2014年06月30日

床を担いで歩こう【ヨハネ5:1〜9】

聖句「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」(5:8,9)

1.《待ち疲れた人》 中国の昔話に、歌姫に恋した役人が、彼女から「窓辺で百夜お待ちになれば、あなたのものになりましょう」と言われて、通い詰めながら、最後の夜に立ち去る物語があります。日本にも観阿弥、世阿弥の謡曲で知られる「百夜通い」があります。小野小町への求愛を続ける深草少将が、最後の夜に大雪に見舞われて凍死してしまうのです。行方不明の家族を待つ人、家族の手術が終わるのを待つ人、「待つ」ことは時に大変な苦痛となります。

2.《ベトザタの池》 「ベトザタ」は「オリーブの家」の意味でしたが、この癒し物語が伝わると「ベテスダ/憐れみの家」と読み換えらてしまいました。恐らく間歇泉だったのでしょう。鉱泉が噴き出すのが、天使が沐浴しに舞い降りる瞬間と思われ、最初に飛び込んだ人がその霊験の故に癒されると信じられていたのです。その時を大勢の人たちが待っているのです。自分が癒されたいのは誰しもですが、病人や障碍者が「先着お一人様限り」の奇跡のために、我先に池を目指して競争する様子は、凄惨としか言いようがありません。

3.《課題を担って》 38年もの長患いの人がいます。どのようにして池の回廊に辿り着いたのかは知りませんが、今では自力で池を目指すことも出来ず、捨て置かれた状態です。本当に絶望してしまえば苦痛すらありません。私たちが悩み苦しむのは、希望を捨てていないからなのです。しかし、この人は希望を失いかけていました。その人に向かって、主は「治りたいか」と言われます。実に、本人の希望こそが一番大切なのです。キリスト教が他の宗教と最も違うのは「希望」です。自分の願掛けではなく、神の御心の成ることを信頼する心です。人生には悩みが尽きません。しかし、他人のせい、社会や時代のせいにしないで、今まで寄り掛かっていた「床」を、私の課題、使命として担って歩んで参りましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 20:26 | 毎週の講壇から

2014年06月25日

ビフォー&アフター

1.赤信号

最近「手術前に比べて、少し痩せましたね」と言われます。その都度、心を込めて「ありがとうございます」とお礼を申し上げるようにしています。ただ単に、お褒めの言葉を頂戴して感謝申し上げているのではありません。4月の急性虫垂炎の手術も、それに伴って高血圧と糖尿病が発覚したことも、神さまが助けの御手を差し伸べられた出来事だったのだなと思うからです。

誰でも「痛いのはイヤ」ですが、やはり、痛みこそが心身の発する大切な信号であることには間違いありません。健康診断すら怠っていた私が、遂に病院で血液検査をせざるを得なくなったのは、虫垂炎の激痛の御蔭なのです。

2.冷え性

さて、開腹手術をすると体質が変わるというのは、私に関する限り本当でした。昨年の4月に結婚式を挙げたH夫妻が、1年ぶりに礼拝に来てくださったので、帰りに玄関で握手をしたら、「以前に比べて、手が冷たくなっていますね」と言われたのです。実際、退院後1ヶ月ほどは、靴下を履いて就寝しなければ、寒くて眠れませんでした。まるで女性の冷え性のように、手先足先が冷えるようになってしまっていたのです。裸足で寝るのが当たり前だった私が、分厚い毛糸の靴下を履いて寝るようになったのです。まるで別の人が自分の中に棲むようになったかのような、不可解な気分でした。

そう言えば、昔、ブリジット・バルドー主演で、『私の体に悪魔がいる』という刺激的な題名の映画があったよな…。そんなことを思い出して、独りで悦に入っていた次第です。何だか、私の体の中にも、見知らぬ「冷え性の女性」が棲んでいるような気がしたからです。因みに、先の作品、扇情的なのは邦題だけで、戦前に『ゴルゴタの丘』や『望郷』、『舞踏会の手帖』を撮ったジュリアン・デュヴィヴィエ監督作品です。原題は「La femme et le pantin/女と操り人形」でした。

