説 教 ”良い物を食べよう”

朝日研一朗牧師
聖 書 イザヤ書 55章1〜5節(p.1152)
賛 美 歌 27、409、490、453、432、72、29
交読詩篇 90編13〜17節(p.105)
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行なうためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行なうためである。」(6:38)
1.《善き意志》 映画『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)は、天才的な頭脳を持ちながら無目的な生活を送っていた青年が、セラピストや友たち、恋人に支えられながら、幼児期の虐待のトラウマを乗り越えて、脱皮成長して行く物語です。題名の「ウィル・ハンティング」は主人公の名前ですが、「グッド・ウィル」には「好意」、「ハンティング」には「探求」の含みがあります。そして、神の「御心」以上の「グッド・ウィル/善き意志」はありません。
2.《中心の柱》 英訳「主の祈り」で「御心を成させ給え/Your will be done」と唱えると、断固たる口調に成ります。ギリシア語の「御心」も「テレーマ/意志」です。しかし、日本語の「心」には、どこまでも曖昧さが伴います。むしろ、私たちは躊躇いや迷いや揺らぎを大切にして来たのです。それは丁度、法隆寺五重塔の「心柱」が塔の小屋組みとは繋がっていないがために、揺らいでも倒れない構造に成っていることに通じます。動詞「テロー/するつもり」の新約聖書の最多の用例は「御心ならば」です。これこそが、信仰の「心柱」なのです。
3.《命のパン》 共観福音書の「ゲツセマネの祈り」に当たる箇所ですが、3章の「神はその独り子を賜う程に…」の説明でもあります。神の御心は何よりも愛、全ての人の救いであることが明記されています。更に、ここでは、イエスさまが御自らを「命のパン」を言い表わします。特に、35節は『アンパンマン』そのものです。神の御心は「あなたたちを飢えさせない」「あなたたちを養う」という強い意志だったのです。「永遠の命」と言えば、私たちは「この世のことならず」と来世を思い浮かべますが、実は「命のパン」による養いと繋がっているのです。「五千人の養い」の記事、「日用の糧を与え給え」との連続性もあるのです。「天から来たパン」の後に「地のパン」が言われているのです。
朝日研一朗牧師
1.悲鳴と絶叫
「誰か、助けてーッ!」と、泣き叫ぶ女性の声が響き渡りました。ある土曜日の午後、私は二男をリハビリに連れて行き、Hリハビリテーション病院のロビーで、テレビの相撲中継を眺めながら、いつの間にか半睡状態に陥っていました。突然、後ろから聞こえた絶叫に目を覚まして、慌てて振り返りました。何か「事故」が起こったと思ったのです。
ロビーにいた他の人たちは皆、私と同じように思ったはずです。入院の患者さんたち、通院外来の患者さんたちは、リハビリの最中でした。彼らはリハビリルームにいます。ロビーの待合に残っていたのは、(私自身も含めて)大半が患者の家族たちでした。ですから、「誰か助けて!」の叫びに、車椅子の転倒事故かと思って、立ち上がった人たち、近づいた人たちもいました。勿論、病院のスタッフも飛び出して行きました。
後ろを見ると、初老の上品そうな女性が車椅子に乗っており、それを押していた若い女性(30歳代くらいか)が泣き叫んでいたのです。車椅子の手押しハンドル部分を辛うじて手放さないではいましたが、彼女自身は蹲り、フロアに膝を付き、泣き叫んでいたのです。彼女の叫びは続きました。
「お兄ちゃんは何もしないの。何もしないで、お母さんに暴言を吐くばかりなの。もう堪らない。もう我慢できない!!」と叫んでいました。病院スタッフが何とかして宥めようとしましたが、却って、火に油を注ぐ結果となり、彼女はロビーの家族に向かって「皆さん、聞いてください!」と叫び始めたのです。
2.修羅と愁嘆
ロビーにいる者たちは「事故」ではないと判明し、病院スタッフが対応を始めると共に、潮が引くようにして、テレビの方に向き直りました。私自身もそうしました。決して冷淡なのではありません。彼女の家族のプライバシーに対して、興味本位に触れようとは、誰も思わなかったのです。そこにいる者たちは皆、重い肢体麻痺を抱える家族に同伴して通院している人たちです。面白半分に見物すること等しません。
自分たちの家族も車椅子の生活をしており、自身も介護生活を続けているのです。同じような苦しみと悲しみとを抱えています。そして同時に、自分の状況と他人の状況とが決して同じようではないことを、身に沁みて知っているのです。だから、他の人との「比較」は決してしません。それは「地獄」を生み出す素だからです。つまり、彼女の悲鳴と絶叫は、そこにいた家族が多かれ少なかれ共有するものなのですが、同時に、だからと言って、そのままに無責任に共感してしまって、良いものではないのです。
