2014年08月30日

幽径耽読 Book Illuminationその17

  • 「昆虫はすごい」(丸山宗利著、光文社新書)
    宮崎県の海辺の町に住んでいた頃、冬の浜辺で、よくアメンボの屍骸を見たものです。積年の疑問が氷解しました。海面を漂う「ウミアメンボ」という虫だったのですね。毒でゴキブリの神経を麻痺させて、ゾンビにして操るセナガアナバチ。自らの上半身を餌として提供しながら下半身で雌と交尾するカマキリの雄。頭部を自爆させて、粘着性の液体で敵を絡め取るバクダンオオアリ。クロヤマアリの巣に入り込んで女王を暗殺し、新女王として君臨するサムライアリ。トビイロケアリを殺して、その匂いを体に塗り付け、屍骸を加えて巣の中に侵入を試みるアメイロケアリ(しかし、発覚して磔の刑に処せられたりもする)。アリの幼虫室の壁に成り切って、こっそり幼虫や蛹を食べるアリスアブの幼虫。どれを取ってもホラーです。寄主と寄生種とは、共通の祖先から分かれたという説(エメリーの法則)を聞くと、人間社会に寄生する亜人間みたいな種の出現を妄想してしまいます。
  • 「負けんとき/ヴォーリズ満喜子の種まく日々」上下巻(玉岡かおる著、新潮文庫)
    播州小野藩(兵庫県小野市)の藩主の娘、満喜子が、津田梅子、矢島楫子、廣岡浅子などとの出会いの中で成長していき、ウィリアム・メレル・ヴォーリズと結ばれます。典型的な「ビルドゥングス・ロマン」です。「負けんとき」とは、廣岡が満喜子を励ました大阪弁です(「負けないで!」)。キリスト教の宣教のために来日したと言うのに、八百万の神々や先来の仏を敬う、ヴォーリズの独特な信仰が優しくユーモラスに描かれています。ヴォーリズや満喜子の実際はともかく、(小説ですから)ここには自ずと玉岡の信仰観が反映されている訳です。「大衆作家」としての彼女の捉え方は、私たちも大いに参考にすべきでしょう。しかしながら、巻末近い、敗戦直後の部分になると、私は急速にロマンを感じなくなりました。元号の使用とか、天皇制と戦後処理(戦争責任)とか、著者はそれなりの配慮を重ねたものと思いますが、些か甘いと言わざるを得ません。神戸女学院教授として、実際にヴォーリズ建築の中で生活していたという内田樹の「解説」を興味深く読みました。
  • 「イタリア語通訳狂想曲/シモネッタのアマルコルド」(田丸公美子著、文春文庫)
    小学生の時からマカロニ・ウエスタンのファンであった私にとって、イタリア語は憧れの言語の1つでした。今でも『拳銃のバラード』(Ballata per un Pistolero)は歌えます。先日は『ガラスの部屋』の主題歌(Che Vuole Questa Musica Stasera)もカラオケで歌いました。どちらも、ペピーノ・ガリアルディの歌でした。それにしても、通訳の仕事は大変なのですね。「高い通訳料にはスケープゴートになる料金も含まれている」。「通訳の基本は、普通の人より豊富な語彙を持ち、美しい日本語が話せること。そのあとに外国語や広い知識と教養が加わって、初めてプロの仕事ができる」。「(同時通訳は)翻訳時の30倍のスピードで脳を作動させないと話者が話すスピードに追いつけない。私たち通訳者は、脳のエネルギー源であるブドウ糖の血中濃度を上げようと、ブース内でチョコレートを食べたり飴をなめたりする」。まるで『DEATH NOTE』のLですね。過酷な同時通訳の最中に、脳がショートして、イタリア語も日本語も聴き取れなくなった経験談などは余りに痛ましいです。
  • 「モロー博士の島/他九篇」(H・G・ウエルズ著、橋本槇矩・鈴木万里訳、岩波文庫)
    余りにも古典という先入観のため、ウエルズを読むのは、小学生時代の『透明人間』ダイジェスト版以来です。冒頭の「エピオルニス島」が意外に面白い。無人島に漂着した主人公が雛から育てて、懐いていたはずの巨鳥が攻撃して来るようになり、やがて全面対決の時を迎えます。これは「モロー博士」と同じモチーフですね。巻末を飾る「アリの帝国」は『巨大アリの帝国』という直接の映画化作品(愚作)よりも、ソウル・バスの『フェイズW』の不気味な印象に近い作品でした。そう言えば、「モロー博士」も、読んでいる間、私の脳裏に浮かんで来たのは、バート・ランカスターでもマーロン・ブランドでもなく、『獣人島』のチャールズ・ロートンでもなく、『緯度0大作戦』のシーザー・ロメロでした。人間社会に戻った主人公の目に、街行く人々の姿が獣人に重なって見えてしまうエピローグが抜群です。人間に従順な獣人たちが辿る末路にも悲哀を感じます。本能に目覚めて、次第に獣に退行して行くプロセスは「アルジャーノン」に共通するテーマで、切ないです。
  • 「パリ、娼婦の館/メゾン・クローズ」(鹿島茂著、角川ソフィア文庫)
    メゾン・クローズ(maison close)とは、18世紀から20世紀初頭まで存在したフランスの公娼館です。梅毒予防を主たる目的として娼婦たちを登録し、鑑札を与えていたのです。女将になるのも「現役の女」をリタイアした女性という条件があったそうです。メゾン・クローズの理想は何と女子修道院、女将のモデルは修道院長だったのです。アナール学派のアラン・コルバンの言葉が傑作です。「理想は、修道女のような売春婦を作ること、よく『働く女』ではあるが、操り人形のような従順な女、しかもとりわけ、快楽を求めない女を作りだすことである」。「赤いランタン」、番地で呼ばれる店名、鉢合わせ回避のための待合室…。映画や小説で気になっていたことの意味が分かりました。1920年代、シャバネ楼に日本女性がいたことも驚きでした。但し、著者は「日本では、どんな破廉恥な風俗が普及しても、…この、ズラリと整列した複数の娼婦の中から一人だけ自分の好みの敵娼を選び出すという『公開方式』が採用されない」と書いていますが、吉原など、格子の向こうに女たちが並んでいたと思うのですが…。
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2014年08月27日

