2014年11月10日

アーメン【ヨハネ3:1〜15】

聖句「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(3:3)

1.《20世紀少年》 浦沢直樹の長編マンガ『20世紀少年』は、60年代末から70年代初めに小学生だった世代の成長を描いた群像劇です。その物語の核と成るのが、「サダキヨ」と呼ばれるイジメられっ子で、いつも「ナショナルキッド」のお面を被っていて、校舎の屋上で宇宙人と交信しようとしています。宇宙人を召喚する呪文が「アーメンソーメン、ヒヤソーメン」なのです。キリスト教を揶揄した言葉遊びには違いありませんが、何か「アーメン」には魅力があるのです。

2.《真理の証し》 ハリストス正教会では「アミン」と唱和します。映画『野のユリ』にも描かれたように、米国南部の人は「エイメン」と発音します。「アミン」はギリシア語の、「アーメン」はヘブル語の発音に忠実です。教会では、祈りも讃美歌も「アーメン」と終わります。聖書の中にも多くの「アーメン」が出て来ますが、「ヨハネによる福音書」では、イエスさまが真理を証しする際に、必ず「アーメン、アーメン/はっきり言って置く」と宣言されます。「アーメン」は「真理」に関わる語なのです。私たちには一片の真もありません。しかし、そうであればこそ、神さまの真理(救いの約束)に信頼して行くのです。

3.《栄光を頌む》 「主の祈り」の頌栄「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」は、福音書にはありません。しかし、「ルター訳」や「欽定訳」、日本語でも「明治元訳」にはあったのです。これらは「中世ビザンチン写本」を底本にしていたのです。古い写本に無かった頌栄が加えられたのは、古代教会の信徒入門書「十二使徒の教え/ディダケー」の影響とされています。「なればなり」は「だからです」、「主の祈り」の全体の6つの祈りに掛かっています。しかし、ルターは前段の「悪の誘惑」に特に掛けて、自らのために「国と力と栄光」を得ようとすることは、悪魔の誘惑の典型であると喝破しています。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 23:38 | 毎週の講壇から

2014年11月04日

11月第2主日礼拝(障がい者週間)

      11月 9日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ” アーメン ” 音楽    「主の祈り」講解おまけ
                       朝日研一朗牧師
聖  書  ヨハネによる福音書 3章1〜15節(p.167)
賛 美 歌  27、574、490、61、475、73、88
交読詩篇  77編1〜16節(p.87)

麺@ワークV        昼食後〜3時        階下ホール
※ 焼きソバを食べて窓枠のペンキ塗りをします。出入り自由。カンパ感謝

・・・当日の音声録音を聴く
posted by 行人坂教会 at 08:23 | 毎週の礼拝案内

アカペラグループ アプレミディ クリスマスコンサート

2014年12月13日(土)に当教会にて「アカペラグループ アプレミディ」によるクリスマスコンサートが開催されます。

ご案内のパンフレットです。

クリックすると拡大された画像が表示されます。

posted by 行人坂教会 at 07:36 | 教会からのお知らせ

もう泣かなくてもよい【ルカ7:11〜17】

聖句「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると…」(7:13,14)

1.《死は愛である》 知的障碍のある子どもたちの施設「止揚学園」を創設した福井達雨先生は、牛小屋や物置、屋根裏など家の片隅に追いやられていた子たちと出会って、誰もが胸を張って生きる社会を創らねばと決意したそうです。学園創立から52年を経た今では、学園の冊子にも追悼文が多く掲載されるようになっています。「死は愛である」と書いて居られました。「葬儀の時に、私たちが優しい心にさせられるのは、死が優しい心を秘めているからではないか?」と仰るのです。

2.《ナインの寡婦》 イエスさま一行がナインの町に入ろうとした時、町の門から弔い行列が出て来ました。ユダヤ教では、死体に触れた者は日没まで汚れるとされていました。だから、弔いの参列者は最初から夕暮れまで町に戻らぬ所存でした。葬列は女性が先導する仕来りでした。「この世に死を導きいれた者」は女性である(「創世記」のエバ)が故に、葬列を導くのは女性の役目とされていたのです。それにしても、一人息子を亡くした寡婦が先導する等、悲嘆の極みです。

3.《手当てする主》 聖書で「孤児と寡婦」と言えば、社会的弱者の象徴です。しかし、お金が無くても葬儀は出さざるを得ません。そして、葬儀には金が掛かるのです。悲しみの中で、その手配もしなくてはなりません。当時は「棺」と言っても「戸板」のような物でした。遺体に触れたら汚れるので、無関係な人が触れぬように、警告のために「泣き女」「笛吹き」が雇われていたのです。しかし、イエスさまは近づいて、御手を置かれたのです。誰もが触れたがらない所にこそ、一番大きな悲しみと孤独があるからです。それ故の「手当て」です。「憐れみ」はギリシア語でも「内臓」を意味し、そこに「心」が宿っていると、古代の人たちは考えていました。一番、痛みを感じている所に心を向け、手を置かれたのです。「寡婦」もアラビア語の「痛みを感じる」の語と繋がっているそうです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 06:56 | 毎週の講壇から