説 教 ”491回目のゆるし”

朝日研一朗牧師
聖 書 マタイによる福音書 18章21〜35節(p.35)
賛 美 歌 27、409、490、445、402、29
交読詩篇 90編13〜17節(p.105)
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標語 『主イエスの道を歩こう』
わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
(ヨハネによる福音書14章6節)
聖句「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良いものを食べることができる。」(55:2)
1.《パンとおまんま》 関口パン、中村屋、進々堂、山崎パン、スワンベーカリーと、パン屋の創設者はキリスト教信仰と深く繋がっていました。そもそもパンはキリスト教信仰や聖書、礼拝儀式の中心的なシンボルでした。「主の祈り」の「日用の糧」には「今日のための」「存在のための」「生活のための」「必要なだけの」という含みもあります。その切実さを思えば、日本語の「まんま」でしょうか。まさに「きょうのまんまもかせでくなはりゃんせ」(山浦玄嗣訳)です。
2.《憐れみのパン》 「主の祈り」の「我らの祈り」の第一に挙げられているのは「我らの日用の糧」です。どんなにイエスさまが食べることを大切になさっていたか分かります。「パン」はヘブル語で「レヘム」と言いますが、「胎」という意味もあり、そこから「憐れみ」という語が派生しています。単なる「同情」ではなく「腸が痛む」程の「共苦」です。「五千人の養い」の記事で、イエスさまが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」とはその意味です。「まんま」は「うまうま」ですが、ここでも「糧/パン」を「良い物」と言います。
3.《同じ食卓に着く》 神が招いておられるのは、イスラエルだけではなく、世界中の全ての人々です。食糧も水も価なくあげよう。お金の無い人も来るが良いと言われています。これは無銭飲食を奨励しているのではありません。私たちは労働の対価として賃金を得、それで糧を食べていると信じています。しかし、資本主義経済や消費社会は最近、人間がデッチ上げたシステムに過ぎません。そのシステムから外れて生活することは難しいのですが、絶対と信じ込む必要はありません。一旦括弧に入れてみてはどうでしょう。そこから、「私たち」の真の豊かさを考えましょう。どんなに豊かな食卓も「孤食」では命を得ません。「地球上の誰もが同じ食卓に着くことが出来ますように」という祈りなのです。
朝日研一朗牧師