2014年09月24日

叫びとささやき

1.悲鳴と絶叫

「誰か、助けてーッ!」と、泣き叫ぶ女性の声が響き渡りました。ある土曜日の午後、私は二男をリハビリに連れて行き、Hリハビリテーション病院のロビーで、テレビの相撲中継を眺めながら、いつの間にか半睡状態に陥っていました。突然、後ろから聞こえた絶叫に目を覚まして、慌てて振り返りました。何か「事故」が起こったと思ったのです。

ロビーにいた他の人たちは皆、私と同じように思ったはずです。入院の患者さんたち、通院外来の患者さんたちは、リハビリの最中でした。彼らはリハビリルームにいます。ロビーの待合に残っていたのは、(私自身も含めて)大半が患者の家族たちでした。ですから、「誰か助けて!」の叫びに、車椅子の転倒事故かと思って、立ち上がった人たち、近づいた人たちもいました。勿論、病院のスタッフも飛び出して行きました。

後ろを見ると、初老の上品そうな女性が車椅子に乗っており、それを押していた若い女性(30歳代くらいか)が泣き叫んでいたのです。車椅子の手押しハンドル部分を辛うじて手放さないではいましたが、彼女自身は蹲り、フロアに膝を付き、泣き叫んでいたのです。彼女の叫びは続きました。

「お兄ちゃんは何もしないの。何もしないで、お母さんに暴言を吐くばかりなの。もう堪らない。もう我慢できない!!」と叫んでいました。病院スタッフが何とかして宥めようとしましたが、却って、火に油を注ぐ結果となり、彼女はロビーの家族に向かって「皆さん、聞いてください!」と叫び始めたのです。

2.修羅と愁嘆

ロビーにいる者たちは「事故」ではないと判明し、病院スタッフが対応を始めると共に、潮が引くようにして、テレビの方に向き直りました。私自身もそうしました。決して冷淡なのではありません。彼女の家族のプライバシーに対して、興味本位に触れようとは、誰も思わなかったのです。そこにいる者たちは皆、重い肢体麻痺を抱える家族に同伴して通院している人たちです。面白半分に見物すること等しません。

自分たちの家族も車椅子の生活をしており、自身も介護生活を続けているのです。同じような苦しみと悲しみとを抱えています。そして同時に、自分の状況と他人の状況とが決して同じようではないことを、身に沁みて知っているのです。だから、他の人との「比較」は決してしません。それは「地獄」を生み出す素だからです。つまり、彼女の悲鳴と絶叫は、そこにいた家族が多かれ少なかれ共有するものなのですが、同時に、だからと言って、そのままに無責任に共感してしまって、良いものではないのです。

それだから、私たちはテレビに向き直りました。ジロジロと見物する人は誰一人としていませんでした。「知らん振り」ではありません。それこそが、精一杯の配慮なのです。それでも、彼女の切実な訴えは耳に入って来ました。

やがて、病院のスタッフから「別室でソーシャルワーカーがご相談に乗ります」とでも告げられたのでしょう。スタッフに付き添われて、彼女は母親の車椅子を押しながら、テレビ画面の横から奥の診察室の方へと消えて行きました。しかし、通り過ぎながら、私たちに向かって、同じような訴えを繰り返していました。私たちは「あなたを無視している訳ではないよ」「あなたの叫びは届いたよ」という合図として、彼女が側を通る時に、無言のまま深く頷いて挨拶を送りました。

車椅子の母親は白髪で眼鏡を掛けた女性でしたが、これだけの愁嘆場を娘が演じたというのに、全く頓着していない風情でした。そう、私の目に「上品そう」に見えたのは、彼女が無表情、無感情だったからなのだと、その時に悟りました。車椅子を押す娘には、同じくらいの年代の男性が付き添っていました。どうやら、この人物は彼女の糾弾した「お兄ちゃん」ではなく、彼女の夫なのでしょう。やがて30分くらい経ってから、男性が診察室の方に足早に歩いて行きました。これが連絡を受けて戻って来た「お兄ちゃん」なのでしょう。

