2014年07月29日

8月第1主日礼拝(平和聖日)

       8月 3日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”塵に口をつけよ” 音楽       朝日研一朗牧師
聖  書  哀歌 3章22節〜36節(p.1289)
賛 美 歌  27、559、490、424、520、82、26
交読詩篇  35編22〜28節(p.42)

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posted by 行人坂教会 at 09:22 | 毎週の礼拝案内

2014年07月28日

イエスさまのしつけ【エフェソ6:1〜4】

聖句「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(6:4)

1.《しつけ糸》子育中の親たちは「躾がなっていない」と責められているように感じて、子どもに暴力を振るってしまうことがあります。小児科医の内藤寿七郎によれば、本当の「しつけ」は和裁の「しつけ糸」から来ているのだそうです。襟などの癖付けのために、弱くて切れ易い糸を使うのです。「仕付け」は「馴染ませる」ことに過ぎず、切れても構わないのです。何も縛り付ける必要はなく、優しく、緩やかに、根気強く働き掛けるのです。

2.《父なる神》聖書の神は伝統的に「父なる神」と唱えられて来ました。どうして聖書の神は「父」の表象を帯びるように成ったのでしょうか。紀元前586年の「バビロン捕囚」以後にシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が生まれ、やがて、少年たちが律法を学ぶ寺子屋のような私塾も併設されるようになります。しかし、それ以前には、父親こそが子の祭司であり、教師だったのです。「父/アーブ」とは「導く者、教師」の意味であり、ヤハウェこそはイスラエルを導く唯一の「父」と呼ばれたのです。その流れで、人々は預言者や祭司にも「父よ」と呼び掛けたのです。今でもカトリックの司祭を「神父」と言っています。

3.《霊肉の糧》新約聖書では、再び教育の中心は家庭に戻って来ます。「父と母を敬いなさい」はモーセの十戒です。幸福の約束も「申命記」律法をそのままに受け継いでいます。「子供を怒らせる」は「興奮、激昂させる、刺激する」ことです。赤ちゃんをビックリさせてはいけないのと同じです。父親が怒鳴ったり、暴力を振るって、子どもを臆病にしてはいけない(コロサイ3:21)のです。「育てなさい」は「養う、滋養を与える、大きくする」です。まさに「食育」です。但し、聖書ですから「肉の糧」だけで足れりとはしません。「霊の糧」も必要です。私たちの体は、私たちがこれまで食べて来た物で出来ています。私たちの霊も、これまで私たちが信じ、望み、愛したもので出来ているのです。

朝日研一朗牧師

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2014年07月23日

惨劇のイマジネーション

1.ソンタグ

「特に日本映画の場合にそうなのだが、必ずしも日本映画ばかりではなく、一般に、核兵器の使用や未来の核戦争の可能性によって、大量の創傷が現実に存在するという気持を観客は持たされる。空想科学映画のほとんどはこの創傷の証人であり、ある意味で、これを払拭しようとする試みである。」

アメリカの批評家、スーザン・ソンタグの古典的な評論集、『反解釈』の中の「惨劇のイマジネーション」(1965年/邦訳1971年:河村錠一郎訳)からの引用です。ソンタグの『反解釈』は70年安保以降のサブカル世代には「聖書」のように崇められた本でした。

「空想科学映画」として、ソンタグが具体的に題名を挙げているいるのは、『キング・コング』(1933年)、『地球最後の日』(1951年)、『遊星よりの物体X』(1951年)、『宇宙水爆戦』(1955年)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年)、『縮みゆく人間』(1957年)、『生きていた人形』(1958年)、『ハエ男の恐怖』(1958年)、『脳を喰う怪物』(1958年)、『地球全滅』(1959年)、『光る眼』(1960年)、『タイムマシン』(1960年)等です。日本映画からも『空の大怪獣ラドン』(1956年)、『地球防衛軍』(1957年)、『美女と液体人間』(1958年)、『宇宙大戦争』(1959年)が採り上げられています。

それにしても、翻訳をした人は、映画にもSFにも全く無関心だったようで、公開作品の邦題すら満足に表記できていませんでした。そもそも、ソンタグ自身が『ラドン』について詳述しながらも『ゴジラ』に全く言及しない不徹底ぶりです。彼女が「ラドン」に特別な思い入れを持った、コアなファンだったということでは決してないと思います。恐らく、単に執筆時点で「ゴジラ」を見ていなかったのでしょう。

