説 教 ”塵に口をつけよ”

聖 書 哀歌 3章22節〜36節(p.1289)
賛 美 歌 27、559、490、424、520、82、26
交読詩篇 35編22〜28節(p.42)
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(6:4)
1.《しつけ糸》子育中の親たちは「躾がなっていない」と責められているように感じて、子どもに暴力を振るってしまうことがあります。小児科医の内藤寿七郎によれば、本当の「しつけ」は和裁の「しつけ糸」から来ているのだそうです。襟などの癖付けのために、弱くて切れ易い糸を使うのです。「仕付け」は「馴染ませる」ことに過ぎず、切れても構わないのです。何も縛り付ける必要はなく、優しく、緩やかに、根気強く働き掛けるのです。
2.《父なる神》聖書の神は伝統的に「父なる神」と唱えられて来ました。どうして聖書の神は「父」の表象を帯びるように成ったのでしょうか。紀元前586年の「バビロン捕囚」以後にシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が生まれ、やがて、少年たちが律法を学ぶ寺子屋のような私塾も併設されるようになります。しかし、それ以前には、父親こそが子の祭司であり、教師だったのです。「父/アーブ」とは「導く者、教師」の意味であり、ヤハウェこそはイスラエルを導く唯一の「父」と呼ばれたのです。その流れで、人々は預言者や祭司にも「父よ」と呼び掛けたのです。今でもカトリックの司祭を「神父」と言っています。
3.《霊肉の糧》新約聖書では、再び教育の中心は家庭に戻って来ます。「父と母を敬いなさい」はモーセの十戒です。幸福の約束も「申命記」律法をそのままに受け継いでいます。「子供を怒らせる」は「興奮、激昂させる、刺激する」ことです。赤ちゃんをビックリさせてはいけないのと同じです。父親が怒鳴ったり、暴力を振るって、子どもを臆病にしてはいけない(コロサイ3:21)のです。「育てなさい」は「養う、滋養を与える、大きくする」です。まさに「食育」です。但し、聖書ですから「肉の糧」だけで足れりとはしません。「霊の糧」も必要です。私たちの体は、私たちがこれまで食べて来た物で出来ています。私たちの霊も、これまで私たちが信じ、望み、愛したもので出来ているのです。
朝日研一朗牧師
1.ソンタグ
「特に日本映画の場合にそうなのだが、必ずしも日本映画ばかりではなく、一般に、核兵器の使用や未来の核戦争の可能性によって、大量の創傷が現実に存在するという気持を観客は持たされる。空想科学映画のほとんどはこの創傷の証人であり、ある意味で、これを払拭しようとする試みである。」
アメリカの批評家、スーザン・ソンタグの古典的な評論集、『反解釈』の中の「惨劇のイマジネーション」(1965年/邦訳1971年:河村錠一郎訳)からの引用です。ソンタグの『反解釈』は70年安保以降のサブカル世代には「聖書」のように崇められた本でした。
「空想科学映画」として、ソンタグが具体的に題名を挙げているいるのは、『キング・コング』(1933年)、『地球最後の日』(1951年)、『遊星よりの物体X』(1951年)、『宇宙水爆戦』(1955年)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年)、『縮みゆく人間』(1957年)、『生きていた人形』(1958年)、『ハエ男の恐怖』(1958年)、『脳を喰う怪物』(1958年)、『地球全滅』(1959年)、『光る眼』(1960年)、『タイムマシン』(1960年)等です。日本映画からも『空の大怪獣ラドン』(1956年)、『地球防衛軍』(1957年)、『美女と液体人間』(1958年)、『宇宙大戦争』(1959年)が採り上げられています。
それにしても、翻訳をした人は、映画にもSFにも全く無関心だったようで、公開作品の邦題すら満足に表記できていませんでした。そもそも、ソンタグ自身が『ラドン』について詳述しながらも『ゴジラ』に全く言及しない不徹底ぶりです。彼女が「ラドン」に特別な思い入れを持った、コアなファンだったということでは決してないと思います。恐らく、単に執筆時点で「ゴジラ」を見ていなかったのでしょう。
2.トラウマ
それでも、ソンタグの慧眼には敬意を表さない訳には参りません。いみじくも彼女が断言しているように、SF映画や怪獣映画は「現実に存在する」「創傷の証人」として、観客に戦争の傷痍や被爆の後遺症を想起させる働き、訴えかける役割を果たしているのです。
