説 教 ”もう泣かなくてもよい”

聖 書 ルカによる福音書 7章11〜17節(p.115)
賛 美 歌 27、574、490、385、111、88
交読詩篇 77編1〜16節(p.87)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「神は真実な方です。…試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(10:13)
1.《試練の道》 アニメ『巨人の星』の主題歌「行け行け飛雄馬」は「思いこんだら試練の道を行くが男のド根性」という歌い出しでした。「試練の道」を歩む理由は「思い込み」なのです。しかし、「経済優先」も「人命尊重」も単なる思い込みであるという点で、何ら変わるところはありません。問題は、その信念や信仰、価値観や理念が自らと社会を改善するものであるかどうかです。「右に倣え」をせずに、自分の信念に従うことは、この世では「試練の道」なのです。
2.《出口あり》 他の人の真似をするのではなく、自分が自分らしく生きようとすることは、その段階で既に「試練の道」なのです。「試験」や「試合」を目標に日夜努力するのが「試練」です。ギリシア語の「試みる」にも「やってみて御覧」という励ましが含まれています。「逃れる道」が用意されていると言っても、ズルする「抜け道」ではありません。「出口、終わり」という意味です。道行は辛くても必ず出口があるのです。「雌伏」の時があり「雄飛」の時があるのです。
3.《コンダラ》 「主の祈り」の最後は「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」です。「ペイラスモス」には「試練」と「誘惑」の意味があります。「悪しき者」とは「サタン」ですから、本当は「誘いに遭わせず」と訳すべきです。この世には「耐え難い苦しみ」があります。その渦中にある当事者に対して「耐えられない試練はない」等と説教するのは持っての他です。当事者が乗り越えられた時、初めて「試練」と言えるかも知れませんが、部外者が不条理な苦難を「試練」と呼ぶのは間違いです。野球グラウンドの整地ローラーを「コンダラ」と言います。『巨人の星』の主題歌を「重いコンダラ」と聞き違えたところから、その俗称が広まったそうです。私たちの人生は「重いコンダラ」を押して進む「試練の道」かも知れません。しかし、イエスさまが一緒に押して下さいます。
朝日研一朗牧師
聖句「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」(1:18)
1.《「可」取り》 疎開した1年を除けば、下目黒の生家で少女時代を過ごしました。小さい頃は、二卵性双生児と言われるくらい弟と似ていました。しかし、私は運動が上手く出来ず、通信簿で体操に「可」(当時の落第ギリギリ)を点けられてしまいました。兄姉たちから「可取りせんこう」とあだ名を付けられ、その時、いつか見返してやろうと心に決めました。その思いが私を、苦手な運動や英語の勉強に向かわせたのでしょう。
2.《教会に行く》 信州の疎開から戻ると、東京は一面焼け野原で、生家の焼け跡にコスモスが咲いていました。闇市で買った「クリスマスの表紙の本」は、実は聖書でした。弟に導かれ、行人坂教会で私も受洗しました。「聖書のことが分からない」と受洗を渋る私に、木村知己牧師は「宗教学者になりたいの?」、「自分は未熟だし」と言えば「道徳家になりたいの?」、「大切なことは、イエス・キリストを信じることだけ」と諭されて入信しました。しかし、洗礼を受けても世界が変わった訳もなく、次第に教会と距離が出来てしましました。
3.《40歳の出発》 夫から、G・オニールの『40歳の出発』という本をプレゼントされて、一念発起しました。夫や子のために生きて来た自分の人生をギアチェンジすることを勧められていたのです。「可取りせんこう」汚名返上のために、日夜祈り、運動と英語の勉強をし、米国のボール州立大学で日本語を教える傍ら、米国経済史を勉強するチャンスが与えられました。お世話になったホストファミリーの2家族からも、第一長老教会、ユニテリアンと、それぞれに豊かな信仰を垣間見ることが出来ました。今は「聖書と祈りの集い」を生活の中心にしています。聖書を読んで語り合う中で、聖書は奥が深く、簡単な答などなく、むしろ、何が神の御心なのか問い続けることの大切さを学んでいます。老いと筋力の衰えを実感する昨今ですが、最後のステージにあっても前向きに生きたいと思います。
