2014年03月31日

目と耳、そして、心【マタイ13:10〜17】

聖句「彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。私は彼らを癒さない。」(13:15)

1.《探し物は何》自分の眼鏡や入れ歯、小銭入れ等、いつも使っているのに、どこに置いたのか見付からなくなることがあります。それを家族がいとも簡単に見付けたりすると、すっかり自信喪失します。しかし、使っている本人にとっては自分の身に付けている物ですから、却って見付けにくいのです。私たちが目にしている光景は、自身の記憶や意識に頼って再構成された世界なのです。

2.《心が捉える》私たちの目は、カメラレンズのような「機械の目」ではなく、「心の目」なので、現実とはズレが生じるのです。つまり、その時々の健康状態や精神状態、疲れや気分などに影響を受けるのです。逆を言えば、私たちの目や耳は外の情報を何でも取り入れているのではなく、関心のある事柄に焦点を合わせているのです。現実の世界の中から、今の自分にとって必要と思われる情報だけを、無意識のうちに採り出しているのです。私たちの目や耳の働きは、私たちの心の働きと直結しているのです。

3.《心に入って》イエスさまは数多くの譬え話をなさいました。「罪の赦し」等と言っても分かりませんが、ストーリーならば、「迷子の羊さん」ならば、子どもにも分かります。また、イエスさまの譬え話には生活感があります。それは、主が、百姓や漁師、徴税人や娼婦、主婦といった目の前にいる人たちに向かって語り掛けていたからです。ここには聞き手の問題もあります。幾ら聖書のメッセージに触れても、それを他人に向けられたものとして受け止めている限り、自分のものにはなりません。イエスさまが問題にされているのは、視覚や聴覚ではなくて、何かを感じ取る私たちの「心の働き」なのです。弟子たちも特別な修行を要求されたことはありませんでした。色々な人に出会って、感じ取って、少しずつ成長して行く心を、私たちに求められているのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:36 | 毎週の講壇から

2014年03月26日

羊たちの沈黙

1.卒業の季節

「卒業」と聞いたら、空港のエスカレーターを昇るダスティン・ホフマンの佇まいに、サイモン&ガーファンクルの歌う「サウンド・オブ・サイレンス」が被さるという、私も古い世代に属しています。思わず鶴田浩二の「こんなことを申し上げる私も/やっぱり古い人間でござんしょうかね」という苦笑いの台詞が浮かびます。ところで、「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞が「ヨブ記」4章12節以下から採られているという(旧約聖書学の大家)浅野順一先生の珍説、ご存知ですか。

それからまた、「卒業」と聞いたら、尾崎豊の「これからは何が俺を縛りつけるのだろう/あと何度自分自身を卒業すれば/本当の自分にたどり着けるのだろう」という、狼の遠吠えのような絶叫を思い出してしまう、私もおります。あれには今思い出しても、胸を掻き毟られるような悲痛さがありました。いずれも大昔の「卒業」です。

アメリカン・ニューシネマの代表作、『卒業』(The Graduate)が1967年、日本の公開が1968年、リバイバルが1971年でした。尾崎豊の荒ぶる名曲、『卒業』リリースは1985年、シングルCD化が1989年、再リリースが1999年でした。いずれの「卒業」にも既成の良識や価値観への異議申し立てが込められていたのですが、昨今、そういう反逆めいたものは、本当に流行らなくなりましたね。

2.卒業ソング

それどころか、昨今は「卒業ソング」と呼ばれるジャンルが、日本の音楽業界の中に厳然と確立していて、それが『仰げば尊し』や『蛍の光』等と共に、そのまま卒業式で使用されて、感動の再生産がされる時代になりました。

