2014年07月23日

惨劇のイマジネーション

1.ソンタグ

「特に日本映画の場合にそうなのだが、必ずしも日本映画ばかりではなく、一般に、核兵器の使用や未来の核戦争の可能性によって、大量の創傷が現実に存在するという気持を観客は持たされる。空想科学映画のほとんどはこの創傷の証人であり、ある意味で、これを払拭しようとする試みである。」

アメリカの批評家、スーザン・ソンタグの古典的な評論集、『反解釈』の中の「惨劇のイマジネーション」(1965年/邦訳1971年:河村錠一郎訳)からの引用です。ソンタグの『反解釈』は70年安保以降のサブカル世代には「聖書」のように崇められた本でした。

「空想科学映画」として、ソンタグが具体的に題名を挙げているいるのは、『キング・コング』(1933年)、『地球最後の日』(1951年)、『遊星よりの物体X』(1951年)、『宇宙水爆戦』(1955年)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956年)、『縮みゆく人間』(1957年)、『生きていた人形』(1958年)、『ハエ男の恐怖』(1958年)、『脳を喰う怪物』(1958年)、『地球全滅』(1959年)、『光る眼』(1960年)、『タイムマシン』(1960年)等です。日本映画からも『空の大怪獣ラドン』(1956年)、『地球防衛軍』(1957年)、『美女と液体人間』(1958年)、『宇宙大戦争』(1959年)が採り上げられています。

それにしても、翻訳をした人は、映画にもSFにも全く無関心だったようで、公開作品の邦題すら満足に表記できていませんでした。そもそも、ソンタグ自身が『ラドン』について詳述しながらも『ゴジラ』に全く言及しない不徹底ぶりです。彼女が「ラドン」に特別な思い入れを持った、コアなファンだったということでは決してないと思います。恐らく、単に執筆時点で「ゴジラ」を見ていなかったのでしょう。

2.トラウマ

それでも、ソンタグの慧眼には敬意を表さない訳には参りません。いみじくも彼女が断言しているように、SF映画や怪獣映画は「現実に存在する」「創傷の証人」として、観客に戦争の傷痍や被爆の後遺症を想起させる働き、訴えかける役割を果たしているのです。

例えば、『ゴジラ』(1954年)の台詞の中で、何度、戦争への言及があるでしょうか。電車で通勤中の会社員が溜息混じりに「ああ、また疎開か」と呟きます。また、ある女性は「折角、長崎の原爆を生き延びた大切な体なんだから…」と言います。ゴジラに蹂躙される銀座で、戦争未亡人と思しき女性が子どもたちを抱きしめて「もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ」と言い聞かせます。

ところが、この後、まるで野戦病院の如き「救急介護所」の場面で、母親だけが亡くなり、生き残った女の子も被曝していることが明らかになります。しかも、この女の子にガイガーカウンター(放射線測定装置)を向けた放射線技師の田畑は押し黙ったまま、恵美子(河内桃子)に向かって左右に首を振って絶望的であることを伝えます。

この場面での伊福部昭の音楽は『原爆の子』(1952年)、『ひろしま』(1953年)の曲調と見事にかぶっています(2年後の『ビルマの竪琴』の「白骨街道」の劇伴にも通じます)。『ゴジラ』が『原爆の子』『ひろしま』と共に、伊福部の「原爆三部作」と呼ばれる所以です。

品川、田町、新橋、銀座、日比谷、数寄屋橋、永田町、上野、浅草…。ゴジラの通った跡は火の海と化しています。辛うじて高台に避難した人たちは、夜空を焦がして燃え上がる東京の街を呆然として見詰めています。古生物学者の山根博士(志村喬)の息子、新吉が思わず「畜生!」「畜生!」と、悲痛な叫びを発します。ゴジラが勝鬨橋を破壊する前の場面ですから、隅田川から東京湾へ向かっている訳です。そう、これは東京大空襲の再現なのです。

このように、『ゴジラ』は戦火の記憶を痛烈に呼び覚ます作品であったのです。当時の観客の感想にも「戦争を思い出すからイヤだ」という意味のものが数多くあったようです。さて、ここまでは、大勢の人たちが指摘していることです。問題はここからです。

