説 教 ”星を数えて砂漠に立つ”

聖 書 創世記 15章1〜6節(p.19)
賛 美 歌 27、574、490、227、451、88
交読詩篇 77編1〜16節(p.87)
・教会資料委員会有志主催「かかわりをあらたに」読後感想会
正午〜午後1時30分 階下ホール
会費:200円(おにぎりと茶菓を用意しています)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏み躙り、向き直ってあなたがたに噛み付いて来るだろう。」(7:6)
1.《猫に小判》 エジプトのファラオ、ネコ2世の他に、聖書に猫は出て来ないと思っていました。ところが、カトリックが正典にしている旧約聖書続編「エレミヤの手紙」には、蝙蝠や燕と並び、猫が登場して、神殿の偶像の上を歩き回ります。猫を飼う習慣はエジプトから世界中に広がりました。『不思議の国のアリス』のチェシャ猫から『妖怪ウォッチ』のジバニャンまで、キャラ化が多いのは、それだけ擬人化し易いのでしょう。私たちは猫に人間の姿を投影しているのです。
2.《犬に小判》 「猫に小判」は「たとえ金の小判のような値打ち物でも、猫が持っていたのでは何の役にも立たない」という意味です。「犬に小判」という諺もあったそうです。福音書が「犬に与えてはならない」と言う「神聖なもの」とは、神殿に奉げられた供え物の肉です。神殿に仕える祭司だけが食べることを許されていました。要するに「聖別された物」を「犬畜生」に与えるなという教えです。ペットを我が子のように愛する人の数多い現代と異なり、聖書の時代には、犬も猫も「汚れた動物」と見なされていたのです。
3.《豚に真珠》 当教会では、収穫感謝日の愛餐会は豚汁が恒例ですが、聖書の世界では、豚は犬猫以上に汚れた動物と考えました。食べるどころか、触れることすらタブーでした。豚の家畜化は中国から広がりましたが、中近東では受容されませんでした。「豚に投げるな」と言われる「真珠」は「天国」の象徴です。十字架の尊さ、有難さ、「天国」の価値の分からない私たちもまた、犬猫豚に過ぎないのかも知れません。しかし、イエスさまは、そんな私たちを愛して命を捨てて下さいました。「詩編」36編は「主よ、あなたは人をも獣をも救われる」と歌っています。そこに「ノアの箱舟」の物語の意味もあります。神さまは全ての被造物を救われるのです。御自分が産み出したが故に、愛して居られるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「あなたがたは、キリストを見たこともないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。」(1:8)
1.《目視と確認》 19世紀米国の詩人エミリ・ディキンソンは、生家を出ることなく生涯を終えた人でした。しかし「荒野をみたことがないがヒースを知っている/神と直接話したことはないが天国を知っている」という詩を書いています。私たちは国内外を問わず、遠方に旅行し「見て来た」と言います。何でも目で見て確認しなければならない、視覚偏重の社会なのです。それは、工場労働者が「目視と確認」を義務づけられる産業社会特有の現象なのではないでしょうか。
2.《見ると知る》 本当は「見る」と「知る」とは余り繋がっていないのではないでしょうか。旧約聖書の「知る」という語は、単に「理解する、悟る」程度ではなく、「まぐわう、愛する」という意味さえあるのです。本当に「知る」とは、体験として「知っている」ことなのです。マルグリット・デュラスの『ヒロシマ私の恋人』は、戦後の広島に映画ロケに訪れたフランス人女優と日本人建築家との対話で構成されていますが、「私はヒロシマを見た」と語る彼女に、彼は「君はヒロシマで何も見なかった。何も」と応えるのでした。
3.《不合理故に》 この手紙が書かれたのは、ドミティアヌス帝の迫害時(1世紀末)かトラヤヌス帝の迫害時(2世紀初め)と推測されています。もはや、イエスさまに直接お会いした人たちではないのです。その意味では、私たちと同じ立ち位置にあります。私たちはキリストを見たことがありませんが、キリストを信じていているのです。「見たこともないのに信じるのか?」と不信者から嘲笑されても、信じて行こうとしています。テルトゥリアヌスは「不合理なるが故に我信ず」と言いました。知性を犠牲にして、無理に信じ込むのではありません。むしろ、私たちの知性の限界を自覚した上で、それを超える御心を思う時、「言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れる」のです。
朝日研一朗牧師
聖句「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(3:3)
1.《20世紀少年》 浦沢直樹の長編マンガ『20世紀少年』は、60年代末から70年代初めに小学生だった世代の成長を描いた群像劇です。その物語の核と成るのが、「サダキヨ」と呼ばれるイジメられっ子で、いつも「ナショナルキッド」のお面を被っていて、校舎の屋上で宇宙人と交信しようとしています。宇宙人を召喚する呪文が「アーメンソーメン、ヒヤソーメン」なのです。キリスト教を揶揄した言葉遊びには違いありませんが、何か「アーメン」には魅力があるのです。
2.《真理の証し》 ハリストス正教会では「アミン」と唱和します。映画『野のユリ』にも描かれたように、米国南部の人は「エイメン」と発音します。「アミン」はギリシア語の、「アーメン」はヘブル語の発音に忠実です。教会では、祈りも讃美歌も「アーメン」と終わります。聖書の中にも多くの「アーメン」が出て来ますが、「ヨハネによる福音書」では、イエスさまが真理を証しする際に、必ず「アーメン、アーメン/はっきり言って置く」と宣言されます。「アーメン」は「真理」に関わる語なのです。私たちには一片の真もありません。しかし、そうであればこそ、神さまの真理(救いの約束)に信頼して行くのです。
3.《栄光を頌む》 「主の祈り」の頌栄「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」は、福音書にはありません。しかし、「ルター訳」や「欽定訳」、日本語でも「明治元訳」にはあったのです。これらは「中世ビザンチン写本」を底本にしていたのです。古い写本に無かった頌栄が加えられたのは、古代教会の信徒入門書「十二使徒の教え/ディダケー」の影響とされています。「なればなり」は「だからです」、「主の祈り」の全体の6つの祈りに掛かっています。しかし、ルターは前段の「悪の誘惑」に特に掛けて、自らのために「国と力と栄光」を得ようとすることは、悪魔の誘惑の典型であると喝破しています。
朝日研一朗牧師