪獣映画において、怪獣たちの全体像が中々画面に現われないのも道理かも知れません。姿を現わした瞬間、図像化されてしまった瞬間に、対象化されたそれは、もはや不気味な「モンスター」では無くなってしまうのです。丁度、ローランド・エメリッヒ版の『GODZILLA』(1998年)が「大きなウミイグアナ」でしかなかったというマヌケな展開で、観客の失笑を買ったパターンです。

見えないからこそ、私たちは恐怖と不安を抱くのです。見えてしまったら、実は何も怖くないのかも知れません。つまり、私たち、人類は偶像を刻み、絵に描くことによって、神々や仏、鬼や怪物、悪魔なども対象化して来たのです。要するに、怖いものでは無くして来たのです。その意味では、アッラーの神を描くことを一切禁じているムスリムが、もしかしたら、その辺りの極意を一番心得ているのかも知れません。

牧師 朝日研一朗

【2014年3月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 11:23 | ┣会報巻頭言など