説 教 ”恵みの年とするために”

聖 書 ルカによる福音書 4章16〜30節(p.107)
賛 美 歌 27、49、490、368、431、76、24
交読詩篇 40編1〜12節(p.48)
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標語 『求道〜道を尋ね求める〜』
主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。
(詩編25章4節)
聖句「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。…』」(2:10)
1.《クリスマス》 世の中では、クリスマスの季節が終わってしまったかのようですが、教会暦では、1月6日の「公現日」までの12日間、クリスマスの祝いが続きます。2月2日の「主の奉献の日」(神殿で献げられた日)に初めて、常緑樹の飾りを外して、代わりに?燭を立てる(キャンドルマス)教会もあります。
2.《天国と地獄》 そもそもサンタクロースも12月6日に来て、良い子にはお菓子を、悪い子には鞭を与えていたのです。文字通り「飴と鞭」です。ヘンリ・ナウエンは20世紀の霊性を代表する信仰者ですが、「私たちは、神を警察官かサンタクロースのように誤解しているのではないか」と問いかけます。罪を犯すと捕縛する警察官、良い事をすると御褒美をくれるサンタ…。でも、神は私たちの営業成績を診て、天国か地獄かを決めたりなさらない。神には憎しみも復讐心もなく、人間が罰せられる姿を見て喜ぶこともありません。ただ神は愛なのです。神は回復を望んで居られるのです。しかし、放蕩息子の父親のように、私たちにも愛を拒絶する自由意志を与えられたのです。地獄は私たちの選択です。
3.《大きな喜び》 年末に大掃除して穢れを祓い、年神様を迎える神道行事も、「除夜の鐘」が煩悩を払う仏教行事も、陰陽道の「厄除け」から来ています。「厄」は人生の季節の変化、変化には不調があり、災難もあります。キリスト教で「厄除け」に該当するのが「天には栄光、地に平和」です。何しろ「民全体に与えられる大きな喜び」なのです。自分たちだけの家内安全を願うのはエゴでしかありません。自己中心の価値観が世界全体を破滅させるのです。「大きな」は「長く高く広く豊かで驚くべき」の意味です。「御心に適う人にあれ」と言われる「平和」も、単なるスローガンや「絵に描いた餅」ではありません。「御心に適う人」は「主の喜び給う人」、神さまが「いいね」と微笑んで下さる生き方なのです。
朝日研一朗牧師
クリスマスイヴ賛美礼拝の式次第と音声録音をご紹介します。
聖句「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」(1:28)
1.《リタさん》 NHK連続テレビ小説『マッサン』のモデルは、ニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝とリタ夫人です。リタ夫人は余市教会付属幼稚園にも名前を残しています。ドラマの中では、赤ん坊を流産し、今後の出産は命取りと医師から告知されるのです。クリスマスは、とかく赤ん坊に注目が集まりがちですが、不妊症に悩むカップル、子供を亡くした人、望まぬ妊娠に悩む人もいるのです。
2.《辛い告知》 クリスマスとは「受胎告知」「誕生告知」の物語です。ヨセフもマリアも天使から告知を受けて悩みます。族長アブラハムならどんなに喜んだでしょう。しかし、2人は身に覚えのない、責任のない子を引き受けさせられるのです。皆から祝福されてお目出度い話ではありません。犬養道子の『一億の地雷、ひとりの私』の中に、ボスニア紛争の際に、数十名のセルビア兵に、何ヶ月にも渡ってレイプされ続け、妊娠して森の中に捨てられた、見習い修道女の手紙が紹介されています。彼女は、暴力と憎悪によって生を受けた自分の子が、愛と赦しの生きた証人、平和の建設者となるように育てたいと言うのです。
3.《神の道具》 マリアは天使の告知に促され、自分には何の責任もない子どもを産み、育てていくのです。そこにクリスマスがやって来るのです。その時、天使はマリアとヨセフに「主があなたと共におられる」と預言しているのです。マリアにとっては、ただ、恐ろしく不安なだけの告知なのです。それなのに、天使は「おめでとう」等と言っています。「万歳」「今日は」「喜べや」とも訳せます。所謂「アヴェ・マリア」です。少しも喜べませんが、マリアは「私は主の端女です。お言葉通り、この身になりますように」と応じて、引き受ける決心をするのです。「神の器」「神の道具」として我が身を差し出して行ったのです。その時、「主は共におられる」のです。これこそがクリスマスの奥義なのです。