それだから、私たちはテレビに向き直りました。ジロジロと見物する人は誰一人としていませんでした。「知らん振り」ではありません。それこそが、精一杯の配慮なのです。それでも、彼女の切実な訴えは耳に入って来ました。
やがて、病院のスタッフから「別室でソーシャルワーカーがご相談に乗ります」とでも告げられたのでしょう。スタッフに付き添われて、彼女は母親の車椅子を押しながら、テレビ画面の横から奥の診察室の方へと消えて行きました。しかし、通り過ぎながら、私たちに向かって、同じような訴えを繰り返していました。私たちは「あなたを無視している訳ではないよ」「あなたの叫びは届いたよ」という合図として、彼女が側を通る時に、無言のまま深く頷いて挨拶を送りました。
車椅子の母親は白髪で眼鏡を掛けた女性でしたが、これだけの愁嘆場を娘が演じたというのに、全く頓着していない風情でした。そう、私の目に「上品そう」に見えたのは、彼女が無表情、無感情だったからなのだと、その時に悟りました。車椅子を押す娘には、同じくらいの年代の男性が付き添っていました。どうやら、この人物は彼女の糾弾した「お兄ちゃん」ではなく、彼女の夫なのでしょう。やがて30分くらい経ってから、男性が診察室の方に足早に歩いて行きました。これが連絡を受けて戻って来た「お兄ちゃん」なのでしょう。
3.ささやく声
それでも未だ、彼女は叫ぶことが出来て、自分の感情を爆発させることが出来て、良かったと思います。糾弾の対象となる、不甲斐ない「お兄ちゃん」が存在してくれていて、良かったと思います。叫ぶことも出来ず、泣き喚くことも出来ずに、介護の不眠不休とストレスから、鬱病や神経症を発症する家族、身体的な病気に罹る家族も少なくないからです。患者と共倒れになってしまう介護家族も多いのです。
私は後になってから、むしろ、表情を無くした車椅子の母親のことを強く思い起こすようになりました。一言も喋らないのは「嚥下障害」「構音障害」のせいかも知れません。何の表情も見られないのは「感情障害」のせいかも知れません。脳梗塞や脳卒中によって、脳がダメージを受けると、「高次脳機能障害」を起こして、無感情になったり、突然に怒ったり笑ったり泣いたりして、感情のコントロールが出来なくなることもあります。失語症の状態に陥ることもあるのです。
彼女(車椅子の母親)は叫びたくても叫ぶことも出来ない。泣きたくても泣くことも出来ないのかも知れなのです。私たちには、介護される側の気持ちは分からないのです。介護する者は(家族であっても)、介護の相手が余りに受動的である場合、ついつい物体のように取り扱ってしまうことがあるのです。況して、相手が感情や表情を表わさず、言葉を失っていたら、尚更に対象化、物象化はエスカレートすることでしょう。
「火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19章12節)。叫びには、思わず耳を傾けます。しかし、囁き、静かな細い声は聞き漏らしてしまうものです。
牧師 朝日研一朗
【2014年10月の月報より】
聖句「イエスはガリラヤへ行き、神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(1:14,15)
1.《天国の駅》 豊中教会に派遣神学生で行っていた頃、子どもたちが唱える「主の祈り」で「御国を来たらせ給え」だけが異常に力が入っていました。尋ねてみると、彼らは「阪急宝塚線三国駅」のことだと思い込んでいたのです。このように聖書と信仰には勘違いが付きものです。キリスト教の歴史も聖書の誤読の上に積み上げられています。しかし、人生にも聖書にも「正解」はなく、「問いかけ」を生きることが求められているのではないでしょうか。
2.《漁師たち》 イエスさまの宣教の第一声は「神の国は近づいた」です。かなり唐突です。ここには「神の国」とは何かという定義も説明もありません。その意味でも、聖書は「教科書的」ではありません。普通ならば、このような人に付いては行けません。ところが、4人の漁師たちが網を捨て、父親と船子と船を捨てて付いて行ったのです。催眠術か魔法に掛けられたようです。しかも、付いて行ったのは、世間知らずの学生ではなく、ガテン系の労働者です。