3.ささやく声

それでも未だ、彼女は叫ぶことが出来て、自分の感情を爆発させることが出来て、良かったと思います。糾弾の対象となる、不甲斐ない「お兄ちゃん」が存在してくれていて、良かったと思います。叫ぶことも出来ず、泣き喚くことも出来ずに、介護の不眠不休とストレスから、鬱病や神経症を発症する家族、身体的な病気に罹る家族も少なくないからです。患者と共倒れになってしまう介護家族も多いのです。

私は後になってから、むしろ、表情を無くした車椅子の母親のことを強く思い起こすようになりました。一言も喋らないのは「嚥下障害」「構音障害」のせいかも知れません。何の表情も見られないのは「感情障害」のせいかも知れません。脳梗塞や脳卒中によって、脳がダメージを受けると、「高次脳機能障害」を起こして、無感情になったり、突然に怒ったり笑ったり泣いたりして、感情のコントロールが出来なくなることもあります。失語症の状態に陥ることもあるのです。

彼女(車椅子の母親)は叫びたくても叫ぶことも出来ない。泣きたくても泣くことも出来ないのかも知れなのです。私たちには、介護される側の気持ちは分からないのです。介護する者は(家族であっても)、介護の相手が余りに受動的である場合、ついつい物体のように取り扱ってしまうことがあるのです。況して、相手が感情や表情を表わさず、言葉を失っていたら、尚更に対象化、物象化はエスカレートすることでしょう。

「火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19章12節)。叫びには、思わず耳を傾けます。しかし、囁き、静かな細い声は聞き漏らしてしまうものです。

