説 教 ”案内人の道知らず”

聖 書 ルカによる福音書 6章37節〜42節(p.113)
賛 美 歌 27、338、490、529、506、78、89
交読詩篇 139編13〜24節(p.157)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りに与っている。」(4:38)
1.《パンと人生》 大正時代のベストセラー『貧乏物語』の中で、河上肇は「人はパンのみにて生きるに非ず。されど又パン無くして生くるに非ず」と喝破し、これは当時の流行語となりました。内村鑑三に私淑していた河上がマルクス主義に転向したのは、イエスさまの御言葉に「武士は食わねど高楊枝」、辛抱と忍耐としてしか対応できなかった、当時のキリスト教界に限界を感じたからかも知れません。しかし、いずれも一面的な受け止め方です。
2.《種蒔く労苦》 聖書も、イエスさまの言葉も誤解されることが多いのです。敢えて誤解と混乱を引き起こして、私たちを悩ませようとしているかのようです。特に「ヨハネによる福音書」の主の御言葉を見ると、周りの人たちは何も理解できず、弟子たちは困惑するばかり、頓珍漢な会話が続きます。食事を持って来てくれた弟子に、「私にはあなたがたの知らない食べ物がある」等と仰います。神の御心を「成し遂げること」が「食べ物」だと説明されていて、それは十字架上の最期の御言葉「成し遂げたり」に通じます。御自らの命を差し出そうとされているらしいのですが、余りの飛躍に付いて行けません。
3.《収穫の喜び》 パレスチナでは、雨季の11月中旬に大麦、12月中旬に小麦とスペルタ麦を蒔きました。4月中旬から大麦の刈り入れ、5月初めに小麦とスペルタ麦の刈り入れでした。種蒔きと刈り入れとの間には5ヶ月間の、成長を待つ期間があります。しかし、この譬え話では、蒔く人と刈る人とが別人です。イエスさま自身が一粒の麦となって死ぬことで、私たちに命を与えてくださったのです。更には、宣教者フィリポが開拓したサマリア教会を、「ヨハネ」の教会が受け継いだという背景もあるらしい。私たちも、大勢の先輩たちの信仰に励まされ慰められて今あります。今度は、私たちが種を蒔く番です。
朝日研一朗牧師
聖句「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」(20:25)
1.《脇腹の傷》 十字架に磔にされたイエスさまが亡くなった後、ローマ兵が死亡確認のために脇腹を槍で刺したことは「ヨハネによる福音書」にしか書いてありません。意外にも「共観福音書」では槍の刺し傷どころか、両手足を釘で打ち抜かれたことすら言いよどんでいるのです。「十字架のキリストを宣べ伝える」と断言したパウロですら「焼き印」等という婉曲表現です。
2.《磔刑の図》 キリスト教美術には、キリストの十字架を描いた「磔刑図」というジャンルがあります。脇腹の傷もお愛想程度のものから、スプラッター映画のように血が噴出しているものまで様々です。中世には「聖杯」や「聖槍」の「聖遺物崇拝」が流行しました。キリストの御血に触れた杯や槍には、病気治癒や永遠の命や世界の支配といった物凄いパワーが秘められていると言うのです。近世プロテスタントは、脇腹から流れ出た「血と水」を「聖餐と洗礼」と教え、近代の聖書解釈は「生きた水が川となって流れ出る」聖霊の譬えとしました。現代においては、主の示された「傷」の方が重要かと思います。
3.《聖なる傷》 復活の姿には、傷も汚れもしみも皺もないというイメージが、私たちにも与えられています。「ルカによる福音書」24章の復活のイエスさまは「私の手や足を見なさい。触ってみなさい」と仰っていますが、そこには傷の描写がありません。しかし、ここでは、復活の主が敢えて御傷を示されるのです。不信仰者の代表のように言われる「疑いのトマス」ですが、彼は「十字架のイエス」を信じていたのではないでしょうか。けれども、信仰は多面的なのです。私たちの未だ知らない信仰の世界もあるのです。本当は、私たちの見たこともない世界が一杯あるのです。それこそが信仰なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。」(11:43)