それでは、具体的に挙げてみましょう。改めて調べてみると、「卒業ソング」のジャンルが確立して、意識的なセールスが始まったのは、2000年前後からでした。kiroroの『未来へ』(1998年)、アクアマリンの『COSMOS』(1999年)、森山直太朗(森山良子の息子)の『さくら』(2003年)、レミオロメンの『3月9日』(2004年)、ゆずの『栄光への架橋』(2004年)、コブクロの『桜』(2005年)、奥華子の『ガーネット』(2006年)、川嶋あいの『旅立ちの日に…』(2006年)、アンジェラ・アキの『手紙〜拝啓 十五の君へ〜』(2008年)、いきものがかりの『YELL(エール)』(2009年)、AKB48の『桜の栞』(2010年)…。

いずれ劣らぬ名曲です。実際、混声二部合唱曲とかに編曲されて、卒業式に歌われているのです。「来賓の方々」「ご家族の方々」も、うっとりとして耳傾けることの出来る作品に仕上がっています。アンジェラ・アキの『手紙』は2008年の、いきものがかりの『YELL(エール)』は2009年の、NHK全国学校音楽コンクール中学生の部の課題曲です。出会いと別れの哀歓を上手に謳い上げていますし、地味だけど頑張っている人への応援歌であったりもします。

とにかく、若者自身をも含む、広い世代の支持を受けて「卒業ソング」が売れているのです。けれども、どれもこれも「お利口さん」な歌ばかりで、悶死した尾崎豊のように、誰彼構わず牙を剥いて噛み付くような歌は、今や全く聴かれなくなってしまっているのです。いや、探せばあるのでしょう。しかし、少なくとも音楽業界メジャーからは駆逐されて、多分、アンダーグラウンドに追いやられてしまっているようなのです。そこに、私は、消費経済と権威主義との癒着を思わせる、一種の不健全さを感じないではいられません。

3.卒業式の罠

我が家の息子兄弟も、最近、それぞれに中学校と小学校を卒業しました。長男の卒業式には出られなかったのですが、二男の卒業式には出席しました。『君が代』の時には起立して、自作の替え歌を(裏声で)披露しました。歌詞の内容は『スター・ウォーズ』です。「おらがヨーダ/小さいけれども/強い騎士だ/ジェダイ・マスター/May the Force be with you(フォースと共にあらんことを)/ウーウウゥー」。

冗談はさて置き、卒業式は「東日本大震災の犠牲者を思っての1分間の黙祷」で始まりました。悪いことではありませんから、一応、私も真面目に黙祷を奉げたのですが、終わった瞬間に、一体、自分は誰のことを思っていたのだろうかと、違和感を抱かざるを得ませんでした。「東日本大震災の被災者」というカテゴリーが、余りにも十把一絡げです。そこに、何だか、政府主催の「全国戦没者追悼式」や靖國参拝と似た雰囲気があったのです。

校長が卒業生の門出を祝しての式辞の中で、「日本国の、大震災の復興は、君たちの双肩に掛かっている」と熱く語っていました。それも「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という訓示を思い出させるものでした。今の大人が責任を丸投げにして、未来に「負の遺産」(放射能とか財政赤字とか)を押し付けようとしているかの如くです。

「日本のために」「日本の将来のために」と、過度に「日本」が強調されていたようにも思いました。二男の同級生は国際色豊かで、私の知る限りでも、50名中5名の「ハーフ&ハーフ」(ロシア系、米国系、韓国系、中国系、スペイン系)がいるのに…。ナショナリズムの鼓舞は全く不要に思われました。

オーテス・ケーリの『真珠湾収容所の捕虜たち』(ちくま文庫)という本の中に、こんな件(くだり)があります。ケーリさんが、ある留学希望の学生に志望理由を英文で書かせた時の話です(内容から見て、1950年の文章)。「『日本のために』ということが書いてあった。なぜ『世界人類のため』と書けないのだろうか。私が、いつもゴツンと来るところだ」。

日本社会は今や、近視眼的に国粋化しつつあります。そして、尾崎豊の言う「縛られたかよわき子羊」は、何も深く考えることもないまま、それを自然に受け入れているのです。

牧師 朝日研一朗

【2014年4月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 06:23 | ┣会報巻頭言など

2014年03月25日

行人坂教会庭の杏の木

今年も中庭にある杏の木に花が咲きました。



杏の木

杏の木に花

posted by 行人坂教会 at 18:28 | 教会アルバム

3月第5主日礼拝(レント第4主日)