礼拝の献げもの

1.探し求める

J・S・バッハの器楽曲に「音楽の捧げもの」(Musikalisches Opfer/BWV.1079)があります。詳しいことは知りませんが、バッハがプロイセンのフリードリヒ大王(彼自身、作曲家でした)に献呈したので、「音楽の捧げもの」と呼ばれているのでしょう。9つの楽曲から構成されていますが、私は、その第5曲目「6声のリチェルカーレ」(Ricercare a 6)というのが大好きです。

実を言うと、余りバッハには興味がありませんでした。けれども、高校時代に愛聴していたNHK-FMの番組に「現代の音楽」というのがあって、毎回、ペンデレツキやヘンツェ、リゲティやクセナキスの不協和音を楽しみにしていたのです。その頃の私は「ロックならプログレ、ジャズならフリー」という風に、脳天をハンマーで叩くようなものが真の音楽であると堅く信じていたのです。

「現代の音楽」が始まると(私の聴いていた頃は)、新ウィーン楽派のアントン・ヴェーベルンがオーケストラ用に編曲した「6声のリチェルカーレ」が流れるのです。そして、音楽評論家の上浪渡(うえなみわたる)のナレーションが被さるのでした。ラジオを通して、あたかも陰府の世界から聴こえて来るような雰囲気に、私はゾクゾクしたものです(殆ど「霊界ラジオ」ですね)。調べてみたら、上浪さん、2003年に亡くなっていました。日本基督教団井草教会でお葬儀が行われています。

因みに「リチェルカーレ」とは「探求」を意味するイタリア語だそうです。後に続く旋法や調を「探し求める」ことに由来するそうです。ルネサンス音楽や初期バロック音楽の様式なのだそうですが、何かしら神秘的な語です。

2.席上献金袋

この9月から、毎週の主日礼拝の際、受付台の上に「礼拝(席上)献金袋」を置くことになりました。礼拝委員会で企画して、役員会の承認を得て、モデルを作成して、改めて役員会で意見交換をして作り直しました。封筒の両面に、礼拝(席上)献金の主旨について説明書きがしてあります。

「礼拝(席上)献金袋」、その下に「Please Use for Offering」と英語の記載も加えたのは外国の人も出席されることがあるからです。この「Offering/献金、献げもの」という語を改めて見ていて、バッハの「捧げもの/Opfer」を思い出した訳です。