3.《間にある》 「御国を来たらせ給え」は「来たらせよ、近づかせよ」という願いです。イエスさまの第一声も「神の国が近づいた」「神の国が来た」です。4人の漁師たちは、社会変革の時が来るのを、祈りながら、今や遅しと待ち望んでいた人たちだったのです。但し、彼らの思い巡らす「神の国」はこの世の王国の延長でしかありませんでした。彼らは誤解していたのです。しかし、イエスさまは読み間違えている人を敢えて選んで、弟子とされたのです。ここに、キリスト教信仰のダイナミズムがあります。気付きや悔い改めに価値があるのです。「御国はこの世のものではない」のですが、イエスさまは「あなたがたの間にある」とも言われています。「間に、只中に」は「手の届く範囲に」という意味です。「見えるものは見えないものに触っている」(ノヴァーリス)のです。
朝日研一朗牧師
聖句「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(3:18)
1.《暗号と愛称》 コードネームとは諜報機関などが使用する暗号名です。スパイ組織や秘密結社だけではなく、戦時下ともなれば、敵に知られないように、普段から暗号を使って連絡します。交戦中の敵国の兵器情報も不明ですから、味方間でも敵機に愛称を付けて呼び合ったりもするのです。太平洋戦争中、米軍が日本機に付けた愛称は女の子の名前、日本軍が米国機に付けた愛称は食べ物の名前が多いのは、とても興味深い現象です。
2.《名前の秘匿》 「名は体を表わす」はインド仏教唯識論の「名詮自性」から来ているそうです。聖書も同じ考え方をしています。登場人物には命名の物語があり、時には、名前が人生を反映します。人の名前が人格を表わすように、神の名前も神格を顕わすのです。従って、古代ユダヤ教では「みだりに唱えてはならない」として、神名は秘匿されていました。ヘブル語聖書には母音記号が付されていなかったので、何と発話するのか今も定かではありません。
3.《本当の名前》 ル=グウィンの『ゲド戦記』の中に、失意のドン底にある主人公ハイタカに、同期生のカラスノエンドウが自分の本当の名前を告げて励ます名場面があります。真の名を告げることは、自分の全てを差し出すことでもあり、告げられた者は、丸ごと相手を受け入れることなのです。聖書の神の名が秘匿されているのは、神が私たちを信用していないからではなく、自ら神の御名を求めていくことこそが、人生の意味だからです。「神の国と神の義とを求めよ」と言われる、その「御国を来たらせ給え」の前に「御名をあがめさせ給え」が置かれているのです。「あがめさせ給え」は「聖なるものとして取り扱われよ」です。神の御名は隠されていますが、私たちは「イエスの名によって」祈ることが出来ます。それは、どの部屋でも開けられるフロントのマスターキーなのです。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、神よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(4:6)
1.《我らの祈り》 「主の祈り」は、イエスさま直伝の唯一の祈りです。大変に有り難い祈りなのです。御子の祈りですから、父なる神に届かないはずはありません。しかし、ルターが「史上最大の殉教者」と言っているように、「主の祈り」程に頻繁に唱えられることで軽んじられた者はありません。古代エルサレム教会では会衆が共に唱和する祈りだったのですが、司祭の唱えるお経のようにされていたのを、再びプロテスタントが「我らの祈り」として取り戻したのです。
2.《天の下の子》 「天に在します我らの父よ」の「天」は複数形、旧約聖書に言う「諸々の天」です。どんなに遠い異国にあろうとも、どんな状況の下にあろうとも、仰ぐ天から神は見守って居られるのです。「天」は、私たちには見えない世界、私たちの手の届かない所という意味です。まさに「お手上げ」なのですが、それだからこそ祈るのです。そして、たとえ私たちには届かなくても、神さまは私たちに御手を伸ばして下さるのです。主の御手は届くのです。
3.《幼な子の心》 私たちは、イエスさまの受肉と受難、十字架の死によって罪から解放され「神の子」とされたのです。「神の子」と呼ばれるに相応しくない者でありながらも、主もまた「私の兄弟姉妹」と呼んで下さるのです。立派な人、義人が「神の子」ではありません。それは「律法」の論理です。そうではなく「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる」と胸に刻みつけた人こそが「神の子」です。故に「福音」なのです。イエス御自身は神さまに「アッバ」と呼びかけられました。「父よ」等という格式張った呼びかけではなく、「アブアブ」と同じ幼児語です。御子イエスの霊を受けて、イエスさまと同じ心で、私たちが神に呼びかける時、聞いて下さるのです。まさしく「心を入れ替えて、幼な子のようになる」ことです。それは難しいことではありません。
朝日研一朗牧師