2014年08月03日

塵に口をつけよ【哀歌3:22〜36】

聖句「塵に口をつけよ。望みが見出せるかも知れない。打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。」(3:29,30)

1.《大きな災厄》 聖書において「イスラエル」の名前は重要な語ですが、現代存在する「イスラエル国家」と単純に重ね合わすことは許されません。1948年の第一次中東戦争によって、先住のパレスチナ人を追い出して建国したのです。この時生まれた、数十万人規模の難民が「パレスチナ難民」です。彼らは、この出来事を「ナクバ/大破滅、大いなる災厄」と呼びます。現在、イスラエル軍が攻撃しているガザ地区の人口の3分の2は「パレスチナ難民」とその子孫です。

2.《どうして?》 「哀歌」の原題は「エーカー/どうして」です。母親の腕の中で息絶えて行く幼な子の姿、飢餓の余りに我が子を煮炊きして食べる女が描かれています。バビロン捕囚後の荒廃を描いた詩ですから、母親はエルサレム、子どもは残された住民の比喩でしょう。しかし、そのような凄惨な状況を「哀歌」の作者は実際に見たのかも知れません。ユダヤ教では、例年この季節に「哀歌」を読んで、バビロンやローマによる神殿破壊と虐殺、亡国の歴史を記念します。その悲惨な歴史を体験しているユダヤ人が、パレスチナ人を同じ目に遭わせていることに、私は人間の世界の闇の深さを思わないではいられません。

3.《軛を負う主》 原理主義は原理主義を呼びます。パレスチナの実権をハマースが掌握すると、自爆テロやロケット弾攻撃による報復が頻発しました。報復の連鎖です。テロリストは女子供を楯にするのも兵器です。それを撃つ側も病院や学校に砲撃をしても何も感じなくなります。「打つ者に頬を向けよ」は、イエスさまの非暴力抵抗の信仰と同じです。「哀歌」の他章がバビロン捕囚を歌っている中で、3章だけはセレウコス朝の宗教的迫害を念頭に置いた内省的な詩です。つまり、信仰者は如何に生きるべきかと、新約の信仰に近いのです。人間については、絶望するより他はありません。その告白が「塵を口につけよ」です。けれども、そこに、暴力の応酬、呪いの連鎖を破壊される主の十字架があるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 14:14 | 毎週の講壇から