説 教 ”心の包皮を取り去れ”

聖 書 エレミヤ書 4章1〜4節(p.1180)
賛 美 歌 27、559、490、195、476、26
交読詩篇 35編22〜28節(p.42)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(7:50)
1.《神学生に教えられ》 代務をしている教会で葬儀がありました。準備の慌しさの中で未亡人が取り残され、実習の神学生が所在無げに座っていました。ご夫人は他に語るべき相手もなく、傍らの神学生に召された夫との人生を語ります。術を知らぬ神学生は、頷きつつ聞くばかりでした。後日、彼女が「神学生にどれだけ癒されたか分からない」と感謝を語りました。聞くことしか出来ぬ神学生が図らずも彼女の思いの全てを受け止めたのです。
2.《試練の中での経験》 私は「網膜色素変性症」という疾病のために視力を失いました。その頃、偶然出会った牧師に愚痴を聞いて頂く機会を得ました。神さまの話も聖書の話もせずに、週に一度ただひたすらに愚痴を聞く牧師。いつしか私は知らず知らずに生きる力を取り戻し、自分から聖書を開いていました。それまで殆ど涙を見せることのなかった私が、思わず号泣してしまったのが、本日の聖書の箇所です。ここは、私にとって、とても大切な箇所の1つです。
3.《生まれ変わる》 3人の人物が登場します。主イエス・キリスト、ファリサイ人のシモン、そして「罪深い」とされる女性です。この3人の間に出会いがありました。しかし、シモンはその出会いに深い関心も意識も抱きませんでした。しかし、「罪深い」とされる女性は、主イエスを聖なる方と信じ、主のすべてを受け入れました。また、主イエスも、当時受け入れ難いとされていた「罪深さ」を持つ女性を罪もろともにすべて受け入れたのです。その出会いの中で、女性は罪を赦され生まれ変わります。人が生まれ変わり、新しい人生へと押し出されて行く、その時そこに愛の業、即ち「すべてを受け入れる」神の業があり、神の業の器としての人がいます。私たちキリスト者は常に神の業の器として、出会いの中で隣人の「すべてを受け入れる」ことに努めていきたいものです。
筒井昌司牧師(下松教会)
聖句「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。』」(使徒言行録9:15〜16)
1、《なさけなさという助け》 初めて「統一協会」に出会ったのは、大学1年の夏。駅前で話しかけてきた女性信者の熱心さにひかれて、「教会」への招きに応じてしまった。夕食の時に、会を仕切る青年が熱心に話しかけてきた。「今のキリスト教は行き詰まっている。だが本物の救いに出会える世界がここにはある。一緒に来ないか。」二度と足を踏み入れなかった。何故?メシが貧弱だったから。夕食があれでは、健康を損なうぜ。でもその後三日間は自己嫌悪で外に出られなかった。理想に燃え、福音のために(実は福音ではない!)自分を投げ打っている人たちを見限ろうとしている。「おれは何と自分に甘い、ダメな奴であることか。」そのなさけなさが自分を守ったと知ったのは、何年も経ってからだった。
2、《回心のB面》 回心とは「こんなにダメな奴だった私が、イエスに出会い、人生やり直しました」?けれども今日の聖書を読むと、回心が時間的な幅のある出来事だとわかる。大事なことは「どれほど立派になったか」ではなく「その人の人生に、神がいかに深く関わっておられたか」である。大事なもう一点は、他者との出会い・交わりである。真の回心は必ず、隣人との出会いとなって現れる。サウロの回心がなければ、私たちがイエスを信じることもなかったかも知れない。回心によって、サウロの人生も変えられた。同胞からは目の敵にされ、異邦人からも憎まれた。苦しみを避けるために信仰を棄てることを、パウロはいつでも選べたはずだ。それでも棄てなかったのは「神様がわたしを選んだ」ことを受け入れていたからだ。その芯にある「受け入れられる」姿勢を、体を張ってパウロに教えたのはアナニアだった。
3、《大きな愛より小さな親切》 「マインド・コントロールの恐怖」の著者でもと統一協会の活動家、スティーヴ・ハッサンはある日、カルトの素人からミニ介入を受けた。そこで転換が起こったのではない。しかし「親切」という形の介入は、彼が脱洗脳するときの助けとなった。神が語りかけた言葉は、体温のある、人間同士の関係に戻し入れられることで、豊かに肉付けされる。小さな親切の背後に、確かな愛を感じ取れるようでありたい。