       3月30日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”目と耳、そして、心” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 13章10節〜17節(p.24)
賛 美 歌  27、455、490、196、462、29
交読詩篇  102編1〜15節(p.114)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 08:20 | 毎週の礼拝案内

2014年03月24日

燻し銀の魅力【ヘブライ 12:4〜13】

聖句「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に…」(12:11)

1.《燻し銀》 若い頃、フランスのフィルム・ノワール(暗黒街映画)に魅了された時代がありました。特に、親分役やメグレ警部役のジャン・ギャバンの風格には参りました。そんなギャバンを「燻し銀の魅力」と、池波正太郎が書いているのを読んで、初めて、その言葉を知りました。スマートではないけれども、一度見たら忘れられないような独特の味わいがあるのです。

2.《燻製品》 友人に、燻製作りを趣味にする牧師がいます。今では、燻製器とスモークウッドを使えばお手軽に燻製が作れるのです。さすがにベーコン作りは下ごしらえが大変ですが、塩鯖や干物、プロセスチーズ、ゆで卵などのスモークは簡単に出来るのです。日本にも鰹節やいぶり漬けの伝統があります。燻すことで保存性が高くなり、独特の風味が付くのです。このことは、私たちの信仰にも適用できます。1つは「長続きする信仰」です。入信にも少し手間がかかるかも知れません。また、その教会生活も新鮮味が薄いかも知れません。けれども、ゆったりとした気持ちで、長く続けられるのが良いのです。

3.《味わい》 煙によって食品は燻製になりますが、銀は燻し銀に変わります。空気中の硫化水素や温泉の硫黄により、銀表面が硫化銀に覆われるのです。ピカピカ光る安っぽい銀ラメよりも、くすんだ銀の方が渋くて味わいがあるという美意識も存在するのです。周囲に見せびらかしたり、相手の都合を無視してアピールしたりしないのが「渋くて味わいのある信仰」です。ギリシア語の意味から「鍛錬」は「親子」関係、「精錬」は「吟味」と繋がります。いずれも錬り上げられて純化するのです。練り上げる炎は苦しみと悲しみです。苦しみに遭うのに、信仰者も不信者も変わりありません。従って「純化」「聖化」はキリスト者の特権ではありません。しかし、その時、苦しみ悲しみによって、余計な物が削ぎ落とされ、イエスさまの十字架が明らかに見えて来るはずです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:12 | 毎週の講壇から

天国の鍵

小学生の頃、近所に「金田」という在日コリアンのジャンク屋がありました。妹がその家の娘と仲良しだったものですから、私も割り込むようになり、やがて、悪童の友人たちと一緒に、広大な敷地の中、無造作に積み上げられた廃車の山を、車から車へと飛び移って遊ぶようになりました。

今から思えば危険極まりないのですが、不思議と廃車に押し潰されて死んだ子はいませんでした。ところが、しばらくして、テレビの映画番組で『007/ゴールドフィンガー』を観たのです。その中に、ジェームズ・ボンドが廃車に閉じ込められたままプレスされそうになる恐ろしいシーンがありました。しかも、ハロルド坂田演じる「オッド・ジョブ/よろず屋」という殺し屋は、実は朝鮮人という設定です。それ以来、何となくジャンク屋には寄り付かなくなってしまったのでした。それはともかく、廃車の山の中から、私たちが競い合って集めていた物があるのです。それは、自動車のイグニッションキーでした。それで、私たちは自分らを「キイハンター」と呼んでいました。

集め始めてみると、時折、珍しい自動車のキーが出て来るのです。例えば、アメ車のキーがあったりしたら、もう絶叫ものです。あるいは、銀色の頭蓋骨とか親指マリリン・モンローとかの面白いキーホルダーが付けられた物もあったのです。それを持ち帰って、高砂屋のお菓子の空き缶の中に溜め込んでいた訳です。