例えば、『ゴジラ』(1954年)の台詞の中で、何度、戦争への言及があるでしょうか。電車で通勤中の会社員が溜息混じりに「ああ、また疎開か」と呟きます。また、ある女性は「折角、長崎の原爆を生き延びた大切な体なんだから…」と言います。ゴジラに蹂躙される銀座で、戦争未亡人と思しき女性が子どもたちを抱きしめて「もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ」と言い聞かせます。
ところが、この後、まるで野戦病院の如き「救急介護所」の場面で、母親だけが亡くなり、生き残った女の子も被曝していることが明らかになります。しかも、この女の子にガイガーカウンター(放射線測定装置)を向けた放射線技師の田畑は押し黙ったまま、恵美子(河内桃子)に向かって左右に首を振って絶望的であることを伝えます。
この場面での伊福部昭の音楽は『原爆の子』(1952年)、『ひろしま』(1953年)の曲調と見事にかぶっています(2年後の『ビルマの竪琴』の「白骨街道」の劇伴にも通じます)。『ゴジラ』が『原爆の子』『ひろしま』と共に、伊福部の「原爆三部作」と呼ばれる所以です。
品川、田町、新橋、銀座、日比谷、数寄屋橋、永田町、上野、浅草…。ゴジラの通った跡は火の海と化しています。辛うじて高台に避難した人たちは、夜空を焦がして燃え上がる東京の街を呆然として見詰めています。古生物学者の山根博士(志村喬)の息子、新吉が思わず「畜生!」「畜生!」と、悲痛な叫びを発します。ゴジラが勝鬨橋を破壊する前の場面ですから、隅田川から東京湾へ向かっている訳です。そう、これは東京大空襲の再現なのです。
このように、『ゴジラ』は戦火の記憶を痛烈に呼び覚ます作品であったのです。当時の観客の感想にも「戦争を思い出すからイヤだ」という意味のものが数多くあったようです。さて、ここまでは、大勢の人たちが指摘していることです。問題はここからです。
3.チンプカ
私が『ゴジラ』を劇場で観た時点(1980年代)では、「もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ」の台詞が、若い観客の大爆笑を誘った事実を、どうしても言い添えねばなりません。「戦争を思い出」させる悲痛な描写の1つであったはずが、製作から30年を経て、あたかもコメディのように変質してしまっていたのです。
そうです。ソンタグの慧眼が本当に鋭いのは、この点なのです。「現実に存在する」戦争の傷痍と核の脅威を、この種の映画作品は想起させるのみならず、同時に「払拭させる試み」にも成り得ていたということなのです。
『ゴジラ』の監督、本多猪四郎は、8年間も日中戦争に従軍させられた挙句、大陸で終戦を迎え、復員して帰郷する列車から壊滅した広島の惨状を目撃するという衝撃的な体験をしています。また、音楽の伊福部昭は、兄の勲が戦時下研究の放射線障害により、28歳の若さで死亡して居り、核と放射能に対しては、終生、強い怨嗟の念を抱いていたと言われています。いずれも「ゴジラ製作神話」として語り継がれている話です。
つまり、本多も伊福部も表現のモチベーションにおいては、かなり「本気モード」だったということなのです。にも拘わらず、時代の変化が人々の記憶を風化させるのみならず、表現そのものが「陳腐化」という宿痾を内包しているのです。
新作『GODZILLA/ゴジラ』には、福島第一原発からMUTOという別の怪獣が登場するそうです。「ゴジラ」生誕60周年に、自衛隊が米軍の先兵と成って(世界展開して)奉仕するという、愚かな憲法解釈が国会で承認され、安倍首相の肝煎りで原発推進に舵取りがされる、これ以上に皮肉な「惨劇」、イマジネーションの欠落は存在しません。
牧師 朝日研一朗
【2014年8月の月報より】
聖句「神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(3:14)
1.《一人の道》 女性デュオ、ピンク・ピクルスの「一人の道」(1972年)は、東京オリンピックで銅メダルを受賞しながらも、4年後に自らの命を絶った円谷幸吉選手の遺書を参考にして作られた歌です。アスリートたちが負わされる深い孤独と痛みを思います。パウロの時代にも、ギリシアでは4年に1度のオリンピア祭(古代オリンピック)は開催されていました。彼が譬に使っているのは、マラソンではなく「ドリコス走」(4608メートル走)のことです。
2.《求める道》 キリスト教は「悟りの宗教」ではなく「求める宗教」です。「悟り」が徹頭徹尾、自分を対象化する作業であるのに対して、「求め」は常に相手を必要とします。しかし、求める相手が誰であるかによって、私たちの求める「求め」の質や内容が自ずと変わって来るのです。誰も貧乏人の家に金の無心に行かないのと同じです。「御利益宗教」を見れば分かるように、商売繁盛、家内安全、学業成就、厄除けと、行き先の寺社仏閣によって御利益が明瞭です。けれども、これでは、もはや「神の世界」ではなく「人の世界」です。