牧師 朝日研一朗

【2014年10月の月報より】

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幽径耽読 Book Illuminationその18

  • 「兵器と戦術の日本史」(金子常軌著、ちくま文庫)
    紀元0年頃の倭奴国成立から倭王の朝鮮半島進出、白村江の大敗を経て、壬申の乱までを「海北四百年戦争」(!)と著者は命名します。記紀が「日本史」として確立したのも、朝廷内の実権を握った「新羅派」による「歴史の書き変え」であると主張します。その後の「蝦夷百年戦争」というエピックの命名も凄いです。「皇国史観」等というものには鼻もかけていません。そう、戦争史家(著者は自衛隊幹部学校戦術教官)はリアリストの仕事なのです。その点で、昨今、勢力を増している国粋主義者たちと、著者は同列に扱われるべきではありません。また、「平和憲法護持」を楯にして、国際紛争の可能性さえも最初から除外してしまう平和主義者でもありません。軍隊の存在理由と正当性は、その軍が主権擁護の立場で働く時だけ認められるのです。しかし、現在の日本は、真に国民主権と言えるのか。この問いかけは甚だ厳しい。読み進む中で、勝ち戦にせよ負け戦にせよ、そこから問題点を正しく抽出、評価分析し、学習しようとしない日本の国民性が見えて来て、暗澹たる気分になります。
  • 「増補・エロマンガ・スタディーズ/『快楽装置』としての漫画入門」(永山薫著、ちくま文庫)
    文化というものは、誤読と「誤配」(本来、想定されていなかった人の受容)によって豊かに乱れ咲くのです。聖書を勉強していると、つくづく思わされることです。従って、「正しい読み方」や「正統的な理解」等というものは、大いなる虚構に過ぎないのです。さて、私自身のことを告白すれば、70年代中期の劇画家たち、ダーティ・松本、中島史雄、宮西計三、あがた有為、羽虫ルイ、福原秀美、村祖俊一、間宮聖児、土屋慎吾、(これに本書で無視されている三条友美を加えて)この人たちのお世話になりました。その後、ブランクがあって、80〜90年代は、森山塔(山本直樹)の熱心な読者でした。以後、この世界から遠ざかりましたが、紹介図版を見ていて、田中圭一、村田蓮爾、陽気婢あたりのタッチが、私の好みかなと思いました。ミーム理論の援用が、著者のマンガ分析に広がりと深みを与えています。補章「21世紀のエロマンガ」は、近年の表現の自由を巡る闘いがコンパクトに説明されていて、大変に勉強になりました。
  • 「教会の怪物たち/ロマネスクの図像学」(尾形希和子著、講談社選書メチエ)
    中世ロマネスク様式の聖堂に刻まれた怪物、怪人たち。キマイラ、グリフォン、ユニコーン、ヒュドラ、ケンタウロス、ミノタウロス、ドラゴン、セラフィム、レヴィアタン、ヤヌス、ブレミアエ、メリュジーヌ、スキュラ、グリーンマン、ワイルドマン…。さながら「怪人怪獣大図鑑」です。それは、教会側の主張するアレゴリーとしては受容されず、却って、農民たちの異教的イマジネーションを喚起し、刺激するものとして作用しているのです。例えば、二股に分かれた魚の尾鰭を持ち、その股間に女性性器を露出するセイレーン(人魚)は、本来「淫蕩」の戒めとして描かれたのです。けれども、人々は彼女に大地豊穣の願いを託したという展開です。この読み解きの構図は、やがて、ローマ教会が先住民を教化した南米においても適用されています。そして今、ローマ教会と言えば、南米とアフリカが中心です。何と言う歴史のパラドックスでしょうか。私自身、幼い日から怪物に魅入られていたのは、グロテスクへの愛着があったからです。キリスト教信仰に入ったのも、恐らく、日本の体制的文化からの逸脱を目論んでのことだったのでしょう。「毒には毒を」です。
  • 「アド・アストラ/スキピオとハンニバル」第6巻(カガノミハチ作、集英社)
    カンナエの大敗を描いています。ハンニバルにとっては頂上、ローマにとってはドン底を見ることになった一戦です。敗戦後、スキピオの口から題名になっている「ペル・アスペラ・アド・アストラ/per aspera ad astra/困難を通じて天へ」の決意が語られます。このラテン語の成句「per ardua/ペル・アルドゥア」に変えると、そのまま英国空軍の銘になります。後半で、ローマ共和国の猛将(シチリア方面軍総司令官)マルケルスが登場します。岩明均の『ヘウレーカ』にも出て来て、シラクサ攻めをしていました。あのマンガでは、マルケルス、「アルキメデスの装備」に苦労していますが、それは、しばらく後の話ですね。それで気づいたのですが、岩明と違って、カガノの絵には「切り株」系のカタルシスが全く感じられません。いや、むしろ、流血よりも切断面に執着する岩明の方が特殊なのでしょう。
  • 「聖なる酔っぱらいの伝説/他四篇」(ヨーゼフ・ロート著、池内紀訳、岩波文庫)
    何とかして2百フランの借金をリジューの聖テレーズに返そうとしながら、果たせない酔いどれ男の物語。いつも、朝10時のミサの終了後に着いてしまい、正午のミサを待つために、向かいの居酒屋で時を過ごそうとするのです。この辺りの繰り返しが際限なく思われるのは、多分、私が下戸である上に、(礼拝を執り行う側の)牧師であるからなのでしょう。そこで、アル中の友人、鹿児島のN君のことを思い起こしながら読みました。ヒトラー出現を予見したと思しき「蜘蛛の巣」は凄みがあります。意外に気に入ったのは、「ファルメライヤー駅長」です。オーストリアの小さな町の駅長が、列車事故の際に世話をしたロシアの貴婦人の匂いが忘れられず、第一次世界大戦の東部戦線に出征します。勿論、ただ彼女に再会したい一心です。このひたむきな宿命と奇跡への信従は、他の作品にも共通しています。殉教と言っても良いでしょう。それが、幸福な完結を迎えるのが「聖なる酔っぱらい」なのでしょう。
posted by 行人坂教会 at 09:48 | 牧師の書斎から