2015年02月24日

3月第1主日礼拝(レント第2主日礼拝)

       3月 1日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”この人を世の光に” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  マタイによる福音書 5章13〜16節(p.6)
賛 美 歌  27、293、490、55、573、78、26
交読詩篇  107編1〜16節(p.123)

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posted by 行人坂教会 at 08:19 | 毎週の礼拝案内

2015年02月23日

ありのままの姿見せるのよ【ルカ18:9〜14】

聖句「言って置くが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」(18:14)

1.《アナ雪》 昨年大ヒットしたアニメ映画『アナと雪の女王』の「レット・イット・ゴー」のオリジナル英語版のサビの歌詞には「ここに私は立つ」というエルサの決意表明があります。マルティン・ルターがヴォルムス国会に召喚されて異端宣告を受けながらも表明した「我ここに立つ」との信仰の言葉から来ているのです。ルターも審問の1日目には、居並ぶ権力者に気圧され、精彩を欠いていたのですが、2日目に決然と「我ここに立つ」と宣言します。夜の間、ルターは必死で祈り、主が「私はあなたと共にある」と言って応えられたとしか思えません。

2.《パンセ》 百数十年後、ヤンセン主義者のパスカルも堕落したイエズス会を批判しますが、彼には「パスカルの賭け」と呼ばれる信仰の問い掛けがあります。もしも、神の実在について賭けをするなら、実在に賭けた方が得だというのです。実在を否定して、それが誤っていた時には、その代償が大き過ぎるのです。「神の存在を信じるか」の問いは、私たちを再び信仰の原点に立ち戻らせてくれます。神の御前に立たされていることを、今更ながらに気付かせてくれるのです。

3.《真の姿》 ファリサイ派の人と徴税人の、2人の祈る姿を通して、イエスさまは「神に向き合うとは如何なることか」を教えられます。ファリサイ派は自分の行為の報告に終始して居り、徴税人を見下して、自分の幸せを感謝します。徴税人は自分の犯した罪に向き合い、それを通して神に憐れみを乞います。ファリサイ派は神を見ていないのです。ベトナム戦争の報道写真で知られる岡村昭彦は、当時「ベトナムの子供は可哀想」と感想を寄せた母親や子供に対して、怒りを露わにしています。日本社会は「他人の不幸で幸福感を味わう」「可哀想」の病気に冒されているのです。「自惚れて、他人を見下して」いるファリサイ派の方が、その傲慢さや愚かさが分かり易い分、救われる可能性があります。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:48 | 毎週の講壇から

2015年02月17日

2月第4主日礼拝(レント第1主日礼拝)

       2月22日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”ありのままの姿見せるのよ” 音楽  朝日研一朗牧師
聖  書  ルカによる福音書 18章9〜17節(p.144)
賛 美 歌  27、207、490、105、571、25
交読詩編  86編11〜17節(p.99)

・讃美歌練習(3月の月歌:293番)  礼拝後    礼拝堂
・昼食サービス(カレーライス:300円) 讃美歌練習後 階下ホール

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posted by 行人坂教会 at 07:22 | 毎週の礼拝案内

2015年02月16日

人生の旅人【ヘブライ11:13〜16】

聖句「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。…自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表わしたのです。」(11:13)

1.《ゴーギャン》 ゴーギャンの絵画に「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」と題された作品があります。タヒチ移住後、貧困と病苦の中、愛する娘の死を契機に描かれました。カトリック教会に反抗し続けたゴーギャンですが、神学校時代に学んだ教理問答「創造論」から引用したのです。

2.《ハイネの詩》 ハイネの「問い」という詩の中にも同じフレーズが出て来ます。荒涼とした夜の海辺に立つ若者が「人生の謎」を問い掛けます。ハイネはユダヤ教徒からプロテスタントに改宗しながらも、終生、後悔して自分を責め続けた人です。しかし、これは宗旨に関係なく、いつの時代のどんな人間にとっても迫ってくる問いなのです。残念ながら、近年「人生いかに生くべきか」の問いを発する若者がいません。周囲から「お前自身の問題だろ」と叩かれるのです。単に「共感の喪失」のみならず「普遍性の喪失」が進んでいるのです。産業社会のもたらした呪いの1つだと思いますが、私たちの抱える課題はお互いに共有されなくなり、各人が孤立して窒息状態に陥っているのです。

3.《カトリコス》 普遍的な問い掛けをさせない社会に成っているのです。本当は若者の青臭い問い等ではなく、「人生の秋」から「人生の冬」に避けようもなく迫る喫緊の問いなのです。長い年月、私たちが疑問を発することを止めていたにしても、いずれ向き合う現実です。幾ら長逗留をしても「仮住まい」の身に変わりはありません。私たちは「旅人」なのです。「旅は道連れ世は情け」「旅は情け人は心」とも言います。人との出会いと別れに対しても、この世に対しても、愛惜の念をもって接しましょう。今の時代、皆が個別化し、公を無視して、個人の見解だけを主張し合っています。私たちは皆「旅人」であるとの事実認識に立ってこそ、「カトリコス/普遍的な、公の」が保証されていくのです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 18:45 | 毎週の講壇から

