2014年04月29日

5月第1主日礼拝

       5月 4日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”案内人の道知らず” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 6章37節〜42節(p.113)
賛 美 歌  27、338、490、529、506、78、89
交読詩篇  139編13〜24節(p.157)

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2014年04月28日

種蒔く労苦、刈り入れの喜び【ヨハネ4:31〜38】

聖句「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りに与っている。」(4:38)

1.《パンと人生》 大正時代のベストセラー『貧乏物語』の中で、河上肇は「人はパンのみにて生きるに非ず。されど又パン無くして生くるに非ず」と喝破し、これは当時の流行語となりました。内村鑑三に私淑していた河上がマルクス主義に転向したのは、イエスさまの御言葉に「武士は食わねど高楊枝」、辛抱と忍耐としてしか対応できなかった、当時のキリスト教界に限界を感じたからかも知れません。しかし、いずれも一面的な受け止め方です。

2.《種蒔く労苦》 聖書も、イエスさまの言葉も誤解されることが多いのです。敢えて誤解と混乱を引き起こして、私たちを悩ませようとしているかのようです。特に「ヨハネによる福音書」の主の御言葉を見ると、周りの人たちは何も理解できず、弟子たちは困惑するばかり、頓珍漢な会話が続きます。食事を持って来てくれた弟子に、「私にはあなたがたの知らない食べ物がある」等と仰います。神の御心を「成し遂げること」が「食べ物」だと説明されていて、それは十字架上の最期の御言葉「成し遂げたり」に通じます。御自らの命を差し出そうとされているらしいのですが、余りの飛躍に付いて行けません。

3.《収穫の喜び》 パレスチナでは、雨季の11月中旬に大麦、12月中旬に小麦とスペルタ麦を蒔きました。4月中旬から大麦の刈り入れ、5月初めに小麦とスペルタ麦の刈り入れでした。種蒔きと刈り入れとの間には5ヶ月間の、成長を待つ期間があります。しかし、この譬え話では、蒔く人と刈る人とが別人です。イエスさま自身が一粒の麦となって死ぬことで、私たちに命を与えてくださったのです。更には、宣教者フィリポが開拓したサマリア教会を、「ヨハネ」の教会が受け継いだという背景もあるらしい。私たちも、大勢の先輩たちの信仰に励まされ慰められて今あります。今度は、私たちが種を蒔く番です。

朝日研一朗牧師

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2014年04月23日

丈夫な人に医者は要らない

1.緊急入院

去る4月2日、急性虫垂炎(つまり、盲腸炎)のために緊急入院をしました。最初に駈け込んだ厚生中央病院では「手術が2つも入っているから」という理由を付けられて、入院させて貰えず、そこから日赤医療センターへ救急車で搬送されるという、如何にも大袈裟な展開と相成りました。

翌3日に手術。手術を怖がる人は大勢いますが、盲腸炎は簡単な手術でしょうから、怖くは感じませんでした。いや、それよりも何よりも、痛みが耐え難く、何でも良いから早く切って欲しいというのが、正直な感情でした。全身麻酔は初体験でしたが、昔から、歯医者や外科で部分麻酔は何度も受けていて、あの感覚は大好きなのです。ですから、別段、麻酔の不安もありませんでした。手術室に運ばれて、台の上に寝かされて、麻酔を受けて、そのまま意識を失いました。そして、術後に名前を呼ばれて、目覚めた時にも、さほど不快な気分ではありませんでした。

むしろ、術後の夜こそ、再び痛みとの闘いです。点滴に痛み止めも入れて貰っているのですが堪りません。腕には点滴、尿道にはドレイン(管)が入っており、両脚には静脈血栓塞栓症(エコノミークラス症候群)予防の血流マッサージのバンドが装着してあって、始終、ボッコンボッコンと動いています。風呂屋のマッサージ機は大好きなのですが、こちらは余り楽しくはありません。

翌々日、血流マッサージバンドと尿ドレインを外して貰い、漸く生き返ったような気がしました。トイレに行く時、真っ直ぐ歩いているつもりなのに、実際には、体がフラフラしていたのに驚きました。ドレインのせいで、数日は小便の度に、膀胱に痛みを感じました。

2.院内生活

日赤に搬送されて驚いたのは、その病室が教会のメンバーのHさんが入って居られた部屋だったことです。かつて、お見舞いにお訪ねした部屋に、今度は自分が入院患者の立場で身を置くことになるとは、何か不思議な気持ちでした。