1.《暗闇に叫ぶ》 黒澤明監督の『赤ひげ』の中に「長次の話」があります。服毒して一家心中を図った両親は死んでしまいますが、幼い長次が死に瀕した時、診療所の女たちが庭の井戸の奥底に向かって、彼の霊を呼び戻そうと一斉に叫ぶのです。父親がカトリック信者で、自身も日曜学校出身の山本周五郎は、恐らく「ラザロ」の場面を念頭に置いて、この場面を書いたのではないでしょうか。
2.《憤りと涙と》 普通に考えれば、ラザロが息を吹き返す訳はありません。マルタの「4日も経っていますから、もう臭います」という台詞が、死体のリアリティを私たちに突き付けます。現在の私たちは、葬儀社の人に拭き清められ、ドライアイスや香料や化粧で装われた遺体しか目にすることはありません。しかし、死後4日も経てば、体中の穴から汁も出て来ています。そんな中、イエスさまは「心に憤りを覚え」たと書かれています。人間を捕らえて離さない死の力に対して怒って居られるのです。陰府の力は死んだ者を支配するだけではありません。生きている者の心の中まで、絶望で真っ黒に塗り潰していくのです。そして、イエスさまの流された涙は、憐れみの涙です。死の力に支配され、打ち拉がれ、信仰と希望を失っている人たちを何とかして救いたいという涙です。
3.《復活の生命》 私の後輩Yは3歳の時、17歳の姉の自死に出遭いました。焼却炉の穴に棺が呑み込まれる光景に、幼心ながら戦慄を覚えたと告白していました。小説家を目指していた彼は、その後、牧師となり、自殺未遂や自傷行為を繰り返す少女たちと向き合っています。自分を愛すること、人を信じること、神に望みを置くことが難しい時代です。陰府の支配は着実に人間を蝕んでいるかに思われます。しかし、イエスさまは墓さえも開かれます。暗闇の中に留まっている私たちに向かって「出て来なさい」と叫んで下さるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「誰でも人々の前で自分を私の仲間であると言い表わす者は、私も天の父の前で、その人を私の仲間であると言い表わす。」(10:32)
1.《人間の現実》 聖書の神は私たちに「あなたへの愛は真実。だから、私のことを愛しているかと聞かれたら、いつでもどこでも愛していると宣言してほしい。私もあなたのことを愛しているかと聞かれたら、いつでもどこでもあなたを心から愛していると宣言する。」と伝える。しかし、この愛に応えられず「イエスのことを知らない」と公言したのが、人間の現実であった。
2.《今日の食事》 人間の腹の底の底にあるもの、それはイエスへの愛ではない。自己愛。しかし、このことを最もよくご存じだったのもイエス。イエスは、その人間の弱さ、現実を知って今日の聖句を語られた。十字架の最後に明らかになるのは、イエスとの出会いを通して行き着くのは32節ではなく、33節。十字架を見るとき、ああ、結局は自分が一番かわいかったと分かるのだ。このような私たちに向けて、復活のイエスはあらためて語り掛ける。「一緒に食事をしよう」(ヨハネ21:12)、つまりもう一度、新しくやり直そうと誘うのだ。私たちはなぜ食事をするのか。それはもう一度生きるためなのだ。もう一度、新しい今日を生きるためには、昨日の食事では決定的に足りないのである。さらにそこには、今日一緒に生きる人が、愛する人が必要。誰が一日の始まりの朝食に、嫌いな人を招くだろう。イエスは、そのテーブルに私たちを招いた。それが聖餐式である。
3.《聞き取る姿》 聖餐式にふさわしい姿とは何か。それはイエスの「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」との言葉を聞き取る姿。自己愛にまみれ、人々の前でイエスなんて知らないと大声で叫んだ自分に向けて、もう一度やり直そう、とのイエスの言葉が投げかけられる。その声を聞き取って、恥ずかしいような嬉しいような気持ちで、一緒に食事をして、もう一度イエスの仲間となる姿、それがふさわしい姿ではなかろうか。。
塩谷直也牧師(青山学院大学)