2015年02月10日

2月第3主日礼拝

       2月15日(日) 午前10時30分〜11時40分
説  教 ”人生の旅人” 音楽         朝日研一朗牧師
聖  書  ヘブライ人への手紙 11章13〜16節(p.415)
賛 美 歌  27、207、490、509、466、25
交読詩編  86編11〜17節(p.99)

あいさつの会(相互交流の会)      礼拝後
 (さんび)礼拝堂、(聖書輪読)記念室、(Café de 行人坂)階下ホール
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posted by 行人坂教会 at 10:21 | 毎週の礼拝案内

2015年02月09日

誇る者は主を誇れ【Tコリント1:26〜31】

聖句「『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りになるためです。」(1:31)

1.《土地への礼儀》 「創立112年」と言っていますが、前身である京橋教会設立から数えてのことで、行人坂教会としては設立90年に当たります。「百年越え」は成りませんが落胆不要です。古いというだけなら、室町時代創建とされる大鳥神社や目黒不動尊に敵いません。むしろ、この地域の目まぐるしい変化を思えば、ここに今も場を与えられていることへの感謝を覚えずにはいられません。

2.《主による地縁》 ラテン語の「ゲニウス・ロキ」は「土地の守護霊」のことですが、現代の景観設計の分野では「土地柄」「場の雰囲気」です。これに、私は「地縁」の意味を加えたい。「地縁血縁」等と言うと鬱陶しいシガラミを思わされますが、「その土地がもたらしてくれた縁」「その場所で生まれた出会い」と考えてみましょう。京橋教会は関東大震災の「被災教会」でした。4年しか使用しなかった新会堂を焼失し、「エクソダス」を経て、この地に辿り着いたのです。この教会は被災者や生き残ってしまった人たちの「遣り切れなさ」を知っている教会なのです。しかも、私たちが主によって結ばれ、愛着を抱いている教会は、もはや銀座京橋ではなく、この目黒行人坂にあるのです。

3.《エクササイズ》 移転先次第で「恵比寿教会」「祐天寺教会」「目黒不動教会」「戸越銀座教会」に化けていたかも知れません。そうならないで、私たちは今ここに共にいるのです。人間の知恵と力は震災で灰燼に帰しました。だから「誇る者は主を誇れ」なのです。出典のエレミヤ書9章では、主を「目覚めて知る」こと、即ち「認識し体得せよ」と命じられています。それは、この地にあって、主の慈しみと正義と公平とを証しすることなのです。それを実践(エクササイズ)することが求められているのです。「キリストの体」もエクササイズしなくてはなりません。毎週の礼拝と祈り会を確実に守ることです。私たちが「当たり前」と思っても、当たり前のものは何一つありません。全て感謝すべきことです。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 16:45 | 毎週の講壇から

2015年02月03日

2月第2主日礼拝(創立記念日礼拝)

       2月 8日(日) 午前10時30分〜11時50分
説  教 ”誇る者は主を誇れ” 音楽      朝日研一朗牧師
聖  書  コリントの信徒への手紙T 1章26〜31節(p.300)
賛 美 歌  27、207、490、220、449、25
交読詩編  86編11〜17節(p.99)

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posted by 行人坂教会 at 07:19 | 毎週の礼拝案内

2015年02月02日

イヤな奴らもご大切?【マタイ5:43〜48】

聖句「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」(5:44,45)

1.《七人の敵》 イエスさまの教えには、実行困難と思われるものが数々ありますが、その中でも、皆が投げ出したくなるのが「愛敵」の教えです。特に「敷居を跨けば七人の敵あり」の男性諸氏からは評判の悪い。多くの信徒も「敵を作らない」努力、「敵対関係にならない」努力をしているのに過ぎません。

2.《愛の課題》 この「愛敵」の教えを掲げていながら、キリスト教会の歴史もまた抗争に次ぐ抗争でした。迫害を受けていた時代はともかく、政治権力に承認され、制度と教義を確立させ、教会が財産や領土、既得権益を持つようになってからは戦争の仕掛け人にもなりました。宗教改革も戦争をもたらしました。海外伝道も列強の植民地獲得競争とリンクしていました。近代になって漸く「住み分け」を学び、抹殺し合うことを止めたのです。教会もまた、愛の教えを実践して来なかったのです。ならば「看板に偽りあり」として、潔く愛の一枚看板を降ろすべきでしょうか。否、これが無ければ本当の地獄になります。むしろ、偽善者と罵られても、この看板を担って歩むところに愛敵は始まるのです。

3.《御大切に》 これは私たちが一生を賭して担うべき課題なのです。実行が困難であればこそ祈り続けなければならないのです。祈りとは、水を打った静けさの中に神と向かい合うことばかりではありません。悩み苦しみに拉がれても、苛々した気持ちを責められても、神に向き合うのです。この課題は、私たちの死後にまでも 及ぶのです。キング牧師は「愛敵」の根拠として、憎しみの連鎖が憎しみを増すこと、憎しみは自身をも歪めること、悪循環を断つのは愛しかないことを主張しています。『どちりな・きりしたん』は「アガパオー」を「御大切」と訳しました。私の敵であっても、誰かにとっては、大切な人かも知れません。況して、神さまは大切になさることでしょう。課題として担い合いましょう。

朝日研一朗牧師

posted by 行人坂教会 at 17:47 | 毎週の講壇から