伝統的な日本家屋で育った者にとって、鍵は憧れの的でした。何しろ、和風建築というのは、障子と襖を全て取り払ったら、前庭から中庭まで、風が吹き抜けて通る構造です。その点、鍵は個室のシンボルです。自分だけの世界を作り出すことが出来るのです。必死になって、自動車のイグニッションキー等を収集したのは、「自分だけの世界を持ちたい」という願望の表われだったのでしょう。

教会の牧師になって良かったことの一つに、沢山の鍵をお預かりする喜びがあります。単に建物の管理人と言ってしまえばそれまでです。けれども、建物の開け閉めをするということは、それだけの責任を委ねられているのですから、最初にお預かりした時には、身の引き締まる思いがしたものです。

キリスト教会は使徒ペトロを祖としています。そして、イエスさまはペトロに「天国の鍵」を託されました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。…わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは、天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイによる福音書一六章一八〜一九節)。

そこで、ローマカトリック教会は、ペトロを初代教皇とし、教皇の紋章にも交差する「鍵」がデザインされています。しかし、考えてみると、「鍵」は独占と孤絶のシンボルでもあります。カトリックはともかく、プロテンタント教会はそれで良いのでしょうか。

【会報「行人坂」No.248 2014年3月発行より】

posted by 行人坂教会 at 18:09 | ┣会報巻頭言など

2014年03月23日

キリスト教こんにゃく問答]W「煉獄と地獄」

1.地獄篇

昨年でしたか、『地獄』(千葉県安房郡三芳村延命寺所蔵、白仁成昭・中村真男構成、宮次男監修、風濤社)という絵本がリバイバルヒットしました。30年前に出た絵本の復刻です。死んだ五平が生き返り、見て来た地獄の恐ろしさを語り、皆に「命を粗末にするな」「悪事を働くな」と言って聞かせる、些か説教臭い筋立てになっています。

因みに、この「地獄絵図」を所蔵する延命寺(南房総市)は、『南総里見八犬伝』のモデルとなった里見家の菩提寺だそうです。曹洞宗のお寺です。1784年(天明四年)に、江府宗庵という絵師が「地獄極楽絵図」を製作したそうです。

「天明」年間と言えば、「天明の大飢饉」(1782〜88年)です。岩木山、浅間山の相次ぐ噴火が冷害をもたらしたとされています。最近では、地球規模の視点で、アイスランドのラキ火山、グリムスヴォトン火山の噴火によって発生した塵が成層圏に達し、北半球の低温化をもたらしたことも言われるようになりました。フランス革命の原因の一つとも言われますが、この「天明の大飢饉」によって、日本では、東北地方を中心に推定2万人が餓死したと言われています。つまり、この絵巻物の地獄のリアルな描写は「大飢饉」の現実を反映したものだったのです。

三浦哲郎の『おろおろ草紙』(講談社)は、私が最も強く影響を受けた本の一冊ですが、ここには「天明の大飢饉」の際、南部藩で頻発した人肉食事件の顛末が詳しく描かれています。これには、幼少期からホラー一筋に歩んで来た私の血ですら凍りついたものです。親が子の肉を喰らい、子が親の肉を喰らいます。最後には「脳味噌の塩辛」を漬け込んでいた鬼婆まで登場します。

安房延命寺の「地獄絵図」に描かれている「なます地獄」「火あぶり地獄」「釜ゆで地獄」「針地獄」を見ていると、鬼たちが亡者たちを切り刻んでお膾(なます)にしたり、釜あげうどんにしたりしています。側では、亡者たちの体をムシャムシャ食べている鬼もいます。そして「塩辛」の樽も控えています。間違いなく「天明の大飢饉」が反映されているのです。

