2014年11月30日

幽径耽読 Book Illuminationその19

  • 「新世紀エヴァンゲリオン」第14巻「旅立ち」(貞本義行画、カラー作、角川書店)
    やっと完結です。うちの長男が生まれる前から買い始めて、今、彼は高1です。「エヴァの最終巻、買って来た?」と、このところ毎日尋ねられていました。いつの間にか「作」も「GAINAX」から独立した「Khara」に変わっていました。テレビシリーズ、旧劇場版『Air/まごころを、君に』等の「終わらせ方」が改めて集約されて、洗練されているように思います。(新劇場版に繋ぐエピローグまで含めて)もう納得するしかない「終わらせ方」です。これなら、テレビ最終回時のように「自己啓発セミナー」等と陰口を叩かれることもありますまい。しかし、一種の夢オチですから、これまでの20年間がこの結末に向かっていたのかと思ったが最後、身も蓋もありません。でも、大切なのは、やっぱりプロセス。テレビ、新旧映画、マンガ、パロディ版と何種類も異なるヴァージョン(異伝)が存在してしまうところ、キャラが一人歩きを始めてしまうところ、完結したと思えないところ、「エヴァ」は現代日本の物語伝承みたいなものなのでしょう。
  • 「万国奇人博覧館」(ジャン=クロード・カリエール×ギイ・ベシュテル著、守能信次訳、ちくま文庫)
    カリエールは、ブルジョワ紳士淑女が便座に坐って用を足しながら晩餐をするブニュエルの映画、チンパンジーと不倫する人妻セレブを描いた大島渚の映画の脚本家です。とにかく、奇人というカテゴリーの幅広さに圧倒されます。7百ページを超えるのも宜なる哉。例えば、「文筆奇人」だけに限っても、「神学奇人、純文学奇人、哲学奇人、政治奇人、演説奇人」に分類できるそうです。私は牧師なので、やはり宗教的な奇人が気になります。寝取った人妻の夫に殴り殺された教皇ヨハネス12世(10世紀)、「使徒継承者」を名乗り、アントワープを占領したタンシュラン(11世紀)、私有財産を否定して、皆で女性も共有した再洗礼派ライデンのヤン(16世紀)、信徒を得る度に出産の陣痛に見舞われたブリニョン(17世紀)、フランス革命を支持した女性霊視家ラブルッス(18世紀)、小石を食べるル・モニエ神父(19世紀)、独力で自らを十字架に磔にしたロヴァト(19世紀)、聖体パンを食べる度、口の中から赤ん坊が生まれると主張するクエンカの福者(19世紀)、「神学/theologia」を「家でお茶/the au logis」と分解して、真剣に「お茶学問」を提唱したブリッセ(19〜20世紀)、愛人の胎児を殺す前に洗礼を授けたウルフェの司祭(1956年)、ブルターニュ海岸の岩礁に彫刻を施していったフエレ師…。百花繚乱です。
  • 「ゴジラと東京/怪獣映画でたどる昭和の都市風景」(野村宏平著、一退社)
    怪獣映画ファンであれば、誰でも一度くらいは、どの怪獣がどの都市や地域に出現し、どんな名所旧跡、建築物を破壊したか、どの経路を進んだか、リストアップしようと試みたことがあったはずです。勿論、私自身を含め、大抵の人が中途半端に投げ出してしまうのです。それくらい、実際にやろうとすると、気の遠くなるような作業なのです。著者は、映画撮影当時の街並み、建築状況を考証しつつ、綿密に再構成していったのです。それにしても、特撮映画のミニチュアセットの中にこそ、当時の風景が正確に記録されている等とは思いもしませんでした。実写以上の参考資料のようです。勿論、中には架空の建築物があったり、別の作品のミニチュアが流用されていることもあって、検証の必要があるようですが…。巻末の「主要建築物・ロケ地索引」が圧巻です。三浦町カトリック教会(『空の大怪獣ラドン』)、聖路加国際病院(『地球防衛軍』)、銀座教会(『宇宙大戦争』)、教文館(『宇宙大怪獣ドゴラ』)、横浜山手聖公会聖堂(『三大怪獣/地球最大の決戦』)と、キリスト教関係の建物も出て来ます。