3.チンプカ

私が『ゴジラ』を劇場で観た時点(1980年代)では、「もうすぐ、お父ちゃまのところへ行くのよ」の台詞が、若い観客の大爆笑を誘った事実を、どうしても言い添えねばなりません。「戦争を思い出」させる悲痛な描写の1つであったはずが、製作から30年を経て、あたかもコメディのように変質してしまっていたのです。

そうです。ソンタグの慧眼が本当に鋭いのは、この点なのです。「現実に存在する」戦争の傷痍と核の脅威を、この種の映画作品は想起させるのみならず、同時に「払拭させる試み」にも成り得ていたということなのです。

『ゴジラ』の監督、本多猪四郎は、8年間も日中戦争に従軍させられた挙句、大陸で終戦を迎え、復員して帰郷する列車から壊滅した広島の惨状を目撃するという衝撃的な体験をしています。また、音楽の伊福部昭は、兄の勲が戦時下研究の放射線障害により、28歳の若さで死亡して居り、核と放射能に対しては、終生、強い怨嗟の念を抱いていたと言われています。いずれも「ゴジラ製作神話」として語り継がれている話です。

つまり、本多も伊福部も表現のモチベーションにおいては、かなり「本気モード」だったということなのです。にも拘わらず、時代の変化が人々の記憶を風化させるのみならず、表現そのものが「陳腐化」という宿痾を内包しているのです。

新作『GODZILLA/ゴジラ』には、福島第一原発からMUTOという別の怪獣が登場するそうです。「ゴジラ」生誕60周年に、自衛隊が米軍の先兵と成って(世界展開して)奉仕するという、愚かな憲法解釈が国会で承認され、安倍首相の肝煎りで原発推進に舵取りがされる、これ以上に皮肉な「惨劇」、イマジネーションの欠落は存在しません。