しかしながら、幸か不幸か「冷え性の女性」は、汗ばむ季節の到来と共に、私の体から出て行ったみたいで、置き去りにされた私は、最近またもや裸足で寝ています。しかも時々、タオルケットを脱いだりしている始末です。

3.大改造

『大改造!!劇的ビフォーアフター』というテレビ番組を御存知でしょうか。極端に敷地面積が狭いとか、家具雑貨の整理が出来ずに溢れ返っているとか、凄まじく日当たりが悪いとか、そういう問題を抱えた家屋の新築、改築に、「匠(たくみ)」と称される設計士や建築士が取り組むというプロジェクト系番組です。

番組は、改造前(ビフォー)の悲惨な状態を「これでもか」と執拗に描写します。不便さと不条理さ、不自由さ、時には危険性すら感じるような、家屋での生活が日常となっている家族の生活が紹介されます。ここで先ず、私たちの「覗き趣味」を満たしてくれるのです。その次に、あたかも救世主のような「匠(たくみ)」が登場して、家族の希望や願いを聞いた上で、新築、改築が始まります。最後に、夢のように美しく、機能的に変貌した改造後(アフター)の新居が披露され、家族が感動するというパターンです。

けれども、いつも、この番組を見ていて抱く違和感がありました。「ビフォー」と「アフター」の落差が激し過ぎるのです。依頼した家族の生活スタイルとは、余りにも懸け離れたアフターの(言ってみれば、料亭か喫茶店のように生活感の欠如した)住まいが登場するのです。あるいは、今は美しくても、1ヶ月もすれば、また元の木阿弥、雑貨が溢れて「ゴミ屋敷」にリバウンドするのではないかと思ってしまうのです。

人間の心身と同じく、極端なダイエットはリバウンドをもたらして、前よりも悪くなるのです。「マタイによる福音書」12章43〜45節、イエスさまの譬え話「汚れた霊が戻って来る」は、絶対リバウンドの話ですって。

4.反跳性

そもそも、リバウンドは「跳ね返り」という意味で、「反跳現象」と訳されることもあります。薬物の服用を止めると、以前よりも悪い症状が現われることを言います。糖尿病や高血圧になると、「運動をしろ」「節食しろ」「栄養管理をしろ」と、これまでの自分の生活実態から程遠い要求が多く、無理な取り組みが反動を生むことがあります。

私自身は、手術後、缶やペットボトルのジュースを飲むのを止めました。飲むのは牛乳と野菜ジュースだけ、仕事場に持ち込むのはミネラルウォーターだけにしています。ご飯の御代わりも止めています。けれども、余りダイエットに躍起になると、却って、ストレスが溜まるので、食後には塩煎餅の1枚、饅頭の1つくらいは食べています。時には、血糖値が跳ね上がるを覚悟の上、プリンやシュークリームを食べることすらあります。

何より、妻の食事メニューが絶妙のバランスを保っているようで、食べ盛りの男の子2人と同じ物を頂いていながらも、欲求不満にもならず、リバウンドも起こさずに、緩慢なペースながらも、痩せる方向に行っているようです。決して「劇的!!」ではありませんが、これまでは、ひたすら太り続けていた私の肉体、並びに、食べて満ち足りるということの精神にとって、大きな転換になっています。

「劇的!!」である必要はないと、つくづく思います。いや、むしろ「劇的!!」であろうとすることは、虚構のドラマツルギーのために、現実を無視しているのでは無いでしょうか。地に足の付いていない在り方は、何であれ、足を掬われる結果にしかなりません。

牧師 朝日研一朗

【2014年7月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 12:52 | 毎週の講壇から

2014年06月24日

6月第5主日礼拝

       6月29日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”床を担いで歩こう” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 5章1節〜9節(p.171)
賛 美 歌  27、345、490、166、352、24
交読詩篇  47編1〜10節(p.55)