  • 「怪奇文学大山脈/西洋近代名作選」第2巻「20世紀革新篇」(荒俣宏編、東京創元社)
    それにしても「大山脈」とは大仰な…。確かに、他に類を見ない巻末の作品解説(54ページもある!)を読めば「大山脈」とは思いました(因みに、前書きも25ページある)。G・マイリンクの「紫色の死」は短いけれども凄い。昨今の「パンデミック物」を先取りしています。ひたすらに墓碑銘を読み上げていくのは、デ・ラ・メアの「遅参の客」。碑銘に刻まれた「Rev./ヨハネの黙示録」が、実は「Lev./レビ記」の上書きという聖書の謎解きトリックがあって楽しめたのが、ハーヴィーの「アンカーダイン家の信徒席」。私の一番のお気に入りは、メトカーフの「ブレナー提督の息子」です。やんちゃな男の子を育てる親の哀しみと憤りと不安、そして罪悪感がよく描かれています。タウンゼント・ウォーナーの「不死鳥」は、そのまま幼稚園の子どもたちに聴かせて上げたくなるようなファンタジーです。特に急転直下の幕切れが素晴らしい。幼児をトラウマに突き落とすこと、請け合いです。
  • 「郵便局と蛇/E・コッパード短編集」(アルフレッド・エドガー・コッパード著、西崎憲編訳、ちくま文庫)
    コッパードがキリスト教を題材にする時に醸し出される奇妙にねじれた印象が好きです。荘園の森の番人が天国へ旅立つ「うすのろサイモン」は「天路歴程」のパロディのようです。同じ系列の「シオンへの行進」では、主人公の旅人ミカエルが、罪人と見れば平気で殺戮する剛力の修道士、不思議な女マリアと道連れになります。特に道徳や常識を超越した修道士の振る舞いは「タルムード」や「クルアーン」にある「天使とアブラハム」「天使とモーセ」の逸話を思い出させます。電柱が柳の木への恋情を切々と告げる「若く美しい柳」は凄絶なメルヘンです。幽霊譚「ポリー・モーガン」は「ジェントル・ゴースト物」でありつつ、意外に残酷です。三人の中年女の語らい「辛子の野原」は世知辛い中にも不思議な優しさが滲み出て来ます。この一筋縄では行かない、複雑な味わいを何と表現したら良いのでしょうか。
  • 「三文オペラ」(ベルトルト・ブレヒト作、谷川道子訳、光文社古典新訳文庫)
    数年前、クリスマスの愛餐会の余興で、この芝居のオープニング曲「モリタート/殺人物語大道歌」をドイツ語で披露したことがあります。それでショックを受けて躓いたのでしょうか、残念なことに、うちの礼拝に来なくなった人がいました。牧師がこんな歌うたっちゃいかんのです。でも、戯曲として読み直してみると、台詞は2回だけですが、「キンボール(金タマ?!)牧師」も登場します。それから、キリスト受難週に重ねるように、水曜日、洗足木曜日、聖金曜日(受難日)の3幕仕立てになっています。その上、メッキースとポリーが結婚するのは馬小屋、テーブルは飼い葉桶。「乞食の友商会」(乞食を組織して街角に派遣、その上前を撥ねる)の経営者、ピーチャムは聖書を引用します。そして、彼の名前はジョナサン・ジェルマイヤー(ヨナタン+エレミヤ)だったりします。ピーチャムの「人間の努力のいたらなさの歌」が私のお気に入り。「幸福を求め追っかけろ/夢中になって追っかけすぎるな/みんな幸福追っかけるから/幸福追い越されて置いてけぼり」。大悪党メッキースの処刑前の演説もイケてます。「銀行の株式に比べれば、こそ泥の合鍵など何ほどのものでありましょう。銀行設立に比べれば、銀行強盗などいかほどの罪でありましょうか」。
posted by 行人坂教会 at 05:22 | 牧師の書斎から