朝日研一朗牧師
聖句「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、…そして、その子をイエスと名付けた。」(1:24,25)
1.《非常識と嘘》 皆さんはサンタクロースの存在を信じていますか。我が家の二男は中学生ですが、今年もサンタへのお便りを書いて玄関の壁に貼っています。「サンタさんを信じている人の所に、サンタは来るのだ」と教えた親もあります。全くその通りなのです。信じなければ、来る者も来ないのです。
2.《奇跡と偶然》 所謂「処女懐胎」も常識では理解できないことです。「嘘だ」と言う人が普通です。また、科学的に実証できると主張する根本主義者も本末転倒です。キリスト降誕そのものが常識外れな出来事だったのです。有り得ないような神の愛の奇跡を物語ろうとしているのです。「奇跡など信じない」という態度は珍しくありません。何か善い事があっても「偶然」と受け止めるのでしょう。その意味では、奇跡を信じない人には、奇跡は決して起こらないのです。信じなければ、起こるものも起こらないのです。普通に考えれば、奇跡などは「有り得ない」のです。しかし、それだからこそ「有り難い」のです。それ故にこそ、嬉しいし、感謝の心も自然と湧き上がって来るのです。
3.《決断と応答》 ヨセフにとっても、マリアの妊娠はショックでした。積み立てていた10シェケルもの「花嫁購入金」を支払って、漸く婚約が成立し、1年間の婚約期間が始まったばかりでした。不義密通を訴えれば、婚約解消は可能でしたが、マリアの命はありません。そんな時、夢に天使が顕われて御言葉を告げたのです。私たちならば、目が覚めて「何だ、夢か」と落胆する場面ですが、ヨセフは命じられた通りに、マリアを妻として迎え入れたのです。「神の声を聞く」のは「聞いて決断する」ことです。人が聞く場合だけではなく、神が人の祈りを聞き届けて下さる場合にも使われます。対話的な語なのです。人間が呼び掛けに応えて生きる人格をもった存在であるから、神は語り掛けて下さるのです。
朝日研一朗牧師
聖句「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。」(2:3)
1.《クリスマスの停戦》 英国の短編アニメ『戦場のキックオフ』は、第一次大戦時、塹壕戦をしていた英独軍の兵たちがクリスマスを迎えて、無人地帯でサッカーを始めてしまう物語です。これは実話ですが、「クリスマス停戦」は奇跡のように末端の兵たちから生まれた出来事なので、公式記録には存在しなかったのです。
2.《戦国のクリスマス》 1566年(永禄9年)には、日本でも「クリスマス停戦」が行なわれていたのです。大和国の松永弾正と摂津国の三好三人衆とが、和泉国の堺で戦火を交え、膠着状態になりました。宣教師から降誕節のことを伝え聞いた弾正は、両陣営にキリシタン武士が多数いたことから停戦を提案したのです。フロイスによれば、堺の町衆の会合所で盛大なミサが行なわれ、午後には、武士たちが宴会を催し、敵味方の区別無く招き合ったそうです。停戦それ自体は素晴らしいのですが、彼らの本当の目的は喜びや和解にはありませんでした。弾正は戦況不利と見て利用したのですし、キリシタン武士たちにしても、未信者や宣教師に向けて信仰の鑑を演じて見せただけだったのです。
3.《打ち砕かれた武器》 年頭所感で安倍晋三首相は「強い日本を取り戻す」と述べましたが、我が自衛隊を米軍の捨て駒とする「集団的自衛権」発動の要件も「特定秘密保護法」の下に置かれてしまいました。武力を正義とし、戦争抑止もまた軍事力とする考えから、未だに私たちは脱却できません。「剣を鋤、鑓を鎌」はNY国連本部ビル正面「イザヤの壁」に刻まれています。「剣」は軍備と武器、「鑓」は統帥権と覇権主義です。それに対して、ヘブル語の「打ち直す/キテト」は「粉々にする」です。冶金技術によって加工を施す程度ではありません。「再利用」「平和利用」「リサイクル」等という語さえも欺瞞と看做して突き放す激烈な語です。神が先ず御自らの御子を打ち砕かれたことを忘れてはなりません。
朝日研一朗牧師