京都、東京、奈良の国立博物館には、有名な「餓鬼草紙」や「地獄草紙」が展示されていますが、本来は独立した絵図ではなく、12世紀に確立した「変相図」とか「六道図」といった仏教絵図の一つなのです。しかし、近世の「地獄絵図」は明らかに、現世を描いているのです。丸木位里・丸木俊夫妻の「原爆の図」「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」等も、その系譜上にあるのではないでしょうか。

2.煉獄篇

生き返った五平の「地獄レポート」と同じような話が、新約聖書に載っています。「ルカによる福音書」16章19〜31節「金持ちとラザロ」の話です。死後、貧乏人のラザロは天に召されますが、反対に贅沢三昧の生活を送った金持ちは「陰府」で「炎の中で悶え苦しめ」られるのです。金持ちは、自分が貧乏人のラザロを憐れむこともなく、「遊び暮らしていた」ことを悔いて、アブラハムに言います。「未だ世に残っている兄弟たちに、何とか死後の世界のことを伝えてやりたい。そうすれば耳を傾けるでしょう」。ところが、アブラハムは冷淡に言い放ちます。「律法と預言者(聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者から復活する者があっても、言うことを聞かないだろう」。

お話の発端は五平の話と似ていますが、結論が全く逆になっています。どんなに「地獄が恐ろしい」と脅しても、「死後の世界」や「来世」を説いても、そんなことで人間は悔い改めたりはしないのです。五平がお地蔵様(地蔵菩薩)の執り成しで、現世に生きて帰れたのと違って、金持ちが生き返ることは出来ません。それどころか、金持ちの度重なる懇願にもかかわらず、遺族への警告すら「やるだけ無駄」とばかりに拒絶されてしまいます。何という冷徹さでしょうか。

さて、この聖書のエピソードから「アブラハムの懐」(the bosom of Abraham)という慣用句が生まれました。貧乏人ラザロが死んだ後、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と書いてありますが、「すぐそば」を、英語の「欽定訳/King James Version」や「現代英語版/Today’s English Version/Good News Bible」等が「アブラハムの懐」と訳しているのです。

現代では「アブラハムの懐」は「天国」と受け止められています。ところが、どういう訳か、中世には「アブラハムの懐」と言ったら「煉獄」を意味していたそうです。中世の人たちが聖書本文を読んでいないことが丸分かりですね。

さて、問題は「煉獄」です。プロテンタントの教理では完全に否定されていますが、カトリック教会では今でも信じられています。ラテン語で「Purgatorium/プールガートーリウム」と言いますが、罪の償いを果たすまで、霊魂が苦しみを受け、それによって浄化される場所を言います。「プールゴー/purgo/贖罪する」という動詞は、元々「洗浄する、掃除する」という意味ですから、私は「人間洗濯機」と呼んでいます。「天国の待合室」と言った人もいます。

そのまま「地獄流し」(『ゲゲゲの鬼太郎』か、はたまた『地獄少女』か)になるような極悪人ではなくて、小さな罪を悔い改め切れていない普通の人が行く所なのです。例えば、臨終の床で罪を告白して悔い改めたものの、地上において悔い改めの業を為し得ないので、「煉獄」に行って「浄罪の火によって清められる」(アレクサンドリアのクレメンス)と言われています。オリゲネス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス等も「煉獄」の存在(有用性)を認めています。しかしながら、プロテスタント教会は、信仰によってのみ(Sola fide)救われる「信仰義認」ですので、当然「煉獄」の教義は否定されたのです。

カトリックの教義によれば、あの金持ちが「陰府」の「炎の中で悶え苦しんで」いるのは「煉獄」の「浄罪の火によって清められ」ていることになります。すると、やがては彼も「天国」に迎え入れられるということになる訳です。

3.陰府篇

日本では最近、仏教の門徒や神道の氏子の葬儀なのに、弔辞で「天国の誰某さん!」と呼びかけている人がいます。本当は、仏教にも神道にも「天国」はありません。しかし、驚くなかれ、旧約聖書の信仰にも、「地獄」「煉獄」はもとより「天国」すらも存在しませんでした。あるのは「陰府/シェオル」だけです。日本の記紀神話の「黄泉」と同じく地下世界(アンダーワールド)のことです。