2014年11月25日

こどものすきなイエスさまの

1.嬉しい楽しいクリスマス

♪「うれしいうれしいクリスマス/かんかんかんかん鐘の音/こどもの好きなイエスさまの/お生まれなさったこのよい日/うれしいうれしいクリスマス/かんかんかんかん鐘の音」(『こどもさんびか』24番/岡本敏明作詞作曲)。

2002年に出版された『こどもさんびか改訂版』からは消え去ってしまいましたが、かつて教会幼稚園、教会保育園、教会学校で「うれしいうれしい」は盛んに歌われていました。皆で輪唱して楽しむための「遊び歌」の一種です。従って、歌詞も「嬉しい」「楽しい」に「かんかん鐘の音」「りんりん鈴の音」が入る、ごく単純なものでした。どうしても、メッセージ性が薄いように感じられ、ひたすら「嬉しい楽しい」だけの「クリスマス」を言っているとしか思われませんでした。『改訂版』の選に漏れたのも、やはり、歌詞の脳天気さが災いしたとしか思われません。

しかし、昔、盛んに歌った讃美歌というものは、何の愛着も持っていなかった歌であるにもかかわらず、時折、何の脈絡もなく思い出されるものです。ふと口ずさんでいる自分に気づいて、驚かされることがあります。仄暗い水の底から、あたかも、お岩と小平の死体を裏表に釘付けにした戸板のように、沈めても沈めても、意識の表層に浮かび上がって来るのです(嗚呼、どうしてホラーな喩えしか出来ないのだろう)。

アドベント(待降節)を迎えるに当たって、今回、私が思い出したのは、この「うれしいうれしい」だったのです。この歌の中の「こどもの好きなイエスさまの/お生まれなさったこのよい日」という歌詞が、私の(怪奇小説の読み過ぎで)腐った脳細胞に執拗に絡み付いて離れようとはしないのです。

2.子ども好きのイエスさま

そもそも「こどもの好きな」キリスト像は、子どもに対する教育(キリスト教教育)が普及するにつれて広がって行った、特化されたイメージだと思われるのです。それは一体、どのような裏付けがあって言われて来たことなのでしょうか。

近世には、プロテンタントの諸教派が競い合うようにして、受洗志願者や堅信礼を迎える子どもたちに「教理問答」を勉強させるようになりました。一種の「理論武装」であったのでしょう。やがて、ローマカトリック教会もその必要性に気づき、後に続いたのです。近代になり、欧米では「日曜学校」が最盛期を迎えます。丁度、日本にキリスト教が再び入って来たのが、その時代でした。

キリスト教が日本の近代教育に果たした役割については、今更言うまでもありません。特に女子教育と幼児教育において、その功績は計り知れません。なぜに女子教育と幼児教育なのかと言えば、それこそ明治政府が捨て置いた部分だったのです。今でも時折、キリスト教を「女子供の宗教」であるかのように蔑む人がいるのですが(男性優位主義者にして大日本主義者)、それこそは、キリスト教なくして日本の女子教育と幼児教育は存在しなかったことの裏返し証明になっているのです。

少子化のため減少したとは言え、現在でもキリスト教幼稚園、保育園、こども園の数は、日本全国に相当数あります。「キリスト教保育連盟」に加盟している園だけでも870園はあるくらいです。教会の牧師が教会幼稚園・保育園の園長を兼ねているというパターンは、日本では一般にも浸透したイメージです。幼稚園・保育園を経営しながらでなければ、牧師の生活を維持できなかった現実が背景にあるのです。

そんな訳で、日本では明治以降、「こどもの好きなイエスさま」のイメージが隅々まで浸透して行ったのです。そのイメージを支え続けた根拠は、聖書にも無いではありません。例えば、「マタイによる福音書」18章1〜5節「天の国で一番偉い者」とその並行記事、同19章13〜15節「子供を祝福する」とその並行記事です。しかし、それでも、クリスマスのイメージの大きさには遠く及びません。聖書など全く読んだことのない人でも、クリスマスと言えば「子どもたちが喜ぶ祭り」というイメージ、先入観を持っているのです。

3.ヴィイを呼んでおいで!