手術を前に、若いナースが下腹部の体毛を剃りに来るとは聞いていました。実際に、その通りだったのですが、残念ながら、痛みで意識が朦朧としていて、恥ずかしいとも嬉しいとも、何の感慨も湧きません。床屋のように、熱いタオルとシャボンとカミソリを期待していたのですが、電気カミソリを使って刈り上げるので、情緒もヘッタクレもありません。こういうのを「散文的」と言うのでしょう。

むしろ、驚いたのは、臍(へそ)のゴマも取ることです。臍の中にオリーブ油を入れて、しばらく漬け込みます。すると、臍のゴマがふやけて取り易くなるそうです。臍の中に指を入れてホジ繰り返され、気持ち悪くて吐きそうでした。

もう一つ、手術して驚いたのは、声が小さくなってしまったことでした。手術後に、妻と子どもたちが見舞いに来てくれたのですが、いつも隣近所にまで響くような大声で怒鳴っている私が、それこそ蚊の鳴くような声で囁いているのを聞き、その姿を見て、哀れに思ったのでしょう、子どもたちはハアハア言って笑い転げていました。

しかも、その事実にすら、自分では全く気付かなくて、妻に指摘されて初めて分かったような次第でした。「病院に入ると、声を奪い取られるのよ」と、妻は魔女のように暗示めいたことを言います。けれども、後から考えると、数日間、点滴だけで、絶食が続いているのですから、当然のことでしょう。

点滴が外れると、男の嗜み(髭剃り)が復活します。普段は毎朝、超特急で行なう髭剃りの儀式ですが、入院中はたっぷり時間をかけて楽しむことが出来ます。ところが、病室の洗面台を占拠して、神妙に髭剃りをしているところ、折悪く、内科部長だか外科部長だかの総回診と重なり、大勢のドクターやインターンに囲まれて、鏡越しに容態を訊かれるというヘンテコな場面が現出してしまいました。

水糊のような重湯が粥に変わり、それに副食が付くようになった時には、美味しくて涙が出ました。やはり、飢えのないところに感謝は生まれません。

3.声の回復

3月31日から始まった、連続テレビ小説『花子とアン』を楽しみにしていたのに、手術の前後、テレビを見ることが出来ませんでした。本格的に鑑賞し始めたのは、やはり退院後でした。

スコット先生が窓辺で歌う「O Waly Waly」は、イングランド南西部サマセット地方に伝わる民謡です。伊原剛志が思わず「美しい歌じゃ」と呟いたように、私たち夫婦も「綺麗な歌」とうっとりしていました。すると、「『讃美歌21』に載っています」と、奏楽者のYさんが教えてくださいました。「讃美歌21」104番「愛する二人は」という結婚式の讃美歌になっていました。勿論、ブライアン・レンによる英語の歌詞(When love is found)は、後から付けられた讃美歌の詞で、スコット先生の歌っていた原詞とは異なります。

因みに、私の持っている英語の讃美歌集「Anglican Hymns Old & New」を調べ直してみたら、アイザック・ウォッツによる詞、フレッド・プラット・グリーンによる詞、ジョン・L・ベルとグレアム・モールによる詞と、3つも入っていました。英語圏で、このメロディーがどんなに愛されているか、よく分かります。

皆さんのお祈りとお励ましに支えられて、4月13日の主日礼拝から復帰して、また、大きな声を出して、讃美歌を歌い、講壇の奉仕に当たることが出来るようになりました。お腹から声が出るようになることこそが、私にとっての「イースター」でありました。

牧師 朝日研一朗

【2014年5月の月報より】

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2014年04月22日

4月第4主日礼拝

       4月27日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”種蒔く労苦、刈り入れの喜び” 音楽 朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 4章31節〜38節(p.170)
賛 美 歌  27、450、490、53、407、523、88
交読詩篇  111編1〜10節(p.129)
任 職 式  新役員の任職

讃美歌練習(5月の月歌:338番)  礼拝後     礼拝堂

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2014年04月21日

信じない者が信じる者に【ヨハネ20:24〜31】

聖句「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」(20:25)

1.《脇腹の傷》 十字架に磔にされたイエスさまが亡くなった後、ローマ兵が死亡確認のために脇腹を槍で刺したことは「ヨハネによる福音書」にしか書いてありません。意外にも「共観福音書」では槍の刺し傷どころか、両手足を釘で打ち抜かれたことすら言いよどんでいるのです。「十字架のキリストを宣べ伝える」と断言したパウロですら「焼き印」等という婉曲表現です。

