2014年03月11日

3月第3主日礼拝(レント第2主日)

       3月16日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”病人を真ん中に”   音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  マルコによる福音書 3章1節〜6節(p.65)
賛 美 歌  27、455、490、294、311、29
交読詩篇  102編1〜15節(p.114)

賛美歌練習 (4月の月歌:450番)  礼拝後   於 礼拝堂
あいさつの会(相互交流の会)      賛美歌練習後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール

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2014年03月10日

灰と塵の間に【ヨブ記 42:1〜6】

聖句「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それ故、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:5,6)

1.《三回忌》 東日本大震災から3周年を迎えます。「3.11」前後には、全国で記念行事が粛々と執り行なわれ、マスコミは真面目な報道をするでしょう。この震災は、私たちの在り方に対して色々な問題提起をしています。しかしながら、その課題に応えることないままに、「三回忌」を「弔い上げ」とするように、3周年を機に、蓋がされていくのではないかと、私は危惧します。

2.《不条理》 鹿野融完住職(横浜の徳恩寺)の被災地での活動を、作家の荻野アンナがエッセイに綴っていました。その中に「人がいつか死ぬのは条理、突然の災害による死は不条理。条理と不条理に、共に向き合う心構え」という言葉がありました。しかし、死因が何であるかによらず、愛する者の死こそが不条理なのです。人間にとって愛する者の死は受け入れ難いのです。それでも、そんな不条理極まりない愛する者の死もまた、条理として受け止めることが出来るように、私たちには信仰が与えられているのです。勿論、弱い人間ですから「なぜ?」という問いを発し、不条理に苦しまなくてはなりません。その条理と不条理、両方に「向き合う」ことこそが、私たちに相応しい生き方なのです。

3.《塵と灰》 条理と不条理との間にあって、苦しみ悩む人間の姿を描いているのが「ヨブ記」です。「結び」の大団円は「ヨブ記」の下敷きに成った民話「ヨブ物語」のハッピーエンドで、本文の結末ではありません。サタンは「人間の信仰など所詮、御利益信仰だ!」と言い、友人たちは「因果応報」「神の絶対義」の教条主義から、苦難のヨブに回心を迫ります。元通りの幸せが「ヨブ記」の答ではありません。むしろ、問い続けて行くことが信仰であり、人生であることを、この結末は教えているのです。勿論、人間からの一方的な問いに終始するものではありません。私たちは神さまからも問われるのです。

朝日研一朗牧師

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2014年03月04日

3月第2主日礼拝(レント第1主日)

       3月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”塵と灰との間に” 音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  ヨブ記 42章1節〜6節(p.832)
賛 美 歌  27、455、490、297、518、29
交読詩篇  102編1〜15節(p.114)

・温故知新映画会      昼食後(約1時間)     礼拝堂
映画:『葉山のおぢいちゃん全快の日』『土曜日の一周年』
講師:佐藤 洋(早稲田大学/映画史)、証言:武田由利子、前田利雄

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2014年03月03日

主の道は平らかで広い【マタイ3:1〜12】

聖句「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ。』」(3:3)

1.《直線の欺瞞》 北海道時代、アイヌ民族出身の国会議員、萱野茂の勉強会に出ました。「美瑛の丘陵地帯の美しいパッチワークのような風景は、豊かな森を伐採した残骸だ」と教えられました。確かに自然の中に直線は存在しません。直線は人工的な開発の結果です。アフリカの国境線が直線なのは、欧州の植民者たちの搾取の跡、北米や豪州の州境の直線も、真っ直ぐなハイウェイも、先住民族からの簒奪の爪痕を物語っているのです。

2.《運命の逆転》 洗礼者ヨハネの登場は「イザヤ書」の預言成就として描かれています。引用の「道筋を真っ直ぐに」ですが、ヘブル語原典では「真っ直ぐ」と共に「平らかに」の意味もあります。それで「新共同訳」の「イザヤ書」は「広い道を通せ」と訳しています。洗礼者ヨハネ自身は「義の道を示した」「偉大な人」ですから「真っ直ぐ」がお似合いです。しかし、イエスさまは「天国では、より小さい人がヨハネよりも大きい」と謎めいたことを仰います。隣人が見捨てた者を敵が救ったり(サマリア人の譬え)、義人ではなく罪人が義とされたり(ファリサイ派の人と徴税人の譬え)、順列が逆転し、枠組みが外れ、境界線が破れる時、そこに、イエスさまは天国の訪れを示されるのです。

3.《平らで広い》 洗礼者ヨハネの説教は「脅迫」です。恐怖と罪悪感と脅しの3点セットを使っています。現代社会では、このような説教をすることは許されません。「火の洗礼」をもって罪人を焼き払われるメシア像は、飽く迄もヨハネの思い抱いたもので、私たちの信じる十字架のイエスではありません。やはり「真っ直ぐな人」には限界があります。危機感を煽るのは、人を操るのに即効性がありますが、真に世の中を変えることは出来ません。むしろ、私たちは「1人の百歩よりも百人の1歩」(平良修牧師)を目指して参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:15 | 毎週の講壇から