秋南教会牧師 安藤昭良
聖句「イエスはその木に向かって『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた」(マルコ 11:14)
1、《自己中・逆切れ》 イエスは実がなる季節ではなかったいちじくの木に実を期待します。しかも、実がなっていないことを知ると、怒って木を枯らしてしまいます。「季節ではなかった」のですからいちじくの木に全く罪はありません。まさにここでのイエスは自己中であり、逆切れしてしまっています。なぜ、この不可解なイエスの行動を福音書は記録しているのでしょうか。
2、《聖書に聞け》 「わからない聖書箇所は聖書に聞け」とは、私が行人坂教会CS生徒時代に安田校長先生から教わり今でも大切にしている言葉です。同じ11章にヒントがたくさんあります。11章1節「棕梠の主日」の箇所で、民衆はイエスをローマ帝国をやっつけてくれる凱旋将軍のようにヒーローとして迎えますが、イエスはロバに乗ってやってきます。イエスに季節ではない期待をしていたのです。11章15節「宮清め」の箇所で、民衆はイエスを政治改革をしてくれるヒーローとして期待します。11章27節「権威についての問答」で、民衆はイエスを先代の悲劇のヒーロー、バプテスマのヨハネの再来ではないかと期待します。しかし、イエスはそのようなこの世的なヒーローではありませんでした。そのことがわかると、民衆はイエスを十字架につけて殺します。わずか数日後に、です。
3、《小さい十字架》 そう、枯らされたいちじくの木は十字架でありイエス自身を指し示しています。この不思議な記事は、受難の物語を煮詰めて凝縮したものであると思います。もちろん私たちは、いちじくの木を枯らしたことも、人を十字架につけて殺したこともありません。しかし、小さい意味での十字架…「自己中・逆切れ」を起こしてしまっているのではないでしょうか。
蒲生教会牧師 伊藤義経
聖句「塵に口をつけよ。望みが見出せるかも知れない。打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。」(3:29,30)
1.《大きな災厄》 聖書において「イスラエル」の名前は重要な語ですが、現代存在する「イスラエル国家」と単純に重ね合わすことは許されません。1948年の第一次中東戦争によって、先住のパレスチナ人を追い出して建国したのです。この時生まれた、数十万人規模の難民が「パレスチナ難民」です。彼らは、この出来事を「ナクバ/大破滅、大いなる災厄」と呼びます。現在、イスラエル軍が攻撃しているガザ地区の人口の3分の2は「パレスチナ難民」とその子孫です。
2.《どうして?》 「哀歌」の原題は「エーカー/どうして」です。母親の腕の中で息絶えて行く幼な子の姿、飢餓の余りに我が子を煮炊きして食べる女が描かれています。バビロン捕囚後の荒廃を描いた詩ですから、母親はエルサレム、子どもは残された住民の比喩でしょう。しかし、そのような凄惨な状況を「哀歌」の作者は実際に見たのかも知れません。ユダヤ教では、例年この季節に「哀歌」を読んで、バビロンやローマによる神殿破壊と虐殺、亡国の歴史を記念します。その悲惨な歴史を体験しているユダヤ人が、パレスチナ人を同じ目に遭わせていることに、私は人間の世界の闇の深さを思わないではいられません。
3.《軛を負う主》 原理主義は原理主義を呼びます。パレスチナの実権をハマースが掌握すると、自爆テロやロケット弾攻撃による報復が頻発しました。報復の連鎖です。テロリストは女子供を楯にするのも兵器です。それを撃つ側も病院や学校に砲撃をしても何も感じなくなります。「打つ者に頬を向けよ」は、イエスさまの非暴力抵抗の信仰と同じです。「哀歌」の他章がバビロン捕囚を歌っている中で、3章だけはセレウコス朝の宗教的迫害を念頭に置いた内省的な詩です。つまり、信仰者は如何に生きるべきかと、新約の信仰に近いのです。人間については、絶望するより他はありません。その告白が「塵を口につけよ」です。けれども、そこに、暴力の応酬、呪いの連鎖を破壊される主の十字架があるのです。
朝日研一朗牧師