私は、ロシア正教のイコンを初めて目にした時の衝撃を忘れることが出来ません。子どもの頃、『妖婆・死棺の呪い』(Viy)という映画をテレビで観ました(後に『魔女伝説/ヴィー』と改題、劇場公開、ビデオ化されました)。1967年のソ連映画で、ニコライ・ゴーゴリの怪奇小説『ヴィイ』の映画化でした。原作は、小学校の図書館にあった「世界怪奇スリラー全集」(秋田書店)か何かで読んでいたのですが、映画を観て驚いたのは、ロシア正教の聖堂の壁一面に描かれた、キリストのイコンが異様で恐ろしかったことです。これはもう「遺恨」としか言いようがない程に。

今思えば、怪奇映画としての効果を上げるために異様に描いてあったのでしょう。後に、本物のイコンを見て行く中で、あれは極端に歪められたものだったのだと気づきました。それでも、子ども心には恐ろしかったです。映画のクライマックスに登場する魑魅魍魎の群れよりも怖かったです。そのせいか、以後、何を見ても余り恐ろしいと思わなくなってしまいました。まあ、何にでも例外はあるもので、桑田二郎(旧・桑田次郎)、楳図かずお、日野日出志のマンガには、一定のトラウマがありますが…。

そんな訳で、牧師になって、子どもたちと一緒に、♪「こどもの好きなイエスさまの/お生まれなさったこのよい日」と歌いながらも、頭の片隅には、いつも『妖婆・死棺の呪い』 の、キリストの「恐怖イコン」が蘇って来るのでした(さすがは「蘇連」!)。少なくとも、あのイコンを見る限り、到底「子どもがお好きな」ようにはお見受け出来ませんでした。

牧師 朝日研一朗

【2014年12月の月報より】

posted by 行人坂教会 at 19:29 | ┣会報巻頭言など

11月5主日礼拝(アドベント第1主日)

      11月30日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”星を数えて砂漠に立つ” 音楽             朝日研一朗牧師
聖  書  創世記 15章1〜6節(p.19)
賛 美 歌  27、574、490、227、451、88
交読詩篇  77編1〜16節(p.87)

・教会資料委員会有志主催「かかわりをあらたに」読後感想会
             正午〜午後1時30分      階下ホール
 会費:200円(おにぎりと茶菓を用意しています)

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 07:39 | 毎週の礼拝案内

2014年11月24日

2014クリスマスイヴ賛美礼拝のお知らせ

次のご案内を出しております。

2014行人坂教会クリスマスイヴ賛美礼拝
posted by 行人坂教会 at 21:03 | 教会からのお知らせ

2014クリスマス諸行事のご案内

2014年の行人坂教会の「クリスマス関連の諸行事のご案内」のパンフレットです。

クリスマス関連の諸行事のご案内 201


行人坂教会 クリスマス関連諸行事のご案内

クリックすると大きな画像が表示されます。



入口があり、出口があり

クリックすると大きな画像が表示されます。
posted by 行人坂教会 at 21:00 | 教会からのお知らせ

収穫感謝日パーティー

収穫感謝日合同礼拝のあとでパーティーがおこなわれました。



2014gyoninzaka_shuukaku_kansha_party_1.jpg

2014gyoninzaka_shuukaku_kansha_party_2.jpg

posted by 行人坂教会 at 20:35 | 教会アルバム

豚に真珠!【マタイ7:6】

聖句「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏み躙り、向き直ってあなたがたに噛み付いて来るだろう。」(7:6)

1.《猫に小判》 エジプトのファラオ、ネコ2世の他に、聖書に猫は出て来ないと思っていました。ところが、カトリックが正典にしている旧約聖書続編「エレミヤの手紙」には、蝙蝠や燕と並び、猫が登場して、神殿の偶像の上を歩き回ります。猫を飼う習慣はエジプトから世界中に広がりました。『不思議の国のアリス』のチェシャ猫から『妖怪ウォッチ』のジバニャンまで、キャラ化が多いのは、それだけ擬人化し易いのでしょう。私たちは猫に人間の姿を投影しているのです。