2.《磔刑の図》 キリスト教美術には、キリストの十字架を描いた「磔刑図」というジャンルがあります。脇腹の傷もお愛想程度のものから、スプラッター映画のように血が噴出しているものまで様々です。中世には「聖杯」や「聖槍」の「聖遺物崇拝」が流行しました。キリストの御血に触れた杯や槍には、病気治癒や永遠の命や世界の支配といった物凄いパワーが秘められていると言うのです。近世プロテスタントは、脇腹から流れ出た「血と水」を「聖餐と洗礼」と教え、近代の聖書解釈は「生きた水が川となって流れ出る」聖霊の譬えとしました。現代においては、主の示された「傷」の方が重要かと思います。

3.《聖なる傷》 復活の姿には、傷も汚れもしみも皺もないというイメージが、私たちにも与えられています。「ルカによる福音書」24章の復活のイエスさまは「私の手や足を見なさい。触ってみなさい」と仰っていますが、そこには傷の描写がありません。しかし、ここでは、復活の主が敢えて御傷を示されるのです。不信仰者の代表のように言われる「疑いのトマス」ですが、彼は「十字架のイエス」を信じていたのではないでしょうか。けれども、信仰は多面的なのです。私たちの未だ知らない信仰の世界もあるのです。本当は、私たちの見たこともない世界が一杯あるのです。それこそが信仰なのです。

朝日研一朗牧師

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2014年04月15日

イースター(復活日)礼拝

       4月20日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”信じない者が信じる者に”  音楽    朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 20章24節〜31節(p.210)
賛 美 歌  27、450、490、329、197、77、88
交読詩篇  111編1〜10節(p.129)

イースター記念写真撮影    礼拝後              礼拝堂
イースター愛餐会       記念撮影後          階下ホール
   企画:「第一編讃美歌を歌おう」
   会費:400円(子ども300円、未就学児無料)

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2014年04月14日

墓穴に向かって叫ぶ【ヨハネ11:38〜44】

聖句「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。」(11:43)

1.《暗闇に叫ぶ》 黒澤明監督の『赤ひげ』の中に「長次の話」があります。服毒して一家心中を図った両親は死んでしまいますが、幼い長次が死に瀕した時、診療所の女たちが庭の井戸の奥底に向かって、彼の霊を呼び戻そうと一斉に叫ぶのです。父親がカトリック信者で、自身も日曜学校出身の山本周五郎は、恐らく「ラザロ」の場面を念頭に置いて、この場面を書いたのではないでしょうか。

2.《憤りと涙と》 普通に考えれば、ラザロが息を吹き返す訳はありません。マルタの「4日も経っていますから、もう臭います」という台詞が、死体のリアリティを私たちに突き付けます。現在の私たちは、葬儀社の人に拭き清められ、ドライアイスや香料や化粧で装われた遺体しか目にすることはありません。しかし、死後4日も経てば、体中の穴から汁も出て来ています。そんな中、イエスさまは「心に憤りを覚え」たと書かれています。人間を捕らえて離さない死の力に対して怒って居られるのです。陰府の力は死んだ者を支配するだけではありません。生きている者の心の中まで、絶望で真っ黒に塗り潰していくのです。そして、イエスさまの流された涙は、憐れみの涙です。死の力に支配され、打ち拉がれ、信仰と希望を失っている人たちを何とかして救いたいという涙です。

3.《復活の生命》 私の後輩Yは3歳の時、17歳の姉の自死に出遭いました。焼却炉の穴に棺が呑み込まれる光景に、幼心ながら戦慄を覚えたと告白していました。小説家を目指していた彼は、その後、牧師となり、自殺未遂や自傷行為を繰り返す少女たちと向き合っています。自分を愛すること、人を信じること、神に望みを置くことが難しい時代です。陰府の支配は着実に人間を蝕んでいるかに思われます。しかし、イエスさまは墓さえも開かれます。暗闇の中に留まっている私たちに向かって「出て来なさい」と叫んで下さるのです。

朝日研一朗牧師

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2014年04月13日

棕梠の主日です。

棕梠の主日

棕梠の主日

棕梠の主日

棕梠の主日
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2014年04月11日

イエスの仲間【マタイ10:32〜33】

聖句「誰でも人々の前で自分を私の仲間であると言い表わす者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表わす。」(10:32)