阿部弘子
聖句「イエスは言われた。『あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までもゆるしなさい。』」(18:22)
1.《七の七十倍》 その昔『491』というスウェーデン映画がありました。非行
少年と共同生活を営むことで、彼らの自主的な更生意欲を高めようという社会実験が行なわれるのですが、却って、少年たちは増長して、その試みは無残な失敗に終わるのです。その題名は「7の70倍までゆるしなさい」という聖書のもじりです。計算すると「7×70=490」ですから、少年たちの悪行がゆるしの限度を超えているということを表現していたのでしょう。
2.《倍返しだ!!》 昨年の流行語大賞はドラマ『半沢直樹』の「倍返しだ!!」でした。支店長には「10倍返し」、常務には「百倍返し」とエスカレートしましたが、「倍返し」と同じ発想が「創世記」にあります。「カインのためには7倍の復讐」、その末裔「レメクのためには77倍」と歌われるのです。ペトロの「7回ゆるし」、イエスさまの「70倍ゆるし」(77倍とも)はその裏返しです。当時は「仏の顔も三度」でした。それを「7回」と完全なゆるしを言うペトロに対して、主は「際限のない復讐に対抗するには、際限のないゆるしを」と仰るのです。
3.《踏み出す力》 「主の祈り」の「我らに罪を犯す者を我らが許す如く、我らの罪をも赦し給え」は、私たちの喉に刺さった小骨のようです。カルヴァンは「神でない我々は赦せはしない。忘れるのみだ」と言いました。確かに、ゆるしは神の御業です。にも拘わらず、この祈りが加えられているのは、私たちに神を信じて一歩前に進むことが促されているのです。終戦直後の韓国の教会では「日本憎し」の思いが強く、礼拝の中で泣きながら唱えたと聞きました。そのような真剣さが私たちにあるでしょうか。人が許せなくても神は赦して下さるのです。もしも、この祈りを唱える時、私たちが居心地の悪さで感じるとすれば、それは、私たちが十字架のイエスさまの御前に立たされているからに他なりません。
朝日研一朗牧師
聖句「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良いものを食べることができる。」(55:2)
1.《パンとおまんま》 関口パン、中村屋、進々堂、山崎パン、スワンベーカリーと、パン屋の創設者はキリスト教信仰と深く繋がっていました。そもそもパンはキリスト教信仰や聖書、礼拝儀式の中心的なシンボルでした。「主の祈り」の「日用の糧」には「今日のための」「存在のための」「生活のための」「必要なだけの」という含みもあります。その切実さを思えば、日本語の「まんま」でしょうか。まさに「きょうのまんまもかせでくなはりゃんせ」(山浦玄嗣訳)です。
2.《憐れみのパン》 「主の祈り」の「我らの祈り」の第一に挙げられているのは「我らの日用の糧」です。どんなにイエスさまが食べることを大切になさっていたか分かります。「パン」はヘブル語で「レヘム」と言いますが、「胎」という意味もあり、そこから「憐れみ」という語が派生しています。単なる「同情」ではなく「腸が痛む」程の「共苦」です。「五千人の養い」の記事で、イエスさまが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」とはその意味です。「まんま」は「うまうま」ですが、ここでも「糧/パン」を「良い物」と言います。
3.《同じ食卓に着く》 神が招いておられるのは、イスラエルだけではなく、世界中の全ての人々です。食糧も水も価なくあげよう。お金の無い人も来るが良いと言われています。これは無銭飲食を奨励しているのではありません。私たちは労働の対価として賃金を得、それで糧を食べていると信じています。しかし、資本主義経済や消費社会は最近、人間がデッチ上げたシステムに過ぎません。そのシステムから外れて生活することは難しいのですが、絶対と信じ込む必要はありません。一旦括弧に入れてみてはどうでしょう。そこから、「私たち」の真の豊かさを考えましょう。どんなに豊かな食卓も「孤食」では命を得ません。「地球上の誰もが同じ食卓に着くことが出来ますように」という祈りなのです。
朝日研一朗牧師