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posted by 行人坂教会 at 10:08 | 毎週の礼拝案内

2014年06月23日

心を入れかえる【マタイ21:28〜32】

聖句「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。…弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。」(21:29,30)

1.《一枚の絵》 亀水松太郎は十代から遊興に明け暮れた挙句、強盗を重ねて逮捕され、当時「もはや生きては帰れぬ」と言われた北海道の空知集治監に送られました。ある日、囚人仲間が裸で十字架に磔にされた男の絵を眺めていました。松太郎は「俺より悪党がいるもんやな」と笑いましたが、仲間から「これがキリスト、贖い主」と説明を受けて、人生が変わるのです。キリスト者の囚人仲間や看守、教誨師の信仰にも支えられるのでした。これを機に悔い改めた松太郎は、恩赦を得て出獄した後に、牧師となるのでした。

2.《涙の意味》 父親が息子たちに、葡萄園の仕事を手伝ってくれるように頼みました。兄は拒否しますが、考え直して出掛けました。弟は色よい返事をしたものの、結局、出掛けませんでした。イエスさまは、悔い改めてヨハネに洗礼を受けた徴税人や娼婦の心を大切になさいます。私たちは「ひとかど」の人間だと思っていますが、流れる涙は、私たちが「ひとかど」どころか、「人並み」ですらもなく、「取るに足らぬ者」であること、単なる罪人でしかないことを教えてくれるのです。それが「徴税人と娼婦の涙」「ペトロの涙」です。

3.《うわの空》 祭司長や長老たちは、洗礼者ヨハネに理解を示していました。その姿とメッセージによって、預言者と認めて、評価していました。しかし、彼らは出掛けては行きませんでした。信じて、悔い改めようとはしませんでした。「後で考え直して」とは「悔い改め、心を変える」ことを意味します。結局、地位の高い人たちは「うわの空」だったのです。どんなに頭が良くても「うわの空」の人は一杯いるのです。教会にも聖書を熟知する人、賛美や祈りの上手な人、学問のある「先生」がいますが、それは「お利口さんの良いお返事」に過ぎません。本当の信仰は「心を入れかえて」人生が変わってしまうことです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:50 | 毎週の講壇から

2014年06月17日

6月第4主日礼拝

       6月22日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”心を入れかえる”   音楽           朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 21章28〜32節(p.41)
賛 美 歌  > 27、345、490、166、352、24
交読詩篇  47編1〜10節(p.55)

・昼食サービス(カレーライス:300円)  讃美歌練習後   階下ホール

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posted by 行人坂教会 at 11:54 | 毎週の礼拝案内

2014年06月16日

花の命は短くて【ヤコブ1:9〜11】

聖句「日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。」(1:11)

1.《一輪の草花》 太平洋戦争の勃発と共に、アメリカ合衆国の日系人たちは政府によって家財産を没収され、手持ちの荷物だけで各地の収容所に送られました。収容所は砂漠のような人里離れた場所に建てられています。最北のワイオミング州ハートマウンテン収容所に入れられたHさんは、収容所には「色がなかった」と証言されています。やがて、収容所でも礼拝を行なっているとの噂を聞きつけて、近所の教会の人たちが毎週日曜日に花を届けてくださるようになりました。礼拝の出席者は、自分のバラックに1輪ずつ花を持ち帰り、1週間、花を飾っていたそうです。萎れて枯れてしまっても、茎だけになっても、大切にして眺めて居られたそうです。そこだけに「色」があったのです。