2.トラウマ

それでも、ソンタグの慧眼には敬意を表さない訳には参りません。いみじくも彼女が断言しているように、SF映画や怪獣映画は「現実に存在する」「創傷の証人」として、観客に戦争の傷痍や被爆の後遺症を想起させる働き、訴えかける役割を果たしているのです。

例えば、『ゴジラ』(1954年)の台詞の中で、何度、戦争への言及があるでしょうか。電車で通勤中の会社員が溜息混じりに「ああ、また疎開か」と呟きます。また、ある女性は「折角、長崎の原爆を生き延びた大切な体なんだから…」と言います。ゴジラに蹂躙される銀座で、戦争未亡人と思しき女性が子どもたちを抱きしめて「もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ」と言い聞かせます。

ところが、この後、まるで野戦病院の如き「救急介護所」の場面で、母親だけが亡くなり、生き残った女の子も被曝していることが明らかになります。しかも、この女の子にガイガーカウンター(放射線測定装置)を向けた放射線技師の田畑は押し黙ったまま、恵美子(河内桃子)に向かって左右に首を振って絶望的であることを伝えます。

この場面での伊福部昭の音楽は『原爆の子』(1952年)、『ひろしま』(1953年)の曲調と見事にかぶっています(2年後の『ビルマの竪琴』の「白骨街道」の劇伴にも通じます)。『ゴジラ』が『原爆の子』『ひろしま』と共に、伊福部の「原爆三部作」と呼ばれる所以です。

品川、田町、新橋、銀座、日比谷、数寄屋橋、永田町、上野、浅草…。ゴジラの通った跡は火の海と化しています。辛うじて高台に避難した人たちは、夜空を焦がして燃え上がる東京の街を呆然として見詰めています。古生物学者の山根博士(志村喬)の息子、新吉が思わず「畜生!」「畜生!」と、悲痛な叫びを発します。ゴジラが勝鬨橋を破壊する前の場面ですから、隅田川から東京湾へ向かっている訳です。そう、これは東京大空襲の再現なのです。

このように、『ゴジラ』は戦火の記憶を痛烈に呼び覚ます作品であったのです。当時の観客の感想にも「戦争を思い出すからイヤだ」という意味のものが数多くあったようです。さて、ここまでは、大勢の人たちが指摘していることです。問題はここからです。

3.チンプカ

私が『ゴジラ』を劇場で観た時点(1980年代)では、「もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ」の台詞が、若い観客の大爆笑を誘った事実を、どうしても言い添えねばなりません。「戦争を思い出」させる悲痛な描写の1つであったはずが、製作から30年を経て、あたかもコメディのように変質してしまっていたのです。

そうです。ソンタグの慧眼が本当に鋭いのは、この点なのです。「現実に存在する」戦争の傷痍と核の脅威を、この種の映画作品は想起させるのみならず、同時に「払拭させる試み」にも成り得ていたということなのです。

『ゴジラ』の監督、本多猪四郎は、8年間も日中戦争に従軍させられた挙句、大陸で終戦を迎え、復員して帰郷する列車から壊滅した広島の惨状を目撃するという衝撃的な体験をしています。また、音楽の伊福部昭は、兄の勲が戦時下研究の放射線障害により、28歳の若さで死亡して居り、核と放射能に対しては、終生、強い怨嗟の念を抱いていたと言われています。いずれも「ゴジラ製作神話」として語り継がれている話です。

つまり、本多も伊福部も表現のモチベーションにおいては、かなり「本気モード」だったということなのです。にも拘わらず、時代の変化が人々の記憶を風化させるのみならず、表現そのものが「陳腐化」という宿痾を内包しているのです。

新作『GODZILLA/ゴジラ』には、福島第一原発からMUTOという別の怪獣が登場するそうです。「ゴジラ」生誕60周年に、自衛隊が米軍の先兵と成って(世界展開して)奉仕するという、愚かな憲法解釈が国会で承認され、安倍首相の肝煎りで原発推進に舵取りがされる、これ以上に皮肉な「惨劇」、イマジネーションの欠落は存在しません。