3.《私の利益》 それでは、私たちの利益とは何でしょうか。何が自分に幸いするのか、本当は、私たち自身にも分からないのです。目先の欲得だけ追いかけて、本当に幸せに成れるでしょうか。私たちの真の利益を知っているのは、神さまなのですから、神さまに尋ねなくてはなりません。「御利益信仰」では「鏡の前に立つ」だけで、人間の欲望を映し出すばかりですが、私たちの信仰は、自らの「心の窓を開ける」ことなのです。パウロも、自分の肉を頼りにするのは止めて、神の霊を頼る生き方に転換した経緯を開陳しています。信仰においては、自分のペースで走れば良いのです。但し、目標と方向だけは間違ってはいけません。自らが神仏に成ることではなく、キリスト・イエスを求めるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい。』」(19:5)
1.《ザアカイ》 子どもたちには「ザアカイは背が低かったので…」と話します。子どもの立場から、素直に共感できるのです。しかし、本当に貶められていたのは、むしろ、彼の「徴税人」という仕事なのです。物物交換の暮らしから貨幣経済への転換期でした。福音書を読むと、ギリシアやローマの通貨単位が多く出て来て「グローバル化」の時代だったことが分かります。徴税人は請負制で、不当に多くの税を取り立てて、私腹を肥やす悪人もいたようです。
2.《見くだす》 エリコは青果の集積地、交通の要衝でした。そのエリコの徴税権をローマ帝国から買い取って、部下の徴税人を使役する「徴税人の頭」ザアカイは、恐らく裕福だったことでしょう。しかし、異邦人との接触や貨幣そのものに対する「穢れ」の意識から、彼は信仰共同体からも地域社会からも「罪人」として排除され、差別されていたはずです。目の前には、彼に背を向ける町の人たちの「人垣」がありました。彼は金の力を武器として、反対に見下してやろうと高みを目指したはずです。彼が群集に阻まれて、木に登る姿は象徴的です。
3.《見上げる》 そんなザアカイに向かって、イエスさまは「上を見上げて」呼び掛けます。この地上で最も低い所に置かれている者よりも、主は更に低い所から声を掛けられるのです。「いちじく桑の木」は、貧しい人が小さな実を採って飢えを凌いだとされる木です。豊かなオアシスの町、エリコでは、普通の人たちは見向きもしなかった木でした。イエスさまは「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言なさいます。ザアカイが長年、差別と疎外の中で奪われていた、低くもなく高くもない自分自身を回復したからです。イエスさまを迎え入れることは、私たちが自身を、あるがままに受け入れることです。私たちがドン底にある時も、驕る時も、死の床にある時も、主は更に低い所から呼び掛けておられます。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(6:22)
1.《人は馬の如し》 ルターは「人間は馬の如きである」と言います。神を騎手にしているか、悪魔を騎手にしているか、そのどちらかなのです。どんな名馬、駿馬も乗り手次第です。走るものも走りません。また、駄馬でも騎手が良ければ、意外に走るのです。神に騎手になって頂ければ間違いはありませんが、悪魔が騎手になっていると、どこに連れて行かれるか分かったものではありません。パウロの「義の奴隷」と「罪の奴隷」の譬えも全く同じことです。
2.《人生は灰色か》 イエスさまも「2人の主人に兼ね仕えることは出来ない」と仰っています。「あれかこれか」の二者択一なのです。どっち付かずの中立もなければ、「あれもこれも」の両方もありません。「義の奴隷」は「仕える生き方」です。自分の存在が誰かのお役に立つ時、生き甲斐があるのです。私たちの人生を「神なし」として生きるか、「神あり」として生きるかの選択なのです。そうは言っても、「人間の実相は白黒つけられず灰色ではないか」という反論があります。しかし、人の目にはどうあれ、神の御目から見れば明らかなのです。
3.《雪よりも白く》 「聖なる生活の実」は「きよさに至る実」と訳されていました。「きよさ」と言っても「清潔」ではありません。むしろ「聖潔」なのです。「ハギアスモス」は「潔い状態」、その形容詞「ハギオス」は「聖なる」です。「聖霊」や「聖徒」も、この語を使います。神さまの聖に倣うという意味です。とは言え、これはキリスト者の生活目標として掲げられているのではありません。看板やスローガンでもありません。今現在の状態なのです。およそ信じられないことですが、キリスト者とされた結果、私たちのような汚れ果てた者でも、神さまによって創り変えられて、主の「聖なる」ことを告白するように促されているのです。その告白と証の人生こそが「聖なる生活の実」なのです。
朝日研一朗牧師