2.《犬に小判》 「猫に小判」は「たとえ金の小判のような値打ち物でも、猫が持っていたのでは何の役にも立たない」という意味です。「犬に小判」という諺もあったそうです。福音書が「犬に与えてはならない」と言う「神聖なもの」とは、神殿に奉げられた供え物の肉です。神殿に仕える祭司だけが食べることを許されていました。要するに「聖別された物」を「犬畜生」に与えるなという教えです。ペットを我が子のように愛する人の数多い現代と異なり、聖書の時代には、犬も猫も「汚れた動物」と見なされていたのです。

3.《豚に真珠》 当教会では、収穫感謝日の愛餐会は豚汁が恒例ですが、聖書の世界では、豚は犬猫以上に汚れた動物と考えました。食べるどころか、触れることすらタブーでした。豚の家畜化は中国から広がりましたが、中近東では受容されませんでした。「豚に投げるな」と言われる「真珠」は「天国」の象徴です。十字架の尊さ、有難さ、「天国」の価値の分からない私たちもまた、犬猫豚に過ぎないのかも知れません。しかし、イエスさまは、そんな私たちを愛して命を捨てて下さいました。「詩編」36編は「主よ、あなたは人をも獣をも救われる」と歌っています。そこに「ノアの箱舟」の物語の意味もあります。神さまは全ての被造物を救われるのです。御自分が産み出したが故に、愛して居られるのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:21 | 毎週の講壇から

2014年11月18日

11月第4主日礼拝(収穫感謝日合同礼拝)

      11月23日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”豚に真珠!” 音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 7章6節(p.11)
賛 美 歌  27、574、62、「私たちはイエスから」、389、88
交 読 文  「心で見つめてごらん」(井村和清)

・収穫感謝日パーティー    礼拝後      階下ホール
豚汁、焼きソバ、お餅つき大会:無料

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 08:31 | 毎週の礼拝案内

2014年11月17日

見たこともないのに【Tペトロ1:3〜9】

聖句「あなたがたは、キリストを見たこともないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。」(1:8)

1.《目視と確認》 19世紀米国の詩人エミリ・ディキンソンは、生家を出ることなく生涯を終えた人でした。しかし「荒野をみたことがないがヒースを知っている/神と直接話したことはないが天国を知っている」という詩を書いています。私たちは国内外を問わず、遠方に旅行し「見て来た」と言います。何でも目で見て確認しなければならない、視覚偏重の社会なのです。それは、工場労働者が「目視と確認」を義務づけられる産業社会特有の現象なのではないでしょうか。

2.《見ると知る》 本当は「見る」と「知る」とは余り繋がっていないのではないでしょうか。旧約聖書の「知る」という語は、単に「理解する、悟る」程度ではなく、「まぐわう、愛する」という意味さえあるのです。本当に「知る」とは、体験として「知っている」ことなのです。マルグリット・デュラスの『ヒロシマ私の恋人』は、戦後の広島に映画ロケに訪れたフランス人女優と日本人建築家との対話で構成されていますが、「私はヒロシマを見た」と語る彼女に、彼は「君はヒロシマで何も見なかった。何も」と応えるのでした。

3.《不合理故に》 この手紙が書かれたのは、ドミティアヌス帝の迫害時(1世紀末)かトラヤヌス帝の迫害時(2世紀初め)と推測されています。もはや、イエスさまに直接お会いした人たちではないのです。その意味では、私たちと同じ立ち位置にあります。私たちはキリストを見たことがありませんが、キリストを信じていているのです。「見たこともないのに信じるのか?」と不信者から嘲笑されても、信じて行こうとしています。テルトゥリアヌスは「不合理なるが故に我信ず」と言いました。知性を犠牲にして、無理に信じ込むのではありません。むしろ、私たちの知性の限界を自覚した上で、それを超える御心を思う時、「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れる」のです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 19:42 | 毎週の講壇から

2014年11月11日

11月第3主日礼拝

      11月16日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”見たこともないのに” 音楽     朝日研一朗牧師
聖  書  ペトロの手紙T 1章3〜9節(p.428)
賛 美 歌  27、574、490、376、481、88
交読詩篇  77編1〜16節(p.87)

賛美歌練習 (12月の月歌:253番) 礼拝後   於 礼拝堂
あいさつの会(相互交流の会)      賛美歌練習後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 05:49 | 毎週の礼拝案内