牧師 朝日研一朗

【2014年8月の月報より】

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幽径耽読 Book Illuminationその16

  • 「ジョナサンと宇宙クジラ」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編・訳、ハヤカワ文庫)
    二男が小学生の時、アンドロイド教師と子どもたちとの交流を描いた『ケンジ先生』というお芝居をしました(演劇集団キャラメルボックスの成井豊の台本)。その元ネタは、ヤングの「九月は三十日あった」だったのです。ヤング作品の重要なテーマの1つに、異種族間の恋愛があることに気付きました。アンドロイド教師、異世界から来た絵描き、宇宙クジラ、テレポートする宇宙犬、異星人のドクター、どれも主人公に絡む女性です。最も哀切な物語「いかなる海の洞に」等は「異種婚姻譚」の典型です。旧約聖書が盛んに引用され、ギリシアや北欧の神話表象も多数出て来ますが、現代社会が舞台であるだけに、読者に奇妙な歪み(不安と恐怖)を感じさせるのです。その意味では、楳図かずおの「半魚人」に似ています。但し、仄かに茜さす朝まだきのような余韻の残る終わり方が切ないのです。
  • 「プリニウス」第1巻(ヤマザキマリ×とり・みき作、新潮社)
    マンガの作画コラボは珍しいですね。しかも、主人公が博物学者のプリニウスです。リアリズムを基調とした画の中に、存在しないはずの半魚人やマンドラゴラが出て来たりします。食べる場面、入浴する場面、旅する場面、自然現象や動植物についての薀蓄を垂れる場面の連続で、作者たちの関心事、つまり「生きるとはコレ!」がよく伝わります。今の日本のテレビがつまらないのは、芸能人や有名人に、その類いをさせての番組作りに終始しているのに、それに反比例するように、私たちは、そこから遠ざけられているのです。芸人が食ったり風呂入ったりするのを見せられて、何が楽しいのか。正直、視聴者はコケにされています。
  • 「混沌ホテル」(コニー・ウィリス著、大森望訳、ハヤカワ文庫)
    降参です。白旗を掲げます。表題作は、国際量子物理学会がハリウッドのホテルで開催されて、文字通り「カオス理論」の様相を呈する話。「女王様でも」は、生理をテーマにしたSF。「インサイダー疑惑」は、自称「霊能者」のマインド・コントロール・セミナーをテーマにしています。「魂はみずからの社会を選ぶ#1」に至っては、エミリー・ディキンスンが彼女の難解な詩によって、(H・G・ウェルズ『宇宙戦争』の)火星人を撃退するまでが、文芸批評誌のパスティーシュで綴られています。特に、脚注の「わたしにとってのアマーストは、赤毛のアンがいないアヴォンリー」「レイチェル・リンド夫人で構成されている」退屈な街と喝破しているのを読んで、大爆笑でした(新島譲が聞いたら泣くよね)。「まれびとこぞりて」は、異星人とのコミュニケーションがテーマですが、その鍵と成るのが聖歌隊とは…。「賛美歌は、三番の歌詞、五番の歌詞が一番ひどい」という著者の意見に、また爆笑。教会の聖歌隊メンバーとして30年以上奉仕した著者ならではの味わい深い指摘です。
  • 「無伴奏ソナタ〔新訳版〕」(オースン・スコット・カード著、金子浩訳、ハヤカワ文庫)
    「死すべき神々」は、永遠の命を持つエイリアンが地球にやって来て、定住し、地球の各種宗教施設を真似た建造物を各地につくり、死すべきものである(mortal)が故に人間を礼拝するという、不思議な発想の物語です。モルモン教の大聖堂が出て来たのは、単に舞台がユタ州だからかと思っていました。「解放の時」は、自宅に帰ったら書斎に見知らぬ遺体の入った棺が(モノリスのように)置かれているという不条理な物語。ここにもモルモン教のビショップが登場したり、信徒の生活や思考が描かれていて、漸く著者がモルモン教徒であると分かりました。それが分かると、不妊症のマークとメリージョー夫妻の苦悩が理解できます。それにしても、こんなにリベラルで、異文化や他宗教を尊重して多様な価値観を受容するモルモン教徒がいるのですね。自らの偏見と先入観を恥じます。文句なしに素晴らしいのは表題作、有名な「エンダーのゲーム」、四肢麻痺の少女がヒロインの「磁器のサラマンダー」、ビアフラの生き残りの少女の成長を描いた「アグネスとヘクトルたちの物語」も全て、他者優先の思想が背骨として通っていて、感心しました。
  • 「二つ、三ついいわすれたこと」(ジョイス・キャロル・オーツ著、神戸万智訳、岩波書店)
    多分、私にとっては一番縁遠い世界が舞台です。アメリカの金持ちの子女が入る名門私立学校、女の子たち数人のグループを中心にした物語です。ティンクという少女が中心にいて、ドラマ展開の原動力なのです。ところが、彼女が死んでしまった後から物語り始められているのです。その癒し難い喪失が、やがて少しずつ女の子たちを繋ぎ直して行くのです。そもそも「religion」とは「繋ぎ直す技」であったと、改めて思い出しました。何しろ、既に死んでしまった少女がヒロインで、しかも、彼女が生き続けている他の子たちの魂に働きかけ、人生に介入して来るのです。これがreligionでなくて何でしょう。癒し得ない深い傷、重いダメージであればこそ、そこから生まれる何かがあるのかも知れません。
  • 「胸の火は消えず」(メイ・シンクレア著、南條竹則訳、創元推理文庫)
    ゴーストストーリーは、必然的に、人間の生と死の問題を扱うことになるのです。つまり、作者の死生観が隠しようもなく露呈される訳で、大抵は、浅墓な故の幽霊登場となります。思わず「もっと深く埋めろよ!」と怒鳴りたくなります。しかし、勿論、メイ・シンクレアは違います。やはり、評判通り「仲介者」と「被害者」が傑出しています。「仲介者」には、両親のネグレクトの結果、死んだ幼児の幽霊が出て来ます。幼児虐待や育児放棄をテーマに、今から百年以上も前に書かれた物語があったのですね。同じく「被害者」も、犠牲者が加害者を許す物語なのです。因果応報と怨念と呪縛が主流の日本の幽霊ものでは、ちょっと考えられない設定です。霊的な力を与えられたがために苦労するヒロインの「水晶の瑕」は、ケイト・ブランシェット主演の『ギフト』を思い出させます。
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2014年07月22日

