説 教 ”心ある者が苦しむ”

聖 書 ペトロの手紙T 4章12節〜19節(p.433)
賛 美 歌 27、345、490、1、469、79、24
交読詩篇 47編1〜10節(p.55)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「キリストは…、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(3:16)
1.《昇天と高挙》 「キリスト昇天」は新約聖書に記されています。「使徒信条」の土台である「ローマ信条」「ニケア信条」にも「信ずべきこと」と証されています。それ故に、クリスチャンは熱烈に信じないまでも、敢えて否定はしません。ただ、受け身で「上げられ」と表現される場合が多いので、自力で飛翔する「昇天」よりも、神に引き上げられる「高挙」が近いのかも知れません。
2.《聖母被昇天》 カトリック信者は8月15日を「聖母被昇天日」として祝います。母マリアの命日です。天使ガブリエルのお告げによって母マリアに最期の時が知らされ、各地から12使徒も呼び寄せられます。使徒たちの見守る中、キリストが母を迎えて昇天させるのです。背後に「無原罪の聖母の御宿り」の信仰が読み取れます。ラテン語では、イエスの昇天は「アーセーンシオー/上昇」、マリアの被昇天は「アスーンプティオー/取り上げ、採用」と言います。それでは、単に「上昇」の意味しかなかった「キリスト昇天」に、いつの頃から受け身か自力かという問いかけが生じたのでしょうか。
3.《天地を結ぶ》 古い「昇天図」では、雲の中から神の御手が現われ、オリーブ山上のキリストを取り去る絵柄が主流でした。その後、6世紀の教皇、グレゴリウス1世が「キリストの全能性」に疑念を抱かれないように、御自ら天に昇る絵柄に変えさせたのです。しかし、そんな人間的な思惑など取るに足りません。パウロの引用した原始教会の讃美歌を鑑賞してみると、イエスさまの御心が見えて参ります。肉と霊、天使と異邦人(縦と横)、世界と栄光(被造物と創造主)が対に成っています。ここには、分裂して苦しむ世界を繋ぎたい、離れ離れになった人たちを再会させたいという、愛と慈しみがあるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「するとナタナエルは『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」(1:46)
1.《数奇な運命》 幕末には、海難漂流の結果、鎖国日本を離れてアメリカ人に救助されたケースが、50年間で23件もあったそうです。その中でも、「宝順丸」の生き残りの3名の若者の運命は数奇としか言いようがありません。彼らは、ロンドン宣教協会の宣教師、ギュツラフに協力して、現存する最古の聖書日本語翻訳作業に携わったのです。まさしく「人生は出会い」です。
2.《来て、見る》 「ナザレのイエス」と聞いて失笑するナタナエルに、友人のフィリポは「来て、見なさい」と言います。西洋では、短いけれども大切な聖句として「veni et vide」とラテン語で言われます。私たちも各々、キリスト教会や信仰生活に導かれた契機があったはずです。そこに誰か他の人が関わってくれて、その結果、イエスさまに繋がったのです。近年は、テクノロジーとツールの普及で、行かなくても簡単に情報だけ手に入れられる時代になりました。しかし、所詮、情報は虚構に過ぎません。「取り敢えず足を運ぶ」「とにかく行って見る」ということが、リアルな出会いのためには必要なのです。
3.《繋がる思い》 ナタナエルとフィリポ、いずれも私たち自身の姿です。誰かが誰かを連れて来て、イエスさまに引き合わせる、教会は2千年間も、そんな営みを続けて来たのです。人生は思いも寄らぬ出会いの連続で、危険と困難もありますが、そこに醍醐味があります。ナタナエルはイエスさまの「千里眼」に降参しますが、主は「その程度のことは信仰ではない」と言われます。この問答は、20章のトマスとの遣り取りと同じです。巻頭と巻末に似た話が置かれているのは、「ヨハネによる福音書」のメッセージです。最大の奇跡、真の信仰とは、イエスさまを通して、神さまの御思いと繋がることなのです。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」(4:5)
1.《ルツ記》 隣国のモアブに移住したものの、ナオミは夫に先立たれてしまいます。その上、2人の息子たちも相次いで亡くなります。これを機に、故国へ帰ろうと決心したナオミでしたが、モアブ人の嫁、ルツは姑と離れず、ベツレヘムに付いて行くのでした。これが「ルツ記」の導入です。「ノヴェッレ/小作品」と呼ばれる文学様式で、現在のラノベやハーレクインの始まりなのです。
2.《慈しみ》 「同じ旧約聖書」と言っても、大きく分けて2つの考え方、2つの流れがあります。寛容と不寛容、受容と排除、広い心と偏狭な心です。例えば、「ヨナ書」では、自分の祖国を滅ぼしたアッシリア帝国を憎む預言者に対して、神さまが慈しみの心を教えます。しかし、次の「ミカ書」では、周辺諸国に対する呪詛が溢れています。1ページ捲ると違う世界なのです。当然、「同じクリスチャン」と言っても2つの流れがあるのです。パウロは「寛容、柔和、優しさ、譲る心、負ける心」を表わすように勧めています。その時、キリストが共に居られるのです。これが真のキリスト信仰であり、これが真の幸せなのです。
3.《母の日》 ルツにとって、ナオミは血縁ではありません。それでも、ルツはナオミと離れません。最終的に、この2人を救済するボアズは、ナオミの親戚に当たります。イスラエルは部族社会ですから、血縁は社会的責任を意味します。しかし、彼もまた、顔も知らない程の遠戚でした。ここにヒントがあります。家族、血族ではない人の愛がナオミを幸せにするのです。物語は、絶望のドン底にあった年老いた女性が、もう一度「魂を生き返らせる」程の喜びに満たされることで終わります。小説だからこそのハッピーエンドなのですが、それを願う権利は誰にでもあり、実際に願わなくては幸せは訪れないのです。
朝日研一朗牧師
聖句「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」(6:39)
1.《分かって貰う》 私たちは皆、誰かに自分のことを分かって貰いたい、理解して貰いたいと思っているものです。時には、愚痴や文句になってしまって、格好悪いのです。それでも、誰かに聞いて貰わないと窒息してしまうのです。しかしながら、「聞いた貰えた」と「分かって貰えた」とは、まるで違います。相手も自分の問題を抱えていますから、聞くだけで精一杯なのです。
2.《言葉を届ける》 分かって貰うことは難しいことです。言葉を投げ掛けても、言葉が相手に届いていないことが殆どです。現実には、以心伝心もテレパシーもありません。「どうせ分かるはずない」と諦めると、言葉にすることも感情を表現することもしなくなります。「分かろうと分かるまいと関係ない」と自己完結してしまう人もいます。現代の私たちから見ると、聖書も何が書いてあるのか分からない不親切さに満ちています。だからこそ、聖書の内容をもう一度、生きた言葉に直して届けるために、礼拝の中には、牧師の説教があります。しかし、分かって貰えるように伝えることは至難の業です。
3.《目の中の丸太》 言葉を届ける作業には、常に摩擦や葛藤が込められていることも予想するべきです。言葉は暴力にもなり、言葉によって傷付け合うこともあります。面倒を避けると、当たり障りのない言葉だけに終始してしまいます。私たちが分かって貰えない時に意気消沈するのは、責任の半分はこちらにあるからです。反対に、分からない場合にも責任を負うのです。ここに、分かって貰いたい人と分かって上げたい人との出会いが必要です。教会もまた、ただ一方的に「福音伝道」をして、分かって貰おうとするだけではいけません。出会いと気付き、分かりたいという他者への愛、そして我慢が必要です。
朝日研一朗牧師