その後には、このように書きました。「礼拝(席上)献金は、今日、神さまから与えられた恵みと祝福に感謝してささげます。あるいは、明日への願いと希望を託してささげます。金額に決まりはありません。むしろ、神さまは、ささげる人の魂を見ておられます。祈りをこめて献金をおささげしましょう。キリスト教の礼拝に初めていらっしゃる等して、お持ち合わせのない方、「献金」の主旨に納得できない方は、どうぞ、この袋を、そのまま、係が回す献金かご(黒色布製)の中にお入れください。」

裏面には、献金についての聖句を書きました。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(コリントの信徒への手紙U9章6〜7節)」

どうぞ、会員の皆さんも一度手に取って御覧ください。記載からもお分かりのように、封筒の「献金袋」を用意したのは、礼拝に初めていらっしゃった人、教会の礼拝に慣れていない人への配慮です。

今年の初め、八木谷涼子著『もっと教会を行きやすくする本/「新来者」から日本のキリスト教界へ』(キリスト新聞社)という、画期的な本が出版されました。「伝道」「宣教」「信仰の継承」等、観念論を云々する前に、是非とも読まなければならない本です。その中で、新来者にとって最も意味不明で困惑するのは「献金」と「聖餐式」であることが言われています。しかも、多くの教会において何の説明も行なわれないまま、粛々と為されていて、新来者は置き去りにされている時間なのです。

3.楽園への鍵

以前から「礼拝(席上)献金袋」を使用している教会は数多くあります。しかし、我が行人坂教会では、これまで、そのような配慮をして参りませんでした。勿論、会員の皆さんに「礼拝(席上)献金袋」の使用を強制するものではありません。これまで通り、裸のまま、係が廻す「献金かご」(黒色布製)の中に入れて下さって結構です。反対に「礼拝(席上)献金袋」を使用して下さっても結構です。

教会によって「礼拝献金」の時間の在り方は、実に様々です。会衆が講壇の前まで行列をして、各自お祈りしながら、銀のお盆の上に紙幣やコインを置いて行く教会もあります。これを礼拝学では「奉献の行進/Offertory Procession」と言います。「奉献」としての「献金」と「聖餐」とは繋がっているのです。「差し上げる、奉げる」という意味の「アナフォラ/anaphora」という語(ヘブライ人への手紙7章27節)が、東方教会においては「聖餐」を呼ぶ名称と成っているくらいです。そもそも「奉献」は、キリストが御自身を与え給うたことに対する応答なのです(コリントの信徒への手紙U8章9節)。

「月定献金/約定献金」は、教会運営を支えるために会員に課せられた責任ですが、「礼拝(席上)献金」には、会員であるか否か、キリスト者である否かの区別はありません。その時その場に共に集っていること、「存在と時間」の共有だけが重要なのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカによる福音書23章43節)の御言葉を開く鍵なのです。

牧師 朝日研一朗

【2014年9月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 09:32 | ┣会報巻頭言など

2014年08月26日

8月第5主日礼拝

       8月31日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”心の包皮を取り去れ” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  エレミヤ書 4章1〜4節(p.1180)
賛 美 歌  27、559、490、195、476、26
交読詩篇  35編22〜28節(p.42)

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2014年08月25日

生まれ変わる、その時【ルカ7:36〜50】

聖句「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(7:50)

1.《神学生に教えられ》 代務をしている教会で葬儀がありました。準備の慌しさの中で未亡人が取り残され、実習の神学生が所在無げに座っていました。ご夫人は他に語るべき相手もなく、傍らの神学生に召された夫との人生を語ります。術を知らぬ神学生は、頷きつつ聞くばかりでした。後日、彼女が「神学生にどれだけ癒されたか分からない」と感謝を語りました。聞くことしか出来ぬ神学生が図らずも彼女の思いの全てを受け止めたのです。

2.《試練の中での経験》 私は「網膜色素変性症」という疾病のために視力を失いました。その頃、偶然出会った牧師に愚痴を聞いて頂く機会を得ました。神さまの話も聖書の話もせずに、週に一度ただひたすらに愚痴を聞く牧師。いつしか私は知らず知らずに生きる力を取り戻し、自分から聖書を開いていました。それまで殆ど涙を見せることのなかった私が、思わず号泣してしまったのが、本日の聖書の箇所です。ここは、私にとって、とても大切な箇所の1つです。