7月第4主日礼拝

       7月27日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”イエスさまのしつけ” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  エフェソの信徒への手紙 6章1節〜4節(p.359)
賛 美 歌  27、133、490、106、544、25
交読詩篇  3編1〜9節(p.10)

・讃美歌練習(8月の讃美歌:559番)  礼拝後    礼拝堂

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2014年07月21日

何のために走るのか【フィリピ3:12〜4:1】

聖句「神がキリスト・イエスによって上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(3:14)

1.《一人の道》 女性デュオ、ピンク・ピクルスの「一人の道」(1972年)は、東京オリンピックで銅メダルを受賞しながらも、4年後に自らの命を絶った円谷幸吉選手の遺書を参考にして作られた歌です。アスリートたちが負わされる深い孤独と痛みを思います。パウロの時代にも、ギリシアでは4年に1度のオリンピア祭(古代オリンピック)は開催されていました。彼が譬に使っているのは、マラソンではなく「ドリコス走」(4608メートル走)のことです。

2.《求める道》 キリスト教は「悟りの宗教」ではなく「求める宗教」です。「悟り」が徹頭徹尾、自分を対象化する作業であるのに対して、「求め」は常に相手を必要とします。しかし、求める相手が誰であるかによって、私たちの求める「求め」の質や内容が自ずと変わって来るのです。誰も貧乏人の家に金の無心に行かないのと同じです。「御利益宗教」を見れば分かるように、商売繁盛、家内安全、学業成就、厄除けと、行き先の寺社仏閣によって御利益が明瞭です。けれども、これでは、もはや「神の世界」ではなく「人の世界」です。

3.《私の利益》 それでは、私たちの利益とは何でしょうか。何が自分に幸いするのか、本当は、私たち自身にも分からないのです。目先の欲得だけ追いかけて、本当に幸せに成れるでしょうか。私たちの真の利益を知っているのは、神さまなのですから、神さまに尋ねなくてはなりません。「御利益信仰」では「鏡の前に立つ」だけで、人間の欲望を映し出すばかりですが、私たちの信仰は、自らの「心の窓を開ける」ことなのです。パウロも、自分の肉を頼りにするのは止めて、神の霊を頼る生き方に転換した経緯を開陳しています。信仰においては、自分のペースで走れば良いのです。但し、目標と方向だけは間違ってはいけません。自らが神仏に成ることではなく、キリスト・イエスを求めるのです。

朝日研一朗牧師

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2014年07月15日

7月第3主日礼拝

       7月20日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”何のために走るのか” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  フィリピの信徒への手紙 3章12節〜4章1節(p.365)
賛 美 歌  27、133、490、537、528、25
交読詩篇  3編1〜9節(p.10)