「陰府」には、後の「地獄」や「煉獄」に通じるような刑罰的な要素は全くありません。義人も悪人も死ねば等しく「陰府」に行きます。「滅び」「墓穴」「暗黒の寝床」「希望のない世界」「塵の上の横臥」「地の深き所」等と表現されるばかりです。

ところが、後期ユダヤ教に「地獄/ゲヘナ」が登場するのです。「ゲ・ヒンノム/ヒンノムの谷」が転訛したものです。エルサレムの郊外「ヒンノムの谷」では、自分の子どもを燔祭に奉げるというような異教の人身御供が行なわれていたそうです。それを目撃した人は、まさしく「地獄だ」と思ったはずです。またしても「地獄」は現実の反映だったのです。

そして「天国」が出て来るのも、後期ユダヤ教の終末論の中からなのです。(つづく)


【会報「行人坂」No.248 2014年3月発行より】

posted by 行人坂教会 at 17:13 | ┗こんにゃく問答

2014年03月18日

3月第4主日礼拝(レント第3主日)

       3月23日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”燻し銀の魅力” 音楽        朝日研一朗牧師
聖  書  ヘブライ人への手紙 12章4節〜13節(p.417)
賛 美 歌  27、455、490、309、528、29
交読詩篇  102編1〜15節(p.114)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 17:18 | 毎週の礼拝案内

2014年03月17日

病人を真ん中に【マルコ3:1〜6】

聖句「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。」(3:3)

1.《誰が真ん中》 3人で写真を撮ったら、真ん中の人が早死にするという迷信がありました。上座のように真ん中に年配の人を招いた結果です。欧州の街には、真ん中に広場があり、市民の憩いの場であり、時にはデモ等の集会にも利用されます。広場に面して大聖堂や教会もあります。残念ながら、日本の都市には市民のための広場が存在しません。広場の存在は、誰が町の中心、主役であるかという事を示しているのです。

2.《体の灯し火》 女優の真中瞳が芸名を東風万智子に変えました。黒木瞳と並ぶ絶妙な芸名でしたのに残念です。実際、幼児の認識の始まりは「顔」であり、次が「目」です。顔の中心は目、まさしく「真ん中に瞳」なのです。中東では、古代からアイシャドーが用いられていました。美醜の基準も目の大小が決定したくらいです。それ故に、聖書では「目」が大切にされています。イエスさまも「体の灯し火は目である」と教えています。それが無くなってしまったら、光が失われるのです。体の器官としては最も傷付き易く弱い部分ですが、それが無くなったら真っ暗闇、それが「目」に託された意味です。

3.《皆が真ん中》 イエスさまが「体」と仰る時、それは「教会」や「社会」を意味します。それでは、誰が「目」の役割を果たしているでしょう。傷付き易くて弱々しいのですが、それが失われたら、この世は闇なのです。子どもや女性、病人や障碍者、異邦人、寡婦と孤児、差別されている人に光を当てられます。社会で脚光を浴びている人ではなく、どちらかと言えば、「日陰」にいる人を真ん中に連れ出されるのが、イエスさまのお考えのようです。しかし、特別扱いなさるのではなく、一人一人が誰もが皆、真ん中にされて「瞳のように守られる」世界を作ろうとなさっていたのです。愛された者が「真ん中」に立たせられるのです。キリストの愛を知る人は誰でも「真ん中」にいるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:25 | 毎週の講壇から

2014年03月16日

2014レント〜イースター案内

2014年のレント〜イースター案内のパンフレットです。


レント〜イースター案内のパンフレットの表紙

朝日牧師メッセージ「移動する復活の命」

レント〜イースターの諸行事スケジュール

posted by 行人坂教会 at 20:23 | 教会からのお知らせ