1.《人間の現実》 聖書の神は私たちに「あなたへの愛は真実。だから、私のことを愛しているかと聞かれたら、いつでもどこでも愛していると宣言してほしい。私もあなたのことを愛しているかと聞かれたら、いつでもどこでもあなたを心から愛していると宣言する。」と伝える。しかし、この愛に応えられず「イエスのことを知らない」と公言したのが、人間の現実であった。

2.《今日の食事》 人間の腹の底の底にあるもの、それはイエスへの愛ではない。自己愛。しかし、このことを最もよくご存じだったのもイエス。イエスは、その人間の弱さ、現実を知って今日の聖句を語られた。十字架の最後に明らかになるのは、イエスとの出会いを通して行き着くのは32節ではなく、33節。十字架を見るとき、ああ、結局は自分が一番かわいかったと分かるのだ。このような私たちに向けて、復活のイエスはあらためて語り掛ける。「一緒に食事をしよう」(ヨハネ21:12)、つまりもう一度、新しくやり直そうと誘うのだ。私たちはなぜ食事をするのか。それはもう一度生きるためなのだ。もう一度、新しい今日を生きるためには、昨日の食事では決定的に足りないのである。さらにそこには、今日一緒に生きる人が、愛する人が必要。誰が一日の始まりの朝食に、嫌いな人を招くだろう。イエスは、そのテーブルに私たちを招いた。それが聖餐式である。

3.《聞き取る姿》 聖餐式にふさわしい姿とは何か。それはイエスの「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」との言葉を聞き取る姿。自己愛にまみれ、人々の前でイエスなんて知らないと大声で叫んだ自分に向けて、もう一度やり直そう、とのイエスの言葉が投げかけられる。その声を聞き取って、恥ずかしいような嬉しいような気持ちで、一緒に食事をして、もう一度イエスの仲間となる姿、それがふさわしい姿ではなかろうか。。

塩谷直也牧師(青山学院大学)