牧師 朝日研一朗

【2014年8月の月報より】

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幽径耽読 Book Illuminationその16

  • 「ジョナサンと宇宙クジラ」(ロバート・F・ヤング著、伊藤典夫編・訳、ハヤカワ文庫)
    二男が小学生の時、アンドロイド教師と子どもたちとの交流を描いた『ケンジ先生』というお芝居をしました(演劇集団キャラメルボックスの成井豊の台本)。その元ネタは、ヤングの「九月は三十日あった」だったのです。ヤング作品の重要なテーマの1つに、異種族間の恋愛があることに気付きました。アンドロイド教師、異世界から来た絵描き、宇宙クジラ、テレポートする宇宙犬、異星人のドクター、どれも主人公に絡む女性です。最も哀切な物語「いかなる海の洞に」等は「異種婚姻譚」の典型です。旧約聖書が盛んに引用され、ギリシアや北欧の神話表象も多数出て来ますが、現代社会が舞台であるだけに、読者に奇妙な歪み(不安と恐怖)を感じさせるのです。その意味では、楳図かずおの「半魚人」に似ています。但し、仄かに茜さす朝まだきのような余韻の残る終わり方が切ないのです。
  • 「プリニウス」第1巻(ヤマザキマリ×とり・みき作、新潮社)
    マンガの作画コラボは珍しいですね。しかも、主人公が博物学者のプリニウスです。リアリズムを基調とした画の中に、存在しないはずの半魚人やマンドラゴラが出て来たりします。食べる場面、入浴する場面、旅する場面、自然現象や動植物についての薀蓄を垂れる場面の連続で、作者たちの関心事、つまり「生きるとはコレ!」がよく伝わります。今の日本のテレビがつまらないのは、芸能人や有名人に、その類いをさせての番組作りに終始しているのに、それに反比例するように、私たちは、そこから遠ざけられているのです。芸人が食ったり風呂入ったりするのを見せられて、何が楽しいのか。正直、視聴者はコケにされています。
  • 「混沌ホテル」(コニー・ウィリス著、大森望訳、ハヤカワ文庫)
    降参です。白旗を掲げます。表題作は、国際量子物理学会がハリウッドのホテルで開催されて、文字通り「カオス理論」の様相を呈する話。「女王様でも」は、生理をテーマにしたSF。「インサイダー疑惑」は、自称「霊能者」のマインド・コントロール・セミナーをテーマにしています。「魂はみずからの社会を選ぶ#1」に至っては、エミリー・ディキンスンが彼女の難解な詩によって、(H・G・ウェルズ『宇宙戦争』の)火星人を撃退するまでが、文芸批評誌のパスティーシュで綴られています。特に、脚注の「わたしにとってのアマーストは、赤毛のアンがいないアヴォンリー」「レイチェル・リンド夫人で構成されている」退屈な街と喝破しているのを読んで、大爆笑でした(新島譲が聞いたら泣くよね)。「まれびとこぞりて」は、異星人とのコミュニケーションがテーマですが、その鍵と成るのが聖歌隊とは…。「賛美歌は、三番の歌詞、五番の歌詞が一番ひどい」という著者の意見に、また爆笑。教会の聖歌隊メンバーとして30年以上奉仕した著者ならではの味わい深い指摘です。
  • 「無伴奏ソナタ〔新訳版〕」(オースン・スコット・カード著、金子浩訳、ハヤカワ文庫)
    「死すべき神々」は、永遠の命を持つエイリアンが地球にやって来て、定住し、地球の各種宗教施設を真似た建造物を各地につくり、死すべきものである(mortal)が故に人間を礼拝するという、不思議な発想の物語です。モルモン教の大聖堂が出て来たのは、単に舞台がユタ州だからかと思っていました。「解放の時」は、自宅に帰ったら書斎に見知らぬ遺体の入った棺が(モノリスのように)置かれているという不条理な物語。ここにもモルモン教のビショップが登場したり、信徒の生活や思考が描かれていて、漸く著者がモルモン教徒であると分かりました。それが分かると、不妊症のマークとメリージョー夫妻の苦悩が理解できます。それにしても、こんなにリベラルで、異文化や他宗教を尊重して多様な価値観を受容するモルモン教徒がいるのですね。自らの偏見と先入観を恥じます。文句なしに素晴らしいのは表題作、有名な「エンダーのゲーム」、四肢麻痺の少女がヒロインの「磁器のサラマンダー」、ビアフラの生き残りの少女の成長を描いた「アグネスとヘクトルたちの物語」も全て、他者優先の思想が背骨として通っていて、感心しました。
  • 「二つ、三ついいわすれたこと」(ジョイス・キャロル・オーツ著、神戸万智訳、岩波書店)
    多分、私にとっては一番縁遠い世界が舞台です。アメリカの金持ちの子女が入る名門私立学校、女の子たち数人のグループを中心にした物語です。ティンクという少女が中心にいて、ドラマ展開の原動力なのです。ところが、彼女が死んでしまった後から物語り始められているのです。その癒し難い喪失が、やがて少しずつ女の子たちを繋ぎ直して行くのです。そもそも「religion」とは「繋ぎ直す技」であったと、改めて思い出しました。何しろ、既に死んでしまった少女がヒロインで、しかも、彼女が生き続けている他の子たちの魂に働きかけ、人生に介入して来るのです。これがreligionでなくて何でしょう。癒し得ない深い傷、重いダメージであればこそ、そこから生まれる何かがあるのかも知れません。
  • 「胸の火は消えず」(メイ・シンクレア著、南條竹則訳、創元推理文庫)
    ゴーストストーリーは、必然的に、人間の生と死の問題を扱うことになるのです。つまり、作者の死生観が隠しようもなく露呈される訳で、大抵は、浅墓な故の幽霊登場となります。思わず「もっと深く埋めろよ!」と怒鳴りたくなります。しかし、勿論、メイ・シンクレアは違います。やはり、評判通り「仲介者」と「被害者」が傑出しています。「仲介者」には、両親のネグレクトの結果、死んだ幼児の幽霊が出て来ます。幼児虐待や育児放棄をテーマに、今から百年以上も前に書かれた物語があったのですね。同じく「被害者」も、犠牲者が加害者を許す物語なのです。因果応報と怨念と呪縛が主流の日本の幽霊ものでは、ちょっと考えられない設定です。霊的な力を与えられたがために苦労するヒロインの「水晶の瑕」は、ケイト・ブランシェット主演の『ギフト』を思い出させます。
posted by 行人坂教会 at 10:17 | 牧師の書斎から