2014年03月10日

灰と塵の間に【ヨブ記 42:1〜6】

聖句「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それ故、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:5,6)

1.《三回忌》 東日本大震災から3周年を迎えます。「3.11」前後には、全国で記念行事が粛々と執り行なわれ、マスコミは真面目な報道をするでしょう。この震災は、私たちの在り方に対して色々な問題提起をしています。しかしながら、その課題に応えることないままに、「三回忌」を「弔い上げ」とするように、3周年を機に、蓋がされていくのではないかと、私は危惧します。

2.《不条理》 鹿野融完住職(横浜の徳恩寺)の被災地での活動を、作家の荻野アンナがエッセイに綴っていました。その中に「人がいつか死ぬのは条理、突然の災害による死は不条理。条理と不条理に、共に向き合う心構え」という言葉がありました。しかし、死因が何であるかによらず、愛する者の死こそが不条理なのです。人間にとって愛する者の死は受け入れ難いのです。それでも、そんな不条理極まりない愛する者の死もまた、条理として受け止めることが出来るように、私たちには信仰が与えられているのです。勿論、弱い人間ですから「なぜ?」という問いを発し、不条理に苦しまなくてはなりません。その条理と不条理、両方に「向き合う」ことこそが、私たちに相応しい生き方なのです。

3.《塵と灰》 条理と不条理との間にあって、苦しみ悩む人間の姿を描いているのが「ヨブ記」です。「結び」の大団円は「ヨブ記」の下敷きに成った民話「ヨブ物語」のハッピーエンドで、本文の結末ではありません。サタンは「人間の信仰など所詮、御利益信仰だ!」と言い、友人たちは「因果応報」「神の絶対義」の教条主義から、苦難のヨブに回心を迫ります。元通りの幸せが「ヨブ記」の答ではありません。むしろ、問い続けて行くことが信仰であり、人生であることを、この結末は教えているのです。勿論、人間からの一方的な問いに終始するものではありません。私たちは神さまからも問われるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:23 | 毎週の講壇から