2014年05月19日

人生は出会い【ヨハネ1:43〜51】

聖句「するとナタナエルは『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」(1:46)

1.《数奇な運命》 幕末には、海難漂流の結果、鎖国日本を離れてアメリカ人に救助されたケースが、50年間で23件もあったそうです。その中でも、「宝順丸」の生き残りの3名の若者の運命は数奇としか言いようがありません。彼らは、ロンドン宣教協会の宣教師、ギュツラフに協力して、現存する最古の聖書日本語翻訳作業に携わったのです。まさしく「人生は出会い」です。

2.《来て、見る》 「ナザレのイエス」と聞いて失笑するナタナエルに、友人のフィリポは「来て、見なさい」と言います。西洋では、短いけれども大切な聖句として「veni et vide」とラテン語で言われます。私たちも各々、キリスト教会や信仰生活に導かれた契機があったはずです。そこに誰か他の人が関わってくれて、その結果、イエスさまに繋がったのです。近年は、テクノロジーとツールの普及で、行かなくても簡単に情報だけ手に入れられる時代になりました。しかし、所詮、情報は虚構に過ぎません。「取り敢えず足を運ぶ」「とにかく行って見る」ということが、リアルな出会いのためには必要なのです。

3.《繋がる思い》 ナタナエルとフィリポ、いずれも私たち自身の姿です。誰かが誰かを連れて来て、イエスさまに引き合わせる、教会は2千年間も、そんな営みを続けて来たのです。人生は思いも寄らぬ出会いの連続で、危険と困難もありますが、そこに醍醐味があります。ナタナエルはイエスさまの「千里眼」に降参しますが、主は「その程度のことは信仰ではない」と言われます。この問答は、20章のトマスとの遣り取りと同じです。巻頭と巻末に似た話が置かれているのは、「ヨハネによる福音書」のメッセージです。最大の奇跡、真の信仰とは、イエスさまを通して、神さまの御思いと繋がることなのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:04 | 毎週の講壇から