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2014年04月10日

幽径耽読 Book Illuminationその14

  • 「レンタルチャイルド/神に弄ばれる貧しき子供たち」(石井光太著、新潮文庫)  真の「ルポルタージュ文学」というのは、こういうものなのでしょう。以前、著者の『神の棄てた裸体』を読んだ時には、その凄まじい内容にもかかわらず、自分の中では「ルポ」と言って済ませていたのです。しかし、ここに登場するラジャ、マノージ、ナズマ、スマン、ムニ、ソニーといった人間たちの圧倒的な存在感、肉体性はどうでしょう。特に、ラジャとマノージについては、第1部(2002年)、第2部(2004年)、第3部(2008年)と、出会いから6年に及ぶ積み重ねがある訳で、読者にとっても感無量です。丁度、先日、インドの代理母出産ビジネスの実態告発ドキュメントを見たばかりでした。インドの女性たちが置かれている差別的な境遇に、夫婦して仰天したものです。あれは中産階級。「レンタルチャイルド」は、施しを受けさせるために、幼児の肢体切断や身体損傷を行なう最下層の世界です。それでも、同じ社会、私たちと同じ世界なのです。
  • 「アンのゆりかご/村岡花子の生涯」(村岡恵理著、新潮文庫)  以前、マガジンハウス版は、妻から借りて拾い読みし、説教ネタに使ったことがあったのです。6歳の愛児、道雄が疫痢で死ぬ場面です。大森めぐみ教会での葬儀では、「主は与え主は取り給ふ。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1章21節)の式文祈祷に対して、花子は「奪うなら、なぜ与えた」と呻いたとも伝えられています。しかし、その司式者、岩村清四郎牧師自身もまた、その数ヶ月前に愛息、恵を疫痢のために奪われていたことが知られています。花子の初恋の人が澤田廉三で、その後の夫人が澤田美喜として、エリザベス・サンダース・ホームを設立する訳ですが、花子と美喜との親交とか。あるいは、女流文学者グループに主義思想を超えて、多士多才な女性たちが結集している辺りとか、現代には見られないネットワークです。
  • 「半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義」(半藤一利・宮崎駿談、文春ジブリ文庫)
    海岸線が長すぎる日本に「国防」は無理、資源のない日本に「海外派兵」は無理、海岸線に原発が林立している日本に「紛争」は無理。この端的で、冷徹な論理性にシビレます。司馬遼太郎の言葉らしいですが、「日本はお座敷の隅の、ちょっとトイレが臭うようなところで、でも風通しのいいところに座っていたらいんだよ」という辺りの発想、分かりますかね。縁側と渡り廊下の近くですから、いつでも抜けられるのです。ワシントン軍縮会議調印(1922年)の御蔭で、隅田川の鉄橋インフラが整備されたとか、三国同盟に批判的だった海軍士官を寝返らせたのは、ナチスの「ハニー・トラップ」だったとか(これって、まさに「サロン・キティ」じゃん)、『風立ちぬ』の堀越二郎の夢に出るのは「ノモンハンのホロンバイル草原」だとか(泣けました!)、日中戦争開始当時(1937年)は日本のGNPが過去最高になった年だったとか…。
  • 「ゴーレム」(グスタフ・マイリンク著、今村孝訳、白水社Uブックス)
    典型的な「カバラ小説」。手術後3日目の病床で読み始めたせいもあって(3冊目)、読書そのものが白日夢の如き体験でした。所謂、私たちが思い描く「巨人ゴーレム」は全く登場せず、どちらかと言えば「分身もの」なのです。ゴーレムは「幽鬼」という程度の意味に成っています。カバリストのラビ、人形遣い、悪徳医、闇商人、売女、犯罪者集団…。プラハのゲットーに蠢く奇怪な人間群像の描写にも舌を巻きます。「ヘブライ語のアーレフの文字は、片手で天上をさし、片手で下方をさした人間の姿をかたどったもので、それはつまり『天上に行なわれているとおりのことが地上にも行なわれ、地上に行なわれるとおりのことが天上にも行なわれている』ということを意味している」。けども、そのポーズって、釈尊の「天上天下唯我独尊」でもありますよね(因みに、作者はプロテスタントから大乗仏教への改宗者でした)。巻末の訳者解説(1990年記)に「ヘブライ語などについては森田雄三郎氏に…懇切なご教示をいただいた」と、今は亡き恩師のお名前に出会い、森田先生がヒレルのように、今、病床にある私を、どこかで見守って下さっているように感じられ、不覚にも嗚咽した次第です。「ユダヤの言葉が子音だけで書かれているのを偶然だとお思いですか?―自分ひとりに定められている意味を開示してくれる秘密の母音を各人が見いだすためなんですよ」。
  • 「時が新しかったころ」(ロバート・F・ヤング著、中村融訳、創元SF文庫)
    ハインラインの『夏への扉』と同趣向のロマンティック時間SF。それにしても、この小説、以前、確かに読んだよなあと思いながら読了。何のことはない。同じ内容の中編を作者自身が長編化したものなのです。時間調査員が人類の存在しないはずの白亜紀で2人の姉弟を救助。2人は火星の「グレーター・マーズ」国の王女と王子で、凶悪テロリストに誘拐されて来ていたのです。自称「トラックの運ちゃん」が行き掛かりから、この幼い姉弟を体を張って守ることになるという筋立てが泣かせるのです。主人公が姉弟に「正式のアメリカン・インディアン方式」のキャンプ(要するに野宿)を体験させて上げる場面が秀逸です。食後に枝先にマシュマロを刺して焼いて食べさせるのですが、北海道時代、カナダ合同教会のウイットマー宣教師(先住民の文化にも造詣が深い)とご一緒したキャンプファイアを思い出しました。
  • 「亜米利加ニモ負ケズ」(アーサー・ビナード著、新潮文庫)
    彼の『ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)の絵本を、以前、小学校の読み聞かせで演ったことがあります。その時、私は生徒たちの関心を引くために、白眼ゴジラのラジコンを持って行って、そこからビキニ環礁水爆実験を説き起こしたのでした。「一文にもならないのに、そこまでするか」というサービス精神に溢れているのは、この作者の思索も同じ。この人の文に接すると、アメリカを否定して日本人に成るのでもなく、日本を見下してアメリカ人に成ろうとするのでもなく、両者を慈しむことが出来るのではないでしょうか。山村暮鳥の「病床の詩」、堀口大學の「お七の火」に寄せる彼の愛着を見ていると、本当にこの人は詩人なのだなあと思われます。しかも、彼の魂は、北米の自然を通してアメリカ先住民の霊とも繋がっているのに違いないと思うのです。
posted by 行人坂教会 at 20:29 | 牧師の書斎から