3.《生まれ変わる》 3人の人物が登場します。主イエス・キリスト、ファリサイ人のシモン、そして「罪深い」とされる女性です。この3人の間に出会いがありました。しかし、シモンはその出会いに深い関心も意識も抱きませんでした。しかし、「罪深い」とされる女性は、主イエスを聖なる方と信じ、主のすべてを受け入れました。また、主イエスも、当時受け入れ難いとされていた「罪深さ」を持つ女性を罪もろともにすべて受け入れたのです。その出会いの中で、女性は罪を赦され生まれ変わります。人が生まれ変わり、新しい人生へと押し出されて行く、その時そこに愛の業、即ち「すべてを受け入れる」神の業があり、神の業の器としての人がいます。私たちキリスト者は常に神の業の器として、出会いの中で隣人の「すべてを受け入れる」ことに努めていきたいものです。

筒井昌司牧師(下松教会)

posted by 行人坂教会 at 21:48 | 毎週の講壇から

2014年08月19日

8月第4主日礼拝

       8月24日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”生まれ変わる、その時” 音楽    筒井昌司牧師
                  (西中国教区山口東分区:下松教会)
聖  書  ルカによる福音書 7章36〜50節(p.116)
賛 美 歌  27、559、490、306、567、26
交読詩篇  35編22〜28節(p.42)

・讃美歌練習(9月の月歌:63番) 礼拝後     礼拝堂

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posted by 行人坂教会 at 09:44 | 毎週の礼拝案内

2014年08月18日

身体を張って受け入れる【使徒言行録9:10〜20】

聖句「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』」(使徒言行録9:15〜16)

1、《なさけなさという助け》 初めて「統一協会」に出会ったのは、大学1年の夏。駅前で話しかけてきた女性信者の熱心さにひかれて、「教会」への招きに応じてしまった。夕食の時に、会を仕切る青年が熱心に話しかけてきた。「今のキリスト教は行き詰まっている。だが本物の救いに出会える世界がここにはある。一緒に来ないか。」二度と足を踏み入れなかった。何故?メシが貧弱だったから。夕食があれでは、健康を損なうぜ。でもその後三日間は自己嫌悪で外に出られなかった。理想に燃え、福音のために(実は福音ではない!)自分を投げ打っている人たちを見限ろうとしている。「おれは何と自分に甘い、ダメな奴であることか。」そのなさけなさが自分を守ったと知ったのは、何年も経ってからだった。

2、《回心のB面》 回心とは「こんなにダメな奴だった私が、イエスに出会い、人生やり直しました」?けれども今日の聖書を読むと、回心が時間的な幅のある出来事だとわかる。大事なことは「どれほど立派になったか」ではなく「その人の人生に、神がいかに深く関わっておられたか」である。大事なもう一点は、他者との出会い・交わりである。真の回心は必ず、隣人との出会いとなって現れる。サウロの回心がなければ、私たちがイエスを信じることもなかったかも知れない。回心によって、サウロの人生も変えられた。同胞からは目の敵にされ、異邦人からも憎まれた。苦しみを避けるために信仰を棄てることを、パウロはいつでも選べたはずだ。それでも棄てなかったのは「神様がわたしを選んだ」ことを受け入れていたからだ。その芯にある「受け入れられる」姿勢を、体を張ってパウロに教えたのはアナニアだった。

3、《大きな愛より小さな親切》 「マインド・コントロールの恐怖」の著者でもと統一協会の活動家、スティーヴ・ハッサンはある日、カルトの素人からミニ介入を受けた。そこで転換が起こったのではない。しかし「親切」という形の介入は、彼が脱洗脳するときの助けとなった。神が語りかけた言葉は、体温のある、人間同士の関係に戻し入れられることで、豊かに肉付けされる。小さな親切の背後に、確かな愛を感じ取れるようでありたい。

秋南教会牧師 安藤昭良

posted by 行人坂教会 at 10:17 | 毎週の講壇から

2014年08月12日

8月第3主日礼拝

       8月17日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”身体を張って受け入れる” 音楽   安藤昭良牧師
                      (奥羽教区秋田地区:秋南教会)
聖  書  使徒言行録 9章10〜20節(p.230)
賛 美 歌  27、559、490、361、529、26
交読詩篇  35編22〜28節(p.42)

・ホサナ広場映画会     午後0時30分〜   礼拝堂
   映画:『少年H』(2013年/東宝/200分/G)


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posted by 行人坂教会 at 09:05 | 毎週の礼拝案内

2014年08月11日

自己を中心に愛を叫ぶ【マルコ11:12〜14、20〜25】

聖句「イエスはその木に向かって『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた」(マルコ 11:14)