あいさつの会(相互交流の会)      礼拝後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール


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2014年07月14日

低き所に臨みたまえ【ルカ19:1〜10】

聖句「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい。』」(19:5)

1.《ザアカイ》 子どもたちには「ザアカイは背が低かったので…」と話します。子どもの立場から、素直に共感できるのです。しかし、本当に貶められていたのは、むしろ、彼の「徴税人」という仕事なのです。物物交換の暮らしから貨幣経済への転換期でした。福音書を読むと、ギリシアやローマの通貨単位が多く出て来て「グローバル化」の時代だったことが分かります。徴税人は請負制で、不当に多くの税を取り立てて、私腹を肥やす悪人もいたようです。

2.《見くだす》 エリコは青果の集積地、交通の要衝でした。そのエリコの徴税権をローマ帝国から買い取って、部下の徴税人を使役する「徴税人の頭」ザアカイは、恐らく裕福だったことでしょう。しかし、異邦人との接触や貨幣そのものに対する「穢れ」の意識から、彼は信仰共同体からも地域社会からも「罪人」として排除され、差別されていたはずです。目の前には、彼に背を向ける町の人たちの「人垣」がありました。彼は金の力を武器として、反対に見下してやろうと高みを目指したはずです。彼が群集に阻まれて、木に登る姿は象徴的です。

3.《見上げる》 そんなザアカイに向かって、イエスさまは「上を見上げて」呼び掛けます。この地上で最も低い所に置かれている者よりも、主は更に低い所から声を掛けられるのです。「いちじく桑の木」は、貧しい人が小さな実を採って飢えを凌いだとされる木です。豊かなオアシスの町、エリコでは、普通の人たちは見向きもしなかった木でした。イエスさまは「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言なさいます。ザアカイが長年、差別と疎外の中で奪われていた、低くもなく高くもない自分自身を回復したからです。イエスさまを迎え入れることは、私たちが自身を、あるがままに受け入れることです。私たちがドン底にある時も、驕る時も、死の床にある時も、主は更に低い所から呼び掛けておられます。

朝日研一朗牧師

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2014年07月08日

7月第2主日礼拝

       7月13日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”低き所に臨みたまえ” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 19章1節〜10節(p.164)
賛 美 歌  27、133、490、578、448、25
交読詩篇  3編1〜9節(p.10)

・麺アット・ワーク!(第1回)  礼拝後〜3時    階下ホール
 ※ 焼きソバを食べながら、窓枠ペンキ塗りをしましょう。

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2014年07月07日

聖なる生活の実【ローマ6:15〜23】

聖句「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(6:22)

1.《人は馬の如し》 ルターは「人間は馬の如きである」と言います。神を騎手にしているか、悪魔を騎手にしているか、そのどちらかなのです。どんな名馬、駿馬も乗り手次第です。走るものも走りません。また、駄馬でも騎手が良ければ、意外に走るのです。神に騎手になって頂ければ間違いはありませんが、悪魔が騎手になっていると、どこに連れて行かれるか分かったものではありません。パウロの「義の奴隷」と「罪の奴隷」の譬えも全く同じことです。

2.《人生は灰色か》 イエスさまも「2人の主人に兼ね仕えることは出来ない」と仰っています。「あれかこれか」の二者択一なのです。どっち付かずの中立もなければ、「あれもこれも」の両方もありません。「義の奴隷」は「仕える生き方」です。自分の存在が誰かのお役に立つ時、生き甲斐があるのです。私たちの人生を「神なし」として生きるか、「神あり」として生きるかの選択なのです。そうは言っても、「人間の実相は白黒つけられず灰色ではないか」という反論があります。しかし、人の目にはどうあれ、神の御目から見れば明らかなのです。

3.《雪よりも白く》 「聖なる生活の実」は「きよさに至る実」と訳されていました。「きよさ」と言っても「清潔」ではありません。むしろ「聖潔」なのです。「ハギアスモス」は「潔い状態」、その形容詞「ハギオス」は「聖なる」です。「聖霊」や「聖徒」も、この語を使います。神さまの聖に倣うという意味です。とは言え、これはキリスト者の生活目標として掲げられているのではありません。看板やスローガンでもありません。今現在の状態なのです。およそ信じられないことですが、キリスト者とされた結果、私たちのような汚れ果てた者でも、神さまによって創り変えられて、主の「聖なる」ことを告白するように促されているのです。その告白と証の人生こそが「聖なる生活の実」なのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:15 | 毎週の講壇から