2.《花のいのち》 大人気の連続テレビ小説『花子とアン』のヒロインは、『赤毛のアン』シリーズの翻訳で知られる、村岡花子がモデルです。彼女の人生を辿って見ると、東洋英和女学院、婦人矯風会、教文館、賀川豊彦、大森めぐみ教会など、私たちにも馴染み深い名前が出て来ます。しかし、彼女が『放浪記』の作家、林芙美子と親しくしていたことは、意外に知られていません。『アンのゆりかご』が出版されて、林芙美子の「花のいのちはみじかくて」の出典が初めて明らかになりました。終生、村岡はその詩を額に入れて飾っていたのです。「苦しきことのみ多かれど/風も吹くなり/雪も光るなり」と歌われていて、一種の「信仰」を感じさせる詩です。神さまは「造花」ではなく「生花」を創造されました。生きた花だからこそ萎れて枯れるのです。人間は花が枯れれば、さっさとゴミ箱に捨てますが、神さまは、散っても枯れてもお捨てになりません。そこから新しい命を芽生えさせることもお出来になるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 15:11 | 毎週の講壇から

2014年06月10日

6月第3主日礼拝(子どもの日・花の日)

       6月15日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”花の命は短くて” 音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  ヤコブの手紙 1章9節〜11節(p.421)
賛 美 歌  27、345、62、「あめんどうの花が」、141、24
交 読 文  「花のいのちはみじかくて」(林芙美子から村岡花子に贈られた詩)

CS花の日訪問        礼拝後       行き先:目黒新橋交番
あいさつの会(相互交流の会)      礼拝後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール

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posted by 行人坂教会 at 09:26 | 毎週の礼拝案内

2014年06月09日

神のギフトの取り扱い説明書【Tコリント14:1〜19】

聖句「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(14:1)

1.《トリセツ》 家電の梱包には、製品本体と共に取扱説明書が入っています。テレビの情報番組がハシリでしょうか、10年程前から、略して「トリセツ」と言うようになりました。「英文法のトリセツ」「小学生男子のトリセツ」「女子社員のトリセツ」「心のトリセツ」「仮設のトリセツ」等の書籍やHPがあります。どうやら、そこには「取り扱いにくい相手と、どのようにして付き合うか」という含みがあるように思います。つまり「取り扱い注意」です。

2.《カリスマ》 ところが、英語の「マニュアル」はラテン語の「マヌス/手」から来ていますが、「手で出来ること」「取り扱い易さ」を言っているのです。生き方においても、人間関係においても、いずれに立つかで随分違います。勿論、私たちの手に余ることもあります。神から与えられるもの、それを私たちは「賜物/ギフト」と呼んでいます。ギリシア語は「カリスマ」です。現在では、特別な能力を言うのに使われますが、語源的には「神が慈悲深く授ける、親切にする」の含みです。だから、パウロは「賜物」を「神の愛」と言うのです。

3.《パラパラ》 パウロの時代のコリント教会でも「カリスマ」ブームがあり、その中心は「異言」でした。30年近く前、ペンテコステ系の教会で「異言」が流行しました。異言が有無が聖霊の有無の証拠、救いの条件のように言われて、傷付いた人たちが大勢いました。そこに愛はあったでしょうか。むしろ、聖霊の一番の働きは、他の人の「徳を高める」ことです。自分が向上することではないのです。「慰め/パラクレーシス」と「励まし/パラムティオン」です。「パラ」とは、その人と共に、その人たちの中にあり、その人たちの間で生きていくことです。「預言」は「予言」ではなく、キリストの十字架と復活が、私の人生にどのように関わるかという信仰の「証し」に他なりません。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 11:57 | 毎週の講壇から

2014年06月03日

ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 

       6月 8日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”神のギフトの取り扱い説明書” 音楽 朝日研一朗牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙T 14章1節〜19節(p.317)
賛 美 歌  27、345、490、505、348、80、24
交読詩篇  47編1〜10節(p.55)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 11:45 | 毎週の礼拝案内

2014年06月02日

2014年イースター礼拝後の写真

イースター礼拝後、皆さんで写真を撮りました。

イースター礼拝後の皆さんの写真

posted by 行人坂教会 at 15:09 | 教会アルバム