1、《自己中・逆切れ》 イエスは実がなる季節ではなかったいちじくの木に実を期待します。しかも、実がなっていないことを知ると、怒って木を枯らしてしまいます。「季節ではなかった」のですからいちじくの木に全く罪はありません。まさにここでのイエスは自己中であり、逆切れしてしまっています。なぜ、この不可解なイエスの行動を福音書は記録しているのでしょうか。

2、《聖書に聞け》 「わからない聖書箇所は聖書に聞け」とは、私が行人坂教会CS生徒時代に安田校長先生から教わり今でも大切にしている言葉です。同じ11章にヒントがたくさんあります。11章1節「棕梠の主日」の箇所で、民衆はイエスをローマ帝国をやっつけてくれる凱旋将軍のようにヒーローとして迎えますが、イエスはロバに乗ってやってきます。イエスに季節ではない期待をしていたのです。11章15節「宮清め」の箇所で、民衆はイエスを政治改革をしてくれるヒーローとして期待します。11章27節「権威についての問答」で、民衆はイエスを先代の悲劇のヒーロー、バプテスマのヨハネの再来ではないかと期待します。しかし、イエスはそのようなこの世的なヒーローではありませんでした。そのことがわかると、民衆はイエスを十字架につけて殺します。わずか数日後に、です。

3、《小さい十字架》 そう、枯らされたいちじくの木は十字架でありイエス自身を指し示しています。この不思議な記事は、受難の物語を煮詰めて凝縮したものであると思います。もちろん私たちは、いちじくの木を枯らしたことも、人を十字架につけて殺したこともありません。しかし、小さい意味での十字架…「自己中・逆切れ」を起こしてしまっているのではないでしょうか。

蒲生教会牧師 伊藤義経

posted by 行人坂教会 at 22:57 | 毎週の講壇から

2014年08月05日

8月第2主日礼拝

       8月10日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”自己を中心に愛を叫ぶ音楽 伊藤義経牧師
                  (大阪教区大阪中部地区:蒲生教会)
聖  書  マルコによる福音書 11章12〜14節、
                   20〜25節(p.84)
賛 美 歌  27、559、490、11、484、26
交読詩篇  35編22〜28節(p.42)

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posted by 行人坂教会 at 09:40 | 毎週の礼拝案内

2014年08月03日

塵に口をつけよ【哀歌3:22〜36】

聖句「塵に口をつけよ。望みが見出せるかも知れない。打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。」(3:29,30)

1.《大きな災厄》 聖書において「イスラエル」の名前は重要な語ですが、現代存在する「イスラエル国家」と単純に重ね合わすことは許されません。1948年の第一次中東戦争によって、先住のパレスチナ人を追い出して建国したのです。この時生まれた、数十万人規模の難民が「パレスチナ難民」です。彼らは、この出来事を「ナクバ/大破滅、大いなる災厄」と呼びます。現在、イスラエル軍が攻撃しているガザ地区の人口の3分の2は「パレスチナ難民」とその子孫です。

2.《どうして?》 「哀歌」の原題は「エーカー/どうして」です。母親の腕の中で息絶えて行く幼な子の姿、飢餓の余りに我が子を煮炊きして食べる女が描かれています。バビロン捕囚後の荒廃を描いた詩ですから、母親はエルサレム、子どもは残された住民の比喩でしょう。しかし、そのような凄惨な状況を「哀歌」の作者は実際に見たのかも知れません。ユダヤ教では、例年この季節に「哀歌」を読んで、バビロンやローマによる神殿破壊と虐殺、亡国の歴史を記念します。その悲惨な歴史を体験しているユダヤ人が、パレスチナ人を同じ目に遭わせていることに、私は人間の世界の闇の深さを思わないではいられません。

3.《軛を負う主》 原理主義は原理主義を呼びます。パレスチナの実権をハマースが掌握すると、自爆テロやロケット弾攻撃による報復が頻発しました。報復の連鎖です。テロリストは女子供を楯にするのも兵器です。それを撃つ側も病院や学校に砲撃をしても何も感じなくなります。「打つ者に頬を向けよ」は、イエスさまの非暴力抵抗の信仰と同じです。「哀歌」の他章がバビロン捕囚を歌っている中で、3章だけはセレウコス朝の宗教的迫害を念頭に置いた内省的な詩です。つまり、信仰者は如何に生きるべきかと、新約の信仰に近いのです。人間については、絶望するより他はありません。その告白が「塵を口につけよ」です。けれども、そこに、暴力の応酬、呪いの連鎖を破壊される主の十字架があるